会友・河 昭一郎さんのパソコンが故障して復旧にしばらくかかっていましたが、この度無事復旧しました!(JRより早い!)
ご本人によれば、「客車は門外漢なので玉石混淆。取捨選択は米手に一任する」との事ですが、さすがは『国電の大家』、眼力は一流です。全部掲載したいのですが枚数が多いので、かつて掲載したもの、キズが多いもの、複数あるものなどは省きました。
その写真はスキャンされたものが送られてきましたが、最初の一枚が懐かしい茶色の客車でした。こんな昔の写真なのにカラーとはめずらしい!と感激しましたが、進むにつれてなんかおかしいと思い出しました。そこで河さんに「カラーですか?」とうかがったところ、「とんでもない、白黒ですよ。いろいろ調整した」とのこと。
分かりました!これはスキャナーをカラーモードにして白黒をスキャンすると出る現象です。しかし、これほど当時の色が再現されるのは偶然ですからご覧に入れます。
ネガや写真をスキャンするときはモードを「カラー」ではなく「グレースケール」にすると純黒調に近い調子になります。でもこの写真はあまりにもカラー写真に近いので、あえてそのままにして掲載しました。
⇩さて、次はそのオハ61系車内です。今では考えられない板張りの背ズリ。グローブ型の白熱電灯と一体の通風口。下降式のよろい戸。どうですか?見たことないでしょう?動き始めるときに車体が“ミシッ”というのです。
⇩後年、高度成長期の需要に応えるためグリーン車が増強されたが、その種車にされたのはオハ61系でした。出入り口を一つにしてリクラインシートにしたが窓間隔だけは替えられず、徐々に座席と窓の位置がズレてくるという構造になって不評を買うことになります。台車をTR11からナハ10系のTR52に替えたため換算車重は増えずオのまま。
オロ612064はこの後に冷房化のため屋根を低くして、その屋上に室外機を5台、床下にディーゼル発電機を下げたので車重が増えてオ→スロ622064となります。
⇩ここからは荷物車と事業車です。
私は事業車は詳しくありません。できたら詳しい人、sueさんや西村さん、どですかでんさんにお願いしたいのですが・・・
⇩大ウタのウタは梅田のことですが、河さんは「梅田」とは梅田操車場なのか、梅田客車区のことか梅田貨車区かは分からない、と仰っています。
ルは配給車の事です。⇒梅田用品庫の事だそうです。(井原さんご指摘)
⇩この写真の後ろは、新幹線のホームが出来る前の南口の風景です。
⇩5枚の巻き上げシャッターをつけた荷物車。形式の38の8は9と共に三軸ボギー車であることを表す。
⇩ナニ2502 車体色は茶色でした。
⇩マニ34は運用が非公表で秘密裏に全国へ運ばれたそうな。
⇩マニM-3217のMは進駐軍(後、駐留米軍)に接収されていた軍用車の意味。ミリタリーのMなのかMailのMなのか分かりません。M-3217←マニ322 1970年1月接収解除
⇩ナハネフ10とナハネフ11
基本的には10系の座席車と同じ構造で、ナハネ10から改造でナハネフ10になったが、その時定員が60名から54名に減員した。
ナハネ10から改造されたナハネフ10と違い、ナハネフ11は最初からナハネフ11として作られている。車長が10より500mm短い。窓の数が違う。どちらも冷房化で車重が増してナハネフ10
がオハネフ12に、ナハネフ11がオハネフ13になっている。
つづく
残念ながら荷物車や事業車には詳しくありません。ただ、オエ70の模型を作っただけですから。ところで、客車のよろい戸知っています。そして、うろ覚えなのですが。小学校6年生の時に紀伊田辺へ学校行事で臨海学校(ただし希望者だけであった。)へ行った時に和歌山からは蒸気機関車牽引の臨時客車列車でありました。帰りも同じでした。当然ですがトンネルになると窓を閉めるのですが、中にはいたずら坊主が窓を開けっ放しにして車内は煙でもうもうとした状態でした。ところがよろい戸のようにすぐに下げられるメッシュが張ったメッシュ戸というか、そのようなものがあったことを覚えています。これを閉めると煙が入ってきません。ガラス窓を閉めるよりは素早く閉めることが出来て煙が車内に入るのを防ぐことができます。この臨海学校へ行った時しかこのメッシュ戸(勝手につけた呼び名です。)を見たことがありません。他の方で体験された方、見た方はおられのでしょうか。いががでしょうか。
どですかでんさん、
網戸(当時はこう言いました)の話題は、特派員氏の「99074 客車のある風景〈6〉7月30日」に書いておりますが、外が見えにくくなるため顔をくっつけてしまいます。そうしたら顔がススで真っ黒になります。これに注意してください。
ほんまですね。米手さんのコメントに書かれていました。これは失礼いたしました。このようなことは蒸気機関車が引く列車に乗ったことがある人しかわかりません。全国でやまぐち号など蒸気機関車の引く列車が走っていますが、網戸のある客車で走らせたらどうなるのでしょうかね。一度走らせてほしいと思います。これぞ、蒸気機関車の引く列車なのですから。
クレームが来て、ビビりJRは即刻はめ殺し窓にします。
部外者ですが失礼いたします。
モノクロフィルムをカラーとしてスキャン。
数年前、(北辺の機関車たちの作者の一人)大木茂さんから、彼もカラーでスキャンしていると聞きました。そのときはデータが3倍にもなるのに何故?と一瞬考えましたが、理由を聞くのは無知をさらけ出すことになるのが恥ずかしく、その場は終わりました。
考えるに、例えば(1)カラーでスキャンした画像(3種類)のうち一つに対して例えば濃度調整をしてからモノクロに変換した画像を”A”とします。(2)次いでカラーでスキャンした画像をそのままモノクロにしたものを”B”とします。すると”A”と”B”の間には調子の違いがあるはずだと考えるに至りました。
只、3原色のどれをどういじればモノクロに変換したときどういう効果になって現れるのか?それがプロの作画技法の一つであろうことは容易に想像しましたが、「必要データ容量が3倍」に恐れをなし、フォローはしておりません。
村樫四郎様、
カラーでスキャンしますと色調調整しなければならず、なかなか純黒調にはなりません。これは白黒ネガをお店でカラーペーパーにプリントしてみればよく解ります。セピア調かマゼンタ調かシアン調のいずれかに寄ります。ですから私はスキャンするときはグレースケールで致します。データ量が3倍には気がつきませんでした。
米手作市さま
今回も大変お手数をお掛けしました。
ネット介護師を自認しておられるとは言え、雑然と多数のスキャン写真を送り付けた自分を恥じている次第です。
しかし、その中からの適切な選択と解説に感心している処です。
思えば小生は国電の追っかけをやりながらも、DC、PC、ELにも興味があって、国電を『極めてから・・・』などと考えて、取り敢えず目に着く車両は資料写真として記録しておこうと、滅多矢鱈にパチパチやったものです。
結局、国電も未だに極め切れず、その資料写真は残ったまま。
米手さんのお陰で、やっと日の目を見た次第です。
これが、『デジ青』の話題提供になれば嬉しい限りです。
それにしても米手様の暖かいお心に感激しており、自分では厚かましく『デジ青』に割り込んだ『よそ者』と思っていたのに、今回『会友』なるありがたいお言葉をいただき、感激そのものです。
ところで、今回の写真の内、自分的に『目玉』と思っているのはナニ2502、マニ 34 4、マニM-3217です。
ナニ2502は、ワキとそっくりの車が客車編成の中に混じっていて、どこから見ても当時貨物列車の『急行便』で活躍していたワキが何故?と気になったものです。
その後、荷物車不足を補うため貨物車からの転籍?が行われていたと知り、珍しい車を『物にした』変な充実感に浸ったものです。
因みに、荷物車に成るに際して高速対応のため台車交換した事も知りました。
なお、車体外部の塗装が『茶』だったか『黒』のままだったかは記憶にありません。
マニ 34 4は日銀所有の車両と言われ(車端の所有標識銘版は確認もれ)、当時何か秘密に触れたような錯覚を感じた記憶があります。
また、マニM-3217は東シナ構内で見付けた時には???だったのを思い出しました。
ずっと後になって、ネットで在日米軍の専用車と知り、戦後の『進駐軍』がこんなに長く尾を引いている事に感心したり、ウンザリしたりだった気がします。
なお、車両自体の所有者は日本国有鉄道だったようですが、当時の小生にとっては二の次
的存在のPCの事ゆえ、車端の銘版の確認をしなかったのが悔やまれます。
河 昭一郎様、
最初にお礼を申し上げます。
デジ青をもり立てて頂き、会員の一人として感謝申し上げます。これからも続けてお願い致します。
また、勝手に「会友」などと書きましたが、貴重なご投稿をいただけることはデジ青の品格も上がりますので会員仲間の心づもりでそう書きました。私はデジ青を通じて交流させて頂いています河 昭一郎様はじめ、まだお会いしたことがない村樫四郎様や宮崎繁幹様も全て会員と同じ気持ちで投稿・回答させて頂いております。いつかお目にかかれたらどれほど楽しいか!と思いながら書いていますので、失礼がありましても、皆様、お許しください。
客車の珍しい写真をいろいろと見せて頂き、有難う存じました。貨車型客車のナニ2500の解説中に、塗色への言及がありました。
『ナニ2502は、・・・、車体外部の塗装が『茶』だったか『黒』のままだったかは記憶にありません。』
以前、京都市電600形を御紹介の際に、米人ファンGordon Davis氏の作品をお見せしましたが、彼の記録の中に、ナニ2500が編成中にある列車をカラーで捉えたものがありました。外野から失礼して、ご参考に添付します。車番まで読めませんが、形態が河様のナニ2502と同一ですので、初期車2501-2504の内の何れかと思われます。大分汚れてはいますが、牽引機C59の黒色よりは、後続の省形客車に近く見えますので、これは、やはり客車標準色のぶどう色なのでしょう。
宮崎繁幹様
お久しぶりです。
C59の牽く列車にナニ2500、どこで撮られたものでしょうか?たぶん東海道本線でしょうね。それにしても貴重なカラー写真です。私も撮ったことがあるのですが、色となるとはっきりとは思い出せませんでした。なにかススに汚れた色で、黒だったかといえば客車列車の間に黒い貨車の感じはなかったですし、かといって、“茶色い貨車”の記憶もないし、迷っていました。やっぱり“データ情報量”三倍の値打ちはあります!
米手作市様
いろいろいじったカラー画像データををソフトで直にモノクロに変換すると、モノクロで一発スキャンとイコールになると考えておりますが(私は上記したように試していません)いかがでしょうか?河さんのカラーをそのままモノクロに変換してみた結果はいかがでしょうか?
河昭一郎様
お名前は、私は昔国電ファンでしたので、ピクトリアル誌上などで雲上人として拝見していました。昔の珍しい写真、楽しみです。
このスレッドの写真はすでにカラーモードでスキャンされたものをお送りくださっていますので改めてのスキャンはしておりません。最初の一枚、オハフ61の写真の状態です。
そのデータから色情報だけを抜きました。それがそれ以外の写真です。本来ならばこのスレッド全てが茶色いのですが青い客車が出てきて気がつきました。
宮崎 繁幹 様
Gordon Davis氏は有名ですネ。
掲載された氏の写真が『茶色で客車色』だった事を物語ってます。
ところで撮影場所ですが、関西地域に見えますが何処だかが??です。
架線がコンパウンドなので吹田以西かと思われますが、手前から2線は本線仕様で、その先にシンプル方式の追加線路が有るように見えます。(これは、駅構内の側線かも。)
はて、吹田以西で本線が2線しか無かった区間は?となると神戸以西かとも思いますが、その場合、背景のニッサン石鹸の看板と共に、広大な『平野』は何処かが又また『?』です。
当然、姫路電化は未だ未だの頃でしょうし。
ひょっとして大船以西で沼津までの何処か?と、考え出したら『夜も眠れない!』(笑)
村樫 四郎 様
雲上人などと仰っていただき、ありがとうございます。何か『こそばい』感じです。
世の中には上には上が居はりまして、私が『雲上人』やったら、その上には『宇宙人』(アレッ何か違うか…?)じゃなくて、『成層圏』の人(これも変?)がようけ居はります。
なので、未だ未だ『勉強』『勉強』ですネ。
掲載された客車のうち、その後改造されて救援車になったものがありますので、少し補足します。
◆マユ35 1 → マユ35 2001 → スエ31 180
八戸機関区の救援車になりました。最終的に採光窓を閉鎖しましたが、ほぼマユ35の姿をとどめていました。
◆カニ38 1 → スエ38 8
佐倉客貨車区の救援車になりました。生まれはマロネ37341で、昭和13年の阪神大水害で摂津本山-住吉間で立ち往生した15列車に連結されていたり、戦後は連合軍専用客車に改造されたこともあり、最後は異色の荷物車に改造されました。
◆カニ29 22 → スエ38 7
茅ヶ崎機関区の救援車になりました。これも生まれはマロネ37333で、戦後は連合軍専用客車を経てカニ29 22になりました。
なお、配給車の「ウタ」は「梅田用品庫」で、2013年3月16日の[31628]「梅田貨物駅138年の歴史終える」に湯口さんのコメントがあります。
また、マニM-3200については、旧掲示板2008年9月2日[1564]で藤本さんが記されています。
文中の●●部分について申し添えます。
1962-11-19 京都駅 カニ38 1
1965-3-25 品川駅 ナニ2502
1964-9-6 品川区 マニM-3217
全て東シナです。
井原さん
ありがとうございます。●●部分、訂正しました。
救援車に改造された姿をご覧に入れます。
◆マユ35 1 → マユ35 2001 → スエ31 180盛ハヘ
1982年4月22日 八戸機関区
1971年3月13日盛岡工場改造
写真を見ますと採光窓が一部残っています。記憶違いでした。訂正いたします。
車体標記
◆カニ38 1 → スエ38 8千サク
1981年2月2日 佐倉客貨車区
1969年3月31日新小岩工場改造
◆カニ29 22 → スエ38 7南チサ
1981年2月2日 茅ヶ崎機関区
1964年2月10日大船工場改造
サボ
最後の写真ナハネフ11 2609の車体裾に帯が一本入っているのに気付きました。どなたもコメントされていませんが、あれは信託銀行が車両新造に関わっていた時代の、信託物件である証ではなかったかと思うのですが、覚えてられる方、おられませんか?
K.H.生さま 信託物件だったか否かの記憶はありませんが、車体裾に白線の入った客車は、〇〇観光号と云う寝台急行列車に使用されていました。〇〇には、九州や関西などがありました。団体専用列車で、旅行社が募集したツアー客を目的地まで運ぶ列車と思います。白線以外には、同一形式他車と相違はなかったらしく、ポツンと他の列車中に組成されているのも、見かけたように憶えています。
当時は観光地に観光ツアー団体客が優先的に乗車できる『〇〇観光号』という列車番号3000番台の不定期列車が運転されていて、車体裾の白帯はその専用車である事を示しています。
乗車率の低い時期には一般客も乗車できたという話もどこかで読んだような?
そして車両の運用の都合によって一般車両が組み込まれたり、白帯車が一般列車に組み込まれることもあったとか?
白線入り10系寝台の件
利用債で作った観光団体列車用車輌は、オハネ17・ナハネフ11の600番台だったかと思います。室内構造も少し異なっていたようですね。
鉄道ジャーナルNo.190 p44-45や、Webでは次のページ辺りに書いてあります。
https://www.mamezoo.com/pc/PC-CLUB/LOG/SP/248-kankoudantai.html
K.H.生さん、
そんな車両がありましたね。でもこの白線(記憶ではクリーム色だったような・・)はその種別では無いと思います。佐竹先輩の『日本の客車』でも「昭和30・31年日車・川車で110両製造された3等寝台車(略)購入予算の関係から民有車両方式が採用され・・」とありますが線は入っていません。
私が米原で撮ったスハフ43の写真を添付しますが、これは昭和26年の製造ですから民有ではありません。初期の「はつかり」はこの線が2本入っていたように思います。
TH42様
元々白線等は、いわゆる一般車と区別するために車体に引き始めた物で、当初は編成単位だったと記憶しており、20系の「あさかぜ」等の固定編成が発端だったように思います。(小生は「電車屋」のため、詳細な歴史については不安も有りますが。)
しかしながら、そのカッコ良さに刺激されたのか「白線」が観光ツアーのアピール用に転用された結果、「ドイツもコイツも」やたらと線を引き出したと解釈していました。
結局それらを編成単位に固定して運用する事ができず、バラバラで運用される場合も発生し、むしろ不統一感を強調する結果を招いたものと思います。
車体に「線」と言えば、電車でも交直流車のサイクル識別のために引いたものや、架線試験車の例が有りますが、これはこれで又別の意味がありましたネ。
特急「はつかり」に使用されていたスハフ432は、大井川鉄道で健在です。
塗装は、「はつかり」時代と同じです。