秘帖の御開帳

このたび鉄道図書刊行会が復刻出版した「日本の客車」は、山科の人間国宝と崇められている“佐竹保雄さん”が入念に再校された【作品】である。掲載写真のうち3分の1位はご自身が撮影されたものと承っている。この作品の復刻出版に合わせるかのように、門下生にお話くださっている若い頃の行動記録が公開された。それが今回紹介する秘帖である。

門下生諸君!直ちに鉄道図書がある書店に走れ!到着したら「ネコの国鉄時代22号!」と叫ぶこと。そして「客車の実見を主目的に巡った若き日・昭和33年九州旅日記」を目次で探し開くと、「でたぁー」。山科ではない、九州の話なのだ。

この旅日記では須磨の大人との交流が紹介されている。門外不出の秘話?の臭いもしてくる。それより現車撮影だけでなく、現車確認には何が必要か、との話が出てくる。稿末に貧乏旅行の支出明細が掲載されている。【日本ステーションホテルクラブ】のメンバーだけに宿賃が全く記録されていない。勿論、支払い無しであった。

お母上が保存食を作られた話で思い出したことがある。Ⅱ代目会長のお母上は、でっかい焼きおにぎりを作り1食2ケ待たせたこと。母を亡くした老人の分も用意して下さったこともある。

「日本の客車」は人間国宝が青春をかけて編集作業をされた産物なのだ。今回の復刻版出版を記念してクローバー会は例会として“佐竹保雄さんを囲む会”を計画している。追って会員諸兄にお知らせするが、その前に\2,400持って本屋へ走れ!「ネコ・国鉄時代22号ですぞ!」

尚、「日本の客車」について、クローバー会も特典ツキで受付中です。

写真でつづる京阪電車開業100年展

南国土佐から桜のたよりが届いた3月10日は箕面有馬電気軌道の開業100年記念日。その年1910年は引き続き15日に兵庫電気軌道、25日は嵐山電車軌道、月が変わって4月5日は神戸電気鉄道、そして15日は京阪電気鉄道が開業した。この100年前は”撮り鉄”はまだ存在していなかったようで、”乗り鉄”の動勢を当時の新聞は伝えていた。

DRFCクローバー会は、鉄道ピクトリアルを通じ因縁浅からぬ京阪電車開業100年を記念して、会員及び会友撮影と会社提供の写真25枚で100年の歴史を紹介する。会場は京阪電車七条駅下車東へ2分、コンビニ・ファミリーマート2階、”集酉楽”。会期は2010年4月1日~30日、10時~18時の間。ただし、月曜日は休み。入場無料。飲食物は有料。

4月24日(土)18時から例会を”集酉楽”で行う。今回のテーマは【レイル掲載のC6120(奥山会員)、京阪特急物語(澤村会員)の祝賀会】、間に合えば【鉄道図書刊行会:日本の客車の再販(佐竹会員)】と大盛りです。会費は3000円、申し込み受け付けは先着24人まで。FAXは075(315)7801(4月22日まで)、電話は090(3654)8224:沖中まで。入学年度と氏名を正確に告げてください。席上、今夏発売予定の鉄道ピクトリアル特集”阪急電鉄”・グラフコーナーへ参加希望者を募集します。そしてテーマについて提案行います。また、11月7日(日)ホームカミングディの内容について幹事会+加太会から提案を行います。以上、今年も多彩な行事がてんこ盛りのクローバー会となりますが、ご協力お願いします。

続・乙訓の薫風 ロミオ君さよなら運転

やっと15日に新聞報道があったが、中身に乏しいので少々アチコチに問い合わせをしていたのでお知らせが遅くなってしまった。まず土日ダイヤの2/21,27,28は桂12:10出庫で河原町へ、折り返し12:30河原町発で京阪間を折り返し特急運用に入るようだ。桂には19:19入庫というから2/28梅田18:20発は立席満員となりそうだからおさけになると良いだろう。次いで平日2/20~26間だが、こちらも仕立は全て桂で、朝7時過ぎに河原町へ下り、7:30から特急運用に入る。梅田13:20発で河原町到着後、回送で桂へ向い少憩後、再び15:52再出庫、河原町へは回送で向う。16:09から特急運用に入るが、2/24はこの少憩時にヘッドマークを取り付ける予定。以後、最終列車まで取り外しはしない予定である。河原町で特急運用に入ると梅田で50分後の発車、更に50分後に河原町発車となるから追いやすい。但し平日河原町21:09発の特急は梅田到着後は快速急行で折り返すようで、河原町到着後どのような行動をとるのかしらない。23:24発長岡天神行となれば、老人が43年にわたり愛用している西向日まで乗せて頂けるのだが、そうは問屋は卸さないだろう。

さて「鉄」の行儀がとやかく話題になっている。JR西日本は告訴すると報道された。当然だと思う。京阪も磯島事件(枚方上手、天の川鉄橋を降りたあたりで5000系が脱線転覆)では告訴して勝訴となった。問題の本質が違うとは言え、列車妨害には違いない。「うるさいこと言うな!」の声もあるが、半世紀以上建築現場を飯の舞台としてきた老人には許しがたい行為である。叡電デナ20形引退興行でも市原~二ノ瀬間の鞍馬川沿いで、今回の行動が見受けられた。気付く度ごとに注意をしたり怒鳴ったり忙しい休日を送った。時には集めて話し合った。この時気付いたのは自動車でおいでになる輩に横着な御仁が多いことだ。昨年12/03松尾駅で「一般の人」と言われ安堵したことがある。4両が良いと教えられ、それを気遣っていた時はやはり敷地内に入っていた。1987年復活後は線路敷き内は極力入らないように気をつけている。

乙訓の薫風・ロミオ君がサヨナラ運転へ

昨秋から桂駅で乗降するルートで通勤、朝夕は車庫光景を観察している。正月輸送を終え、6300系8連最終(00イヤ50)編成が僚友54編成と共に、解体前提の留置線に安置されているのを見るにつけ、寂しい思いでいた。30日朝いない。夕も。可哀そうにと思っていたら2日朝、元気な姿を見せていた。係員に「どうしたの?」と尋ねたら、「検査のため外れていました」との答え。そこで「サヨナラ運転やるの?」と追い打ち。「やりますよ、そのうち発表します。当日は警備が大変です。」松尾で大市交車の試運転を見た時、特配の社員が上下ホームに張り付いていた。6300系ともなると大変な騒ぎとなるだろう。

ファンクラブのメンバーによると2/20は撮影会(非組合員×)が予定されているそうだ。その後サヨナラ運転を月末まで、HMも取付予定。いずれ発表があると思う。その時は本欄で紹介しよう。関東勢のみなさん、親兄弟に顔見せに帰郷しませんか、クラブメイトも待っていますよ。西向日、長岡天神に案内役が待機しています。準特急君がデイ100系4連撮影場所、小畑川鉄橋上手(おっと今は下手)から左岸を上流に徒歩3分、老人の陋屋があります。餃子定食のある{大阪王将}へは徒歩7分です。ロミオ君に手を振って「バイバイ」やるメイトさん、お声掛けください!

続・電車は4両がええ

元電車少年は電車の話となるといまでも眼の色、顔の色、爪の色も変わる。4両がええなあとなったのは、線路脇でカメラを構え1列車を入れるのに頃合いの角度となるからであった。理由は窓の数、台車の格好がよく分かったからだ。この話を高橋師匠にしたら、「架線柱の間隔は何メーター毎か知ってるか?」との質問があった。元電車少年は知らなんだ。「50メーターおきやで。」と教えられた。「これをもとにしてパンタの位置を頭の中で計算して撮るのに4連が一番うまい具合に入る。」つまりパンタと架線柱が重ならない方法だとのこと。それから時々意識するようになった。でも、どの電鉄でどんな形式の4連での話しだったかは覚えていない。準特急さんの写真をわくわくしながらみせていただいているが、近鉄2200系4連、おしいなぁ-。奈良線900系片パンならうまくいったかも。小田急ちょいと首ひねれば・・・・・・。汽車撮る時はハエ叩きを意識したものだが、電車はパンタと架線柱、元電車少年は窓配置と台車。50ミリ標準レンズ1本、1/500で勝負していた時代のお話。今は撮影機材に恵まれているが、元電車少年にはPC同様さっぱり理解できない見えない世界のことだけに悔しい。でも皆さんのおかげでたのしい世界を垣間見る事が出来て、冥途の土産話は増える一方だ!

洛西をめぐる話題

元新京阪線が現在、桂~洛西口間で高架工事をしている事はかぶりつき愛乗者はよくご存じと思う。その一人、老人は工事着手以来、連日観察しているが、いよいよ仮線切り替えの日が迫ってきたなと思われる姿となっている。この工事は京都市道中山・稲荷線と立体交差するためで、現在、交差部分上り方には洛西口駅があり、この駅設置の時は仮駅構造で開業した。今回、東側にまたしても仮駅が設けられ、本線東側に敷設中の仮線使用時に切り替えられる。交差部の新設本線上への勾配距離を勘案すると、建設される本格駅の位置は下り方(京都寄)に移設されるようである。切り替え日の発表はまだないが、先日、南茨木~正雀間に新設される”摂津市”駅の開業日を3月14日と発表しているから、それに合わせるのではなかろうか。元新京阪線では更に長岡天神~大山崎間でも新駅の建設が確定しており、新京阪らしいぶっ飛ばす-といってもJRには負けるが-区間が次々と消えていくのは寂しい。

人気物クミオ君こと9300系、12月に入り07、08編成が走り出した。一方、ロミオ君こと6300系は、00、30編成2本しか見られない。04編成は桂で留置中、07編成は正雀で暇を持て余しているのではないだろうか。クミオ君は後2本新造されるらしい、との話も耳にした。ロミオ君撮影は早いうちに……。

次いでJR嵯峨野線は、3月13日から京都~園部間の残る単線区間の複線化に伴いダイヤ改正が行われる。スピードアップ、増発と共に国鉄時代の車両は一掃されると新聞発表があったが、老人は車両についてはほんまかいな、と思っている。過去にもこのような発表があったが、依然として113系が轟音と共に運用される場面に出くわしたことがある。いくら更新したといってもあの轟音はお断りしたい。

続々東海道あれこれ①

三島で宿(アルファ・ワン)を予約したのは2度目である。BHを利用するようになったのは1989年九州旅行の時からで、夕は居酒屋、朝はコンビニのスタイルが確立した。宿は駅前だから荷を置くや5軒先の居酒屋へ潜りこんだ。魚料理売り物の「庄屋」と称する店で、縞鯛の煮付け、おでん、胡瓜の糠付け、飯1杯、ビール大1本で2,500円で釣りがきた。ほろ酔いで宿に戻りしばらくニュースを見ていたら寝てしまった。深夜3時過ぎに目が覚めた。風呂に湯を入れ目覚まし代わりとする。ひげをそり、0415からテレビ観賞。自宅でも土曜日のこのスタイルは変わらない。

 こんなことで三島駅には7時前に登場である。霧が濃い。喫茶店が見当たらないので天麩羅そばを賞味する。伊豆箱根のホームには西武の中古車が客を待っている。「霧のため徐行運転をしておりますので全列車5分遅れています。」と、アナウンスしている。自動改札器は自社線キップとJRのキップを一緒に入れろとあるので2枚入れた。ピンポーン、通してくれない。きっと老人のジパングの方に問題があるのだろう。ホームの中古車は100系の後期車で、最近引退を始めたグループのものだ。1301140122013連だ。これに乗って一先ず大場まで行く事にした。

広小路を出たら霧は益々濃くなってきた。架線電柱の2本目が見えない。視界780mであろう。大場の手前、PSコンクリートの橋は霧に埋まって姿を現さない。この橋の架け替え工事の時、この場所にやって来た。ポン友・三好好三さんと三角トラス組の架線柱が話題となり、1994年東北旅行では仙石線矢本付近で見付け、かぶりつきから一発仕留めた。数年後、大場車庫へ向かう途中、この地で発見。車庫訪問後に撮りにきた。撤去された三角柱は転がっていた。関西では見られないもので、買収国電の線区で時折見られるものであった。

大場の駅付近は少し明るい。駅では8分遅れと言っている。霧が晴れるには後1時間かかるであろう。老人は川べりに住まいしているから分かる。昨日は雨、今日は霧、ついとらんなぁ。そうだ、830分過ぎに東京行きがあったぞ。それに乗ろう。そこで大場から三島に戻ることにした。9分おくれでやって来た300130023501編成に乗る。3001に乗って気付いた事がある。中間車3002の車内が変わっている。3扉車の扉間は明るい茶色の対向クロス22列の筈が、やけにブルーのシート地が目立つではないか。行ってみると扉間62列の転換クロスに取替えられていた。伊豆箱根JR西日本113系更新バージョンといったところである。

東京直通の湘南電車231系を待っていたら、彼方の伊豆急ホームには最新型7200系が到着。こちらの腰部分はカッテングシール張りの賑やかなものになっている。この系列の中間車は2扉車で、はじめから転換クロス車であった。座席指定にして別料金でも取るつもりだったのかもしれないが、今のところ特別扱いはしていない。元西武700系であった1000系は見られなかったから、もう引退したのであろう。当線の7時台は5列車の設定で、岳南も同様である。いつの間にかワンマン運転になっていた。

丹那トンネルを出ると快晴である。伊豆半島の東西でこれだけ気象が異なるのはどうしてであろうか。熱海では伊豆急2100系が乗り換え客を待っていたが、東急中古車の受け皿となり観光電車も引退する日は近いようである。昨春訪問が叶ったが、東急8000系の片側(海)が転換クロスに改造されており、

これには参ったなあ、と思った。これを見て伊豆急の3002号が誕生したのかもしれない。

 小田原を前にして箱根登山いや小田急の登山電車連絡専用の赤い電車と競争になったが、あっと言う間に抜き去った。箱根登山線は湯本~強羅間を4回に分けて東海道を歩いている。この話はまたの機会としよう。酒匂川を越え、恨畜生の富士フィルムの工場を後にすると“富士山”が目に入る。231系ボックスシートで東京に尻を向けている。小田原で乗客の大半の入れ替わりがあり、席の位置を変えておいた。富士は5合目辺りまで雪に覆われている。国府津を過ぎて一旦見えなくなる。二宮あたりで再び見えてくるが、今度は5合目から上で、真っ白である。神々しい思いがする。裾野を引き摺るよりきれいだ。富士を撮るなら富士見へ、富士岡へと撮り鉄のお立ち台があるようだが、老人のような乗り鉄は、あちこちに移動展望区間を設定している。このあたりで幕を引く事にしよう。(2009.12.09.記)

 

続・東海道あれこれ①

家山駅前で菓子パン2ケと自販機で飲物を調達して、気になっていた豆デジカメの首尾を点検したら2発共に失敗であった。本日やり直しは不可能である。1330発で金谷に戻る。交換した下り列車は元南海210034の2連だが外部塗装はボロボロだ。乗ったのは元吉野特急の16001、まだ荒れ果てた姿とはなっていない。この日、本線上では元吉野が2本稼動しており新金谷庫外に1本、更に庫内にピカピカが1本、計4本。1本増えているが、これが元南海の1本を追放するのであろう。当線は1日4本で運用可能。予備、全検用を各1本とすれば6本あればOKとなる。元近鉄名古屋線特急は姿を消しており、そのうち元女王様も退位の宣告を受け、全て吉野特急になる日が近いのではないかと思う……。仁蓮上人の笑顔が浮かび上って来る。その時は腰が痛いとぼやかずに「川根温泉」で治療に当られたし。

金谷1409発興津行きで東行、211系である。静岡で1454発熱海行きに乗り換え。今度は313系となる。吉原で下車、岳南鉄道である。先ずトイレへ。年を取るとトイレが眼に入るとあれこれ考えずに直行する。外は本降りとなっている。せいせいしたところで出札口へ。終点、往復」といったら、硬券と600円が返ってきた。片道350円なのにと思いながら硬券に目をやると全線1日フリー乗車券とある。出札のオバサンに聞けば土・日・祝日のみ通用で400円なのだそうだ。これはお得な乗車券である。

そして差し出されたコピー、「機関車まつり」とある。SLでなくELである。開催日は1212日(土)、午前930分~15時、会場:比奈駅、催し物【一部を紹介する】比奈駅:機関車乗車体験(会費1,000円)、吉原~比奈間:機関車重連(ED403ED402)運転、下り吉原発938→比奈954、機関車プッシュプル運転(ED403・中間に貨車・ED402)上り比奈発1303→吉原1319着、下り吉原発1404→比奈1421着。詳しくは電話0545330510に問い合わせのこと。哲男君、君が紹介した梓川上流のダム建設工事で活躍した“ELまつり”ですぞ!そして比奈駅1257には7000系、8000系の電車に加えED501ED403ED402を並べて撮影会をするとの耳寄りな話!さあ、京王電鉄で飯を食わせてもらった準特急もお出ましか!

お釣りの600円に30円加えてNゲージ1107形を購入する。孫へのお土産の追加である。15507003号で江尾に向かう。保線状態は誠によい。大井川も少しは力を入れて欲しい。上下分離方式で中部電力に相談を持ち掛けるとどうなるだろうか? ジャトコ前なる駅がある。何時改名したのか、前名は何か思い出せない。7001号入線直後以来の訪問だが、その時はどうだったのかな? あの時は7001号と青蛙の走行音に聞き耳を立てていたので駅名などかまっていなかった。

比奈にはED501が留置されている。今も入換担当なのだろう。構外には元小田急の達磨さんが3両放置されたままである。この辺りには“アパッチ軍団”は出没しないようだ。富士岡の車庫には7002号とED402403が建屋内に、ED291は屋外留置線にある。今も入換に使っているのか気になる。いずれ哲男君から当電鉄の薀蓄が披露されるであろう。

乗降客は途中入れ替わりあって延べ23人。神谷で吉原から一緒だった22人目のご婦人が下車、後は23人目の老人一人で終点到着。80002連が留置されていた。朝のどの列車に充当されるのだろうか、聞き洩らした。雨の中、頭上を新幹線が唸りを立て走り去る。近くに閑静な住宅街があるが、どちらが先住民なのか気になる。運転手君が戻ってきた。一日乗車券を見せたら「どうも恐縮です」と会釈されてしまった。老人の貸し切りとなったのは須津(すど)迄で、それからボツボツ乗降する人が増える。前回乗った時は外国からの出稼者が目立ったが、今回は殆ど見当たらない。これは東海道線でも同じ傾向で、現在の日本を象徴する光景なのである。吉原着で降車客を数えたら40人を超えていた。  

吉原1654発、三島1717着。静岡からは3132500番代ロングシート車で、本日2回目の乗車であった。始めに立てた計画では19時過ぎに三島到着だったのだが、大井川で最悪の女王様のお成りに加え雨のため完全な乗り鉄になってしまい、つまらん東海道中になってしまった。また良いこともあろうと、期待している老人である。(2009.12.08.記)

東海道あれこれ①

息子が関東圏に進出して15年になる。以来、東海道を上り下りする機会が多くなった。時間の許すかぎり普通列車に乗るように心掛けている。2009年は44日、浜松下車で遠州鉄道、静岡下車で静岡鉄道が覗けた。そして今回125日は先ず金谷からスタートである。時間を倹約するため乙訓の陋屋を640に出発、新幹線729京都発、掛川下車935から「あれこれ」開始となった。

 ちょっと省略して新金谷に1000前に到着。連絡列車ないのに、と訝る人もあるかもしれない。島田市民病院行きバスがある。新幹線829発では駄目である。電車は180円、バスは160円。20円の儲けとなる。バスは新金谷駅前には立ち寄らない。大鐡との踏切、「金谷口」で下車。徒歩3分で大鐡本社前に到着する。平日は2階へ上ればいろいろ便宜を図って貰える。土、日は階下の駅事務室に行けば「鐡」向けの応対が保障される。これは白井元副社長の薫陶によるものと思われる。今回は2007921日訪問時、京阪の元女王が検査待ちで家山に留置されている姿しか見られなかったので、今生の思い出に元気に走りだした雄姿に手を合わせたいとの念願でやって来た。盆明けにturukame氏から走り出したとの報を受け行動をおこしたのだが、関ヶ原~掛川間は晴れていたのに牧ノ野原台地へ来ると時雨れており、日頃の精進の悪さを再認識することになった。

 駅では持参した手作りの運行図表に、本日の元女王の足跡予定を赤線でなぞる。千頭1142発。なに、この筋は「撮り鉄」向きではない。金谷1302着の後、新金谷へ戻り検査入場、1705再登場となる絶望運用なのである。今回、老人は体調のこともあり「撮り鉄」ではないが、豆デジカメをポケットに忍ばせてきた。1993年春、白井昭さんから女王が川根路を走ることになると聞かされ、新金谷に留置された仮台車姿の車体を、1995年盆休みには2日間、川筋をはしる姿を追い掛けた。以来、2007年まで毎年のように「大鐡詣で」を続けてきたが2008年に途切れた。今回はどうするか、後の行程を考え奥に入ることは諦め一先ず家山に向かうことにした。

 1010発でビルマから帰国したC56が、空車の客車4両を引き連れED101の後押しで下って行った。老人は1056新金谷発で下る。この日のSL急行設定は新金谷1158発の「かわね路号」なのだが、金谷発1107発の臨レがあり、貸切バスの中高年の女性で駅売店やSLランドをうろつき賑わっている。老人もつられてC12の玩具を買ってしまった。これは孫が「トーマスとその一族」の事で爺に挑んでくるので、「日本のSLはこれだ!」と教育するためである。家山に着いて一思案。構内で上りの女王様を出迎え、下る「かわね路号」を後にして女王様に打ちまたがり金谷に向うか、どうしたものだろうかと迷う。新しいトイレで、まだ考えている。済ませて外に出ると山間が明るくなって来た。よし!決めた、家山鉄橋でお待ち申し上げようとトボトボと歩く事15分、鉄橋の下にたどり着いた。今回はゴム草履なしだから県道利用である。その頃、一度上った筈のが再び時雨れてきた。「大鐵」の鉄橋下は雨宿りにはならない。平行する県道の下、切り株に腰を下ろし「臨レ」を待つ事しばし、1143にやって来た。C11193牽引、E501後押しの客車6両の編成であった。

 そして本番、1220に切り株から再び腰を上げ、木立の間から家山駅方向が見える位置に立つ、:26前部標識灯2ケのものが到着した、鉄橋を今朝見た里帰りC56先頭の「かわね路号」が軽い足取りで家山駅構内に進入して行った。:29、タイフォーンと汽笛が程よい間隔で鳴る。鉄橋に踏み入れたところで一発、100m進行して二発目と計算して豆デジカメを鉄橋の方に向ける。一発目OK、二発目、傘が被さってきた。左手で払う間に女王様は迫ってくる。豆デジカメは言う事を聞かない。つまり連射が利かないのである。タイミングはずれた。アーア、雨の中をお迎えするなんて、大スカタンである。でも、これでもう一度、拝礼のチャンスが与えられた。今度は大井川第4鉄橋でお迎えすることにしよう。turukameさん御推薦の“かわね温泉”泊まりにすることにしよう。(2009.12.07.記)

賛書紹介「あの電車を救え!」

昨年6月中旬、衝撃的なことがあった。何時お会い出来るかと、楽しみにしていた方が亡くなったことがテレビで報じられた。この年の前年、大宮に鉄道博物館が開館した。それに合わせた年賀状に、「ぜひお訪ね下さい」と添え書きされた【岸由一郎】さん、非業の死であった。何故? それは栗原電鉄の廃線跡を地域振興で活用するため現地へ赴いておられた最中、地震に遭遇された出来事であった。

平成14年秋、吉川文夫さんから電話があり「交通博物館で学芸員なさっている岸さんをご存知ですか、」との問い合わせであった。「存じません。」「ピクトリアルで京福福井支社の開業期について発表された方です。」「それなら覚えています、あの時2度読み返した位です。」「その岸さんが十和田観光電鉄の改軌、電化直後の写真を探していらっしゃるのですが、ふと思いついたのが貴方のことです。学生時代に東北の旅をされ、十和田にも行かれましたね。」「はい、その時のメモと自家現像のピンボケフィルムはまだ残っています。」「それを彼に提供して頂けませんか。」

翌日、書留で吉川さんから聞いた住所、小金井市のアパートへフィルム1本を送った。「お役に立つものがあれば、自家現像で薄い画像ですが自由にお使い下さい。」と、添え書きを入れた。その時思い出したことがある。共に故人となった三谷、能勢両氏を加悦駅構内の“SL広場”に案内した時、加悦興産の方から保存車両整備を手伝ってくれる若いお医者さんがいるとの話を聞いた。その方は笹田さんだなと直ぐ分ったが、笹田さんと岸さんがポン友の間柄だとは全く知らなかった。笹田さんのことが趣味誌で紹介される毎に岸さんの名前が見え隠れすることに気付き、鉄道遺産保存に熱心なコンビに尊敬の念を抱くようになっていた時期でもあった。趣味が高じて鉄道遺産保存に我が身を投じた岸さんの人物像が知りたくもあった。それはいくら鉄道が好きであっても、自分の生涯の仕事に出来なかった老人の歯がゆさでもあった。そうしたことからお二人の行動に感銘を覚えた。

さて、賛書「あの電車を救え!」は、笹田さんが行動を共にした岸さんの思い出、追悼の言葉をまとめたものである。何々ブームと言われる度ごとに「鉄チャン」の資質が世間で問題にされている。私たちはどうなのだろうか、胸に手を当て反省することはないだろうか。こんな思いに駆り立てられるのは、

鉄道遺産を自分の欲望達成対象としてのみに捉えている輩が多いが、本当に鉄道を愛するなら「お二人の爪の垢でも煎じて飲んでごらん」、と言いたい老人なのである。

岸由一郎さんのような人物が今後、鉄道趣味界に生まれるだろうか。また大切な我が子を、趣味の世界に没入する事を許したご両親に、敬意を表したい。

クローバー会の諸兄はぜひご購読頂きたい、賛美の書であると思っている。

「あの電車を救え!」親友・岸由一郎とともに 著者:笹田昌宏 

発売JTBパブリッシング 1,575

RM LIBRARY 51 十和田観光電鉄の80年 著者:岸由一郎 

発行所(株)ネコ・パブリッシング 1,050

ようこそ十和田観光電鉄へ

ようこそ十和田観光電鉄へ

電化と共に1951年製・オール日立
電化と共に1951年製・オール日立
最新型は1955年製・車体と台車は帝車/電装品は東洋
最新型は1955年製・車体と台車は帝車/電装品は東洋
30屯電気機関車・1951年 日立製
30屯電気機関車・1951年 日立製

続・熊電探訪

 室園車庫から北熊本駅へ旧街道筋を炎天干しとなり歩く。やって来た藤崎宮前行きは待望のモハ51号であった。運転台にはGE4個モーター用のでっかい制御器が鎮座していた。かぶりつきで前方注視していたから車内の印象はない。駅前食堂で丼とうどんを食って水道町交差点に向け再び炎天下を歩いた。交差点から電車通りの正面を見ると、熊本城がみえた。お城見物で熊本に来たわけではないが、木陰を求め休息の場とした。その後、大江車庫まで歩き市電撮影となった。車庫では在籍車についていろいろ教えて貰い、駅前で再び市電撮影。陽が傾いたころ、大牟田に向け普通列車に乗ったのは良いとして、うたた寝となり気づいたら久留米を発車したところであった。ステホは博多に変更としたのは良いとして、台風来襲を知り逃げ帰る始末となり1年後、再挑戦となったのだが……。

富山、大阪勤務時代の業務出張では熊本市電の変化を追うことが出来たガ、「熊電」にお目にかかることはなかった。観光で熊本に立ち寄ることがあっても城か公園で、藤崎宮参りはなかった。

1967年向日町に転居してからは冬眠、やっと1986年に目が覚め鉄道趣味界に再び足を踏み入れた。新しい仲間から情報を貰い電車行脚のスタートは四国、そして九州となり198952日夕は門司港駅に着いたのであった。この時、鹿児島に向け乗った夜行列車は“かいもん”で、“玄海”は記憶違いである。3日は鹿児島市内をうろつき夕方には熊本着となり、大江車庫至近のビジネスホテルを予約しておいた。

4日は朝8時、大江車庫を訪問した。こちらも昨夜予約済みであった。現況についてお話を伺い、入庫車両を中心に車両移動もして頂き、在籍全形式撮影が出来た。その時、2人の若者が参入した。「お早うさん、何処から来たの?」「京都からです。30日の“かいもん”で鹿児島、長崎へ、昨日は熊本電鉄に行って来ました。」「なに、熊電へ!どうだった。」「71号が残っていたし、古い車もありました。」「ほんまかいな、そら行くべしや。」2人は立命鉄研現役であった。

予定を変更、午後は久留米移動の筈が昼食後は上熊本へ。出迎えてくれたのは“青蛙”であった。車庫移転先の北熊本へ。32年前は室園車庫から遠望しただけに終わった71号が迎えてくれた。

これだけで満足だが、目に付いた元静電と若者が旧型車と言っていた元小田急の廃車体も撮影した。静電がモハ100形を熊本、福井に売却したと聞いた時「もったいないことをするなぁ」と思ったが、背後に東急が居る会社だけに「さすが」と感心したものだ。片運電動車6両が入線し後にMcTc3本になったと聞いていた。ところが601号なる両運車がやって来たので、キョトンとなった。なんでも事故車復旧の際にワンマン改造に合わせ1両のみ片運にしたとか。

元小田急モハ1100110511084両を1959年に購入しているが、これらは1958年春に経堂車庫を訪問した時、110111044連と共に現役古参車として、朝ラッシュ時のみ新宿・成城学園間の各停専用で使われていた。この小田急中古車導入がモハ51形の追放に繋がり、静岡からの導入車が小田急中古車引退を促進させた。青蛙は何を蹴りだしたのかは知らない。新車を自社発注が出来ない地方私鉄は、最近大手私鉄の中古冷房車の吐け口となっている。その中で遠州鉄道は全て自社発注車で、全車冷房化をいち早く達成した優等生である。福井の熊電501形と同系車モハ300、クハ350形は冷房化されていたが、LRT構想のため2005年廃車となった。もったいない話だと思った。廃車直前の姿を紹介しておく。熊電についてはネコ・パブリッシング、RM25に詳しく紹介されており、今回参考にさせて頂いた。

熊電探訪

熊本駅に降り立ったのは195795日、夜9時を回っていた。この年716日、前期試験が終わるや始めた氷屋のアルバイトは8月30日に終わった。45日連続で(日給500円×45)+報奨金2,50025,000円を稼ぎ出し、831日夜9時発の四国連絡宇野行きで京都を後にした。翌1日は琴電、2日琴参、3日土佐電、4日伊予電、その夜は高浜港でステホをやった。翌早朝の関西汽船で10時過ぎ別府に上陸した。5日は温泉街で電車を追いかけ湯の町知らずであった。熊本では風呂に入りたいが駅前で見付からず、旅館の客引き小母さんと交渉の結果、1泊朝食で280円まで値切った。豊肥本線96に燻され道後の湯の効果は消えてしまっていたようだ。

熊本の鉄道事情など全く知らず、JTB時刻表を頼りにやってきた。奥野師匠は1つだけ教えてくれたが、それ以外はなにもなし。宿の小母さんに熊電の乗り場に行く方法を尋ねたら、駅から市電1番で子飼橋行きに乗り藤崎宮前で降りると目の前だ、と教えてくれた。藤崎宮前駅構内で先ず目に入ったのは、師匠が教えてくれた木造切妻電車。並んでいる3両のトレーラー58415757,58号が切妻、41号はダブルルーフの丸妻で関西では見慣れないタイプで、共に元電動車であったことを物語る台車構造をしている。そしてもう172号、これの出自はピク誌28号「買収国電を探る・可部線」の記事で知っていた。「原爆の日」紹介した熊電71形の1両である。

「車庫は何処ですか?」と駅員に問えば、「次の黒髪町と北熊本の間で、電車は今出たところだから、歩いて行けば20分位。その方が早いよ」との返事を貰った。このくそ暑い中をと思いつつ、教えられた道筋を辿った。砂利道を歩くうち左から単線が寄り添い、その向こうに車庫が見えて来た。車庫正門?らしき所に着いたとき前方の北熊本駅に着いた電車がある。慌てて線路寄りに移動すると、103号と名乗る3扉車がやって来た。

車庫事務所で型式図を見せて貰い筆写する。先の103号が昭和19年製(日立)と知りびっくりした。その前年に切妻木造車体の515154両が田中(現近車)車両で生まれているのだからだ。戦時体制強化で益々日本は窮乏の途を歩んでいたのに、何故こんな片田舎の電鉄に新車が入線したのか、その後も持ち続けた疑問であった。次いで202号が試運転に向け整備中、木造国電モハ1の払い下げ車らしい。福山(福塩線)で見たものが琴電に入線しており初対面ではない。簡易鋼体化されていた。201号は遠望しただけで、共に旧番号など分からなかった。電動車は他に56号があり、電装解除された55号は58に改番された。同形には57号があり竣工時より客車であった由。これら50番代が戦時下の切妻木造電車であった。

41号は元名古屋鉄道からの63形導入による供出車で、71形入線で電装解除されたのであった。他に3132号の木造客車があったが、これは改軌電化(19238月)を同時施工しているが、改軌前(3フィート)の有蓋貨車を客車化したもので、近く廃車になると聞いた。客車はモハ515456、モハ71,72、モハ101103、モハ201,20212両、付随車はコハ3132、ホハ41、ホハ57585両であった。これ以外に工作車(架線修理用)モコ1があったが、これも買収国電の一員で、宇部電鉄の木造単車がプロトタイプであった。室園車庫の一隅には木造車体が倉庫代わりに置かれていたが、これは電化当時の電車6両の一つであると教えられた。

原爆の日

同志社の鉄道ファンの皆様

 朝日新聞日曜版(BE版)などに、熊本電鉄がモハ71 被爆電車(実際には同型で既に廃棄したモハ72が被爆し、この71は下関に移動していて被爆していない)を近代産業構造物として保管し、整備しなおしたものを一般公開するという記事と写真がありました。

その画像を見たとき、同志社時代に1.2回生の頃、奈良から京都への通学で使っていた奈良電(今の近鉄京都線)の創業時の車両デハボ1000と酷似していることに気がつきました。

そこで手元の「私鉄電車プロファイル」の中の奈良電デハボ1000型の精密イラストと比較してみました。

やはり、双方とも 1928年(昭和3年)の日本車輌製造であることがわかりました。

 モハ71の方は製造当時は日本国有鉄道(今のJR)が製造を委託した車両ですが、同時代の流行を取り入れ、昭和3年の開業に備え奈良電が発注したデハボ1000の両者には共通点が見受けられます。

 ヘッドライト、一灯だけの尾灯の形や位置、少し丸みを帯びた正面の三枚窓、行き先表示板差込口などに共通点が見出せます。 扉が2扉か、3扉の違いなどはありますが。

 最近の通勤用の車両では、製造コストを下げるために発注会社が共同して共通仕様で製造を委託するケースがあります。たとえばJR東日本と東急などがあります。

 JR 東日本 E231系と共通仕様の車両

 東急    5000系 5050系 5080系

 都営地下鉄 10-300系

 横浜市営  Y500系

 相模鉄道  10000系

 下記に、熊本電鉄モハ71と ()奈良電 デハボ1000 の外観の比較をしてみました。

ご覧ください。

熊本電鉄 モハ71

1928年 日本車両製造

奈良電デハボ1000 正面イラスト

1928年 日本車両製造

 

奈良電デハボ1000  側面イラスト1928年 

日本車両製造

 画像集から撮影したため、少し反って見えます

 

200928                         河野賢太郎

拙文をお読みくださり、また「デジタル元祖青信号」転載のお申し出をいただき、恐縮に存じます。駄文でございますが、そこはDRFCHPであれば転載していただいて、当方は異議ございません。下記のように一部書き改めておきました。ただ、少し心配なのは写真は朝日新聞から、車両のイラストは出版物から、無断で複製している点であります。個人的使用という範囲で収まればいいのですが、「デジタル元祖青信号」が広く鉄道のファンの方々に読まれていますと、その点がいささか心配です。また、この文章は同志社のグリークラブのOB合唱団東京クローバークラブのHP東京クローバークラブ「タイムズ」の『てっちゃんノコーナー』にも近々掲載が予定されていますのでご承知おきください。         河野賢太郎

 

 河野さんは乙訓の老人と入学年度は同じです。土肥の雄さんの紹介で入会され以前、青信号64号には投稿されました。同好会40周年記念・大井川鉄道探訪の時にお会いしました。大学現役時はグリークラブのメンバーだったことを今回初めて気付きました。老人の幼馴染と出自の異なる先輩格のクローバー会で、ご一緒だとも知りました。本来2ヶ月前に転載するつもりでしたが、写真展その他で忘れておりました。その間に被爆電車とされました72号を、19579月に撮影したものを見つけました。その時、71号の方は元木造国電20171で北熊本・上熊本間でシャトル運行についていましたので、室園車庫から遠望したに過ぎません。そして73号となった車体は、幡生工場から回送されたままの姿で室園車庫に留置されていました。これら3両については、佐竹先輩の「買収国電」で紹介されました。ぜひ参考にされますようにお勧めいたします。       

ちょっと嘴を入れますと、熊電71型は国鉄が製造を依頼したものではありませんから、頭を整理しておいて下さい。そして今回、掲載する日は64年前、広島に原爆が投下された日です。被爆された方々に心から哀悼の意を表します。老人の親類にも被爆、亡くなった方があり、広島へいく時は必ず平和公園の慰霊の碑へお参りに行きます。1946年夏休み、母の故郷から帰京する時、兄と一緒に宮島口から広島駅前まで広電に乗りました。この時に見た広島の街の光景は、生涯忘れるものではありません。

 今回の転載についての責任は、全て乙訓の老人にあります。

湯口さん受賞・祝賀会

タイトルへの参加者を募集しておりましたが、7月22日に募集定員となりました。これで受付終了とします。

どうしても参加したいとおっしゃる方は、7月25日午後9時までに沖中の携帯090-3654-8224へ連絡願います。今後、参加OKとした場合には立席承知券を発行する場合もございます。

以上、お知らせまで。   乙訓の老人

湯口徹さん受賞祝賀会・開催のお知らせ

今もデジタル元祖青信号で大活躍の「湯口徹さん」、昨年出版された「日本の蒸気動車」が、鉄道友の会選定の2009年「島秀雄記念 優秀著作賞」に、単行本部門で選出されました。

湯口さんは先年、「内燃動車発達史」を上梓され、鉄道趣味界を驚嘆させました。この時はまだ今回の受賞制度がなく、設定2年目の本年に受賞が実現しました。

DRFC設立時からのメンバーであり、クローバー会の推進役でもある湯口さんの今回の受賞を祝う集いを、次の様に企画いたしました。皆さんの参加を待っています。

1.日時:200989日(日曜日)午後530分~午後730

2.会場:大阪梅田・お初天神通り、ニューミュンヘン本店3

  Tel 0663113381

3.会費:御一人5,000円(当日徴収)

4.申込:電話 09036548224FAX  0752118231

  E –mail : dsxhg 814 @ ybb.ne.jp  乙訓の老人コト沖中忠順

5.締切:8月1日(土)厳守。定員20人(先着順)。

呼びかけ人:DRFCクローバー会有志

続:見に行くよりあらしません

高校同級生の葬儀ありで、西院着は11:40、やれやれ間に合った。やってきた準急最後部でロートルカメラを取り出しスタンバイ。桂到着、上りホームに7人。意外に少ない。そのうち1人は友の会のS君。「撮る位置違うやないか」と言えば、「さっきまでそこにいました」と。下りホームは3人。4人目と思っていたら「今日は、お元気ですね」、と声掛けあったので振り向いてみると関鉄の成瀬伸夫氏だ。仲間と2人。そしてもう一人。対岸はさらに増えて12、3人。特急の後追いで8300系6連が列車標識を「臨時」でやってきた。「あらしません」ではなく「ありまっせ」。

一仕事済ませて14:50に桂駅跨線橋へ。早いので中華料理屋で車庫配線眺めながらチビリチビリ。15:40に支払いすませ先に眼を付けておいた場所へ行ったら40ぐらいの先客あり。ホームから逃げ出してきたのかと思い声掛けしたら、「朝はホームで夕はここですよ」とサラッとおっしゃた。それから15分ばかり昔話のやりとり。本日は8304、8311、8313・6Fの順で6300系の戦列に加わった。成瀬氏も「河原町方面からの入れ込みより、特急からの乗り換え客の方が多いですょ」とおっしゃっていた。ならば河原町へ上らすより、その昔のように長天へ準急の後追いとし、河原町発の臨特接続とした方が、JR対策にならないかと思う。ちなみに今回の臨時列車、途中停車駅は烏丸、桂~嵐山間です。H.M.なし。

行ってみるしかあらしません

阪急河原町・嵐山間に直通臨時列車が5/2~5/6間、運転されます。発車時刻は次のとおり.

河原町発 10:42、11:02、11:22、11:42、15:42、16:02、16:22、17:02、17:22、        所要時分23~24分

嵐 山発 10:09、10:29、10:49、11:09、11:29、15:10、15:29、15:49、16:09、16:  29、16:49、17:09
所要時分22~23分 使用車両は一般車6連、6300系ではありません。HMについては不明

*5/16、5/17、5/23、5/24、には天下茶屋~嵐山間に臨時列車が、1往復運転されます。

(往路)天下茶屋10:19-地下線は普通-天六10:35-桂11:14-上桂11:18-松尾11:21-嵐山着11:24 他は発

(復路)嵐山16:32-松尾16:35-上桂16:37-桂16:43-天六17:19-地下線は普通-天下茶屋着17:36 他は発
使用車両は一般車6連。2300系で運転されることはありません。以上お知らせします。

伊予は良いとこ、湯も電車もイヤされる

伊予は良いとこ、湯も電車も

イヤされる

 

伊予鉄道古町車庫は器用な工場で、四国では一番の細工をする工場だと思っている。これには須磨の大人も多分賛同してくれるであろう。図らずも老人も須磨と同じ年に伊予鉄道を訪ねている。1955年8月、前年暮れに母を天国に送り、高校生であった老人は寂しさを癒すために伊予へ向った。善通寺を午後10時頃出発、多度津から夜行列車で西へ向ったのだが満員で、今治までデッキで立ちん坊となった。松山に着くや待合室で暫くぐっすり寝てしまった。目が覚めたのが何時だったか覚えはないが、南堀端廻りで道後温泉へ、そして城北線・古町経由で高浜へ行きその後、三津浜から船で宇品へ渡った。従って古町車庫で「今日は、京都から来たのですが・・・・・・」と名乗り上げはない。

 そして2年後、1957年9月、氷屋のアルバイトを終えるや4度目の宇高連絡船の世話になり四国へ渡った。今度は琴参電車で丸亀へ。同じ筋の夜行列車としたが、夏休み後のお蔭で松山まで座席にありつき、ぐっすり寝る事ができた。バイトの稼ぎでポケットも膨らんでおり、先ず道後温泉に浸かりに行った。その後、古町車庫訪問となり、伊予の電車のあらましを知る事が出来た。今回、大人が吃驚するほど出てきたものが車号順にご高覧に供するとしてくれたので、それに従うことにする。

1号:明治44年、東京天野工場製造

松山中心に、周辺部に勃興した軽便を集約した伊予鉄道は、好調な成績を上げていたが日露戦争後、松山電軌に殴りこまれた。慌てた伊予鉄は高浜-古町-城北経由-道後-一番丁(現城北線より北寄りルート)を改軌・電化して対抗した。営業開始は明治4488日であった。松山電軌は遅れること24日、91日であった。この時、伊予鉄が導入した電車が16号であった。前面3枚窓の上部は弧を描いており、鉄道線タイプながらもオープンデッキのモニター屋根の4輪車であった。写真は戦前に軌道線用にステップ改造後、戦後の昭和30年頃に屋根をシングルアーチ化した姿である。この伊予鉄最初の電車6両のうち1354両は戦災に遭い、この16を改番したものである。昭和35年に廃車となった。

2号:1号と同じ

屋根は昭和33年廃車になるまでモニタールーフそのまま、へそライトは小屋根に上げられた。正面中央窓左下端に少し見えている伊予鉄名物、丸ハンドル型の手用ブレーキ装置である。京都のN電をはじめ大概の明治の電車は、運転台左にある鶴首形のLハンドルがブレーキ装置の相場であったのに、伊予は一味違った。

35号:大正10年、汽車会社東京支店製造

元を糺せば金沢電軌809698。戦中、呉に徴収され8082となったものが戦後解除となり昭和22年に貰われて来た。戦災で20両中9両を失った松山では、まさに干天に慈雨となった。昭和29年に休車となり、いち早く古町車庫東留置線に枕を並べていた。これら3両の屋根のスタイルをレィルロードタイプとアメリカでは云い、モニタールーフやダブルルーフとは言わない。昭和31年廃車。

67号:元大阪市電の木造4輪車の車体

大阪市電は大正~昭和初期の路線網拡大期に明治の木造4輪車の車体を近代化改造し、閑散路線用とした。元呉払い下げ車の整備をした広瀬車両が、自社にあった元大阪市電更新車体を使い、伊予鉄戦災車34号の台車を利用して仕上げたのがこの2両であった。昭和32年には既に休車状態であった。 昭和33,34年廃車。

8号:既に仙台市電、秋保電鉄で述べたので省略。昭和31年廃車

914号:大正12年、自社古町工場製造

伊予鉄は松電と経路が少し異なり、高浜、三津浜の松山の玄関口である港と城下町と道後温泉を繋なげるものであった。松電も三津港と松山市内中心部を結んだため、両社は苛烈な競争を繰り広げた。結果は資本力に勝る伊予鉄に軍杯は上がり、松電の古町付近から南堀端に向かう現在の城南線ルートは改軌されることになった。その時に増備されたのが旧716号の10両である。松電が開業時に新造した広軌車両110号は処分され、その行方は謎に包まれている。

伊予鉄は戦後昭和22年初頭に改番をしているようで、最初の自社電車を12号としているが、38号の付番は転入車とし、その後を自社増備車としている。その増備車716号の10両のうち戦災車は911,154両で,79,810,1611の改番で穴埋めをしている。写真の9,14号は原型で、13号は昭和28年から始まった車体更新後の姿。このグループは全車シングルルーフとなった。昭和3739年廃車。

1518号:昭和2223年、オガタ正機製造

蒲鉾電車第1陣であった。熊本電鉄で見られた完全切妻ではなく、前頭部は少し丸くなっていた。従って蒲鉾形と言って63スタイルとは区別していた。戦災車91115の復旧車で、旧番号を引き継いでいる。先の914号同様、同時期に車体更新をしており車体のスタイルは1号と同じ。蒲鉾車体製造は徳島のオガタ正機だとか。

1921号:大正15年、自社古町工場製造

自社製造増備車第2陣で、第1陣と同型の旧1720号の4両となった。戦災車は201両だけ。17201821と改番された。この3両も車体更新され1号同スタイルとなった。20,21は昭和38年廃車、19は先の1518と共に昭和40年廃車。

2224号:昭和24年、オガタ正機製造

蒲鉾電車第2陣。第1陣同様、昭和3132年に車体更新を受けている。戦災車1520の復旧車で、旧番号を引き継いでいる。昭和3738年廃車。

 

一味違った伊予鉄の丸ハンドル型手用ブレーキ装置だが、床面に対して約30度の角度の丸ハンドルに握り玉が付いており、最初はこれでくるくるまわす。ブレーキが効き始めたら運転手はハンドルの正面に位置を変え、足で歯止め操作と共にハンドルの輪を握りしめ、両脚をふんばり、ぐいと力を入れ停車させた。N電の鶴首型と異なり、腹を打つことなく安全であると思い、しげしげと眺めたものである。伊予鉄オリジナル車20両全てがこうした装置であったと思う。

1957年の訪問時、古町車庫内ウロウロしていたら若者に声をかけられた。藤田照明さんと云い、同じ年であった。京都鉄道趣味同好会に入会してもらい、しばらく文通が続いた。1967年、向日町に転居後、プツンと切れた。

1992年夏に古町車庫訪問の時、社員の方に尋ねたら健在であることがわかった。

 

 今回、和歌山の「蒲鉾型電車」の姿のみの紹介にしておく。

和謖・?の蒲鉾電車

栄書紹介

このたび、和久田康雄さんの「日本の市内電車ー1895‐1945-が成山堂書店から上梓された。20日夕、配達を受け「はて、なにを送っていただいたのか」と思ったが、孫に「じっちゃん、嵐電しょう」とねだられプラレールの組み立てを手伝った。気になる図書を開いたのは深夜3時30分になってからのことである。(するっと関西のおもちゃはすべて嵐電となっている。)

紐解くや、「これはこれは」となった。安楽マニアの老人には、とても嬉しい内容が満載されている。和久田さんは東京大学在学中に学内図書館にある鉄道文書に着眼され、私鉄関係について筆写され、それをまとめ鉄道ピクトリアル誌で連載された。それは世の私鉄研究の原本になり、われわれは教本の一つにしてきた。のちに「私鉄史ハンドブック」となり、私鉄史研究者の参考書となっている。これに加え統計資料から考察を加え、われわれが知りたかった車両群解明の手掛かりを提供された。

かねて現役引退後、「公文書閲覧で国会図書館通いです」とおっしゃったことがあり、須磨の大人、名古屋の朋友:重軽氏から「図書館で出会った」と聞かされていた。学生時代から後期高齢者になられた(なる?)この年まで、われわれに常に情報を提供し続けられた和久田さんに国民、いや鉄路栄誉賞をささげたいと思っているところである。

申込みは〒160-0012 新宿区南元町4番51 (株)成山堂書店 TEL:03(3357)5861、FAX:03(3357)5867 出版案内を貰えるようになると、料金、送料が後払いOKとなる。今回は本体3,570円 送料390円 計4,060をご用意ください。

汽車住宅物語を拝借して

西村氏の投稿画面を見て驚いた。鋼製車体の元電車らしい汽車住宅ではないか。こんな電車があったのかな? あれば知らない電車となる。時代は戦後、老人の目の届くところでこんな電車が走っていたのだろうか。鋼製車体にリベットがあるが、大正時代でも、終戦直後のものでもなさそうだ。扉窓の下線が客室部分より低く、扉部の客溜まりも客室より低いようだ。台車はブリル21E、モーターは高床車用のものなのか。正面窓の巾は狭いようだ。と言うことは車体巾2m位? ならば軽便電車規格かな、と解釈してみた。ここまで頭に画いて地図を出し、若い頃の日本の電車を思い出してみた。思い当たるものがない。仙台市電43形についてひねくりまわした時もこんな電車は考えつかなかった。第2次世界大戦中、鋼製車体は完成したのに電装が出来ず、達磨さんとなっていたものが各地にあったとか。京都市電600686695の車体は九条車庫に戦中に搬入されたが、終戦を迎える迄そのままであった。仙台市電43形増備車3両は戦後になってやっと陽の目をみて、秋保と伊予で職場にありついた。こうしたことが実現できなかった汽車住宅がどこかにあったのか。

 大戦中の日本鉄道界のことを回想してみた。統制品である鉄道車両は武器の一つに位置づけられ、軍需工場や鉱産物採掘地帯での輸送用以外の新造は認められなかった。そこで先ず、軽便規格から目をつけたのは東武鉄道日光軌道線である。ここには戦時中、大分交通別大線から木造4輪電動車が送られていた。これを鋼製車体に取替えのためのものかと思った。早速ピク135号を探し出してみた。別府形テ20形3両、簡易鋼体化の車体はダブルルーフのまま。関係なし。別の戦時形5両はシングルルーフの木造車で、窓配置、数も異なり2段窓である。5両共に戦後、部品をかき集め電装したとある。全て当て外れとなった。考え直さねば……。

 

西村氏から汽車住宅物語が送られてきた。表紙絵の説明では「写真は1950年代の栃木県日光市にあった電車住宅を撮影したものである」とある。当たりである。だがピク135号掲載の写真に該当する電車が見当たらない。老人が初めて日光を訪れたのは1958年春のことである。この時すでに開業以来の旧型車は、1953年新造の100形、1955年新造の200形に取り換えられており、なにも残っていなかった。もう一度ピク誌の小林さんの紹介記事と写真を点検してみた。トレーラー、ハ5761の車体形状がもう一つ分からない。昭和4年汽車会社製造のボギー車となっている。これではないかと思ったが、確証がない。どなたかご存知の方、老人の探求欲を叶えさせ毛下さい。御願いします。

 

125日、長岡天神駅で2238分発河原町行きを待っていた。目の前に停車した梅田行き快急は93058Fである。耳にした話では9300系は6本で終わりだとか。

4本目からロングシート部の背もたれが50ミリ高くなり、最初に乗った時に気になった「しゃっくり」も収まり完成度は高くなったと思っている。細かいことを取り上げるといろいろ言いたいが、少なくとも京阪3000系より、老人の評点は高い。

 1年前にニュースを入れた都電の新車、2年度で5両を2回の新造。これで7500形を追放するのだそうだ。何時登場するのか聞き忘れた。

 伊予鉄に貰われの井の頭線3000系の残党、VVVF化して海を渡るのだとか。

 今回も写真がなくてごめんなさい。