乙訓のつぶやき

本来「乙訓の老人のつぶやき」なのかもしれないが、身近なことを少々。

このところ旧京阪、対岸からは5月28日のダイヤ改正の話が聞こえてくるだけである。上り列車も高架線になることで、待避線がどのように使用されるのか、これに関心を寄せている。こちら新京阪線、洛西口駅の高架線化は昨年12月9日に下り線も仮線に移行がなり、工事を一気に進めるべく目下準備が進められている。しかし上り線高架線の構築後、下り線に着手するようで工事完成は平成27年度となっている。完成は5年先とは先の長い話だ。でもこの工事で桂駅下手の山陰街道踏切、洛西口駅上手の物集女踏切での渋滞が解消され結構なことだ。

さて5月14日土日ダイヤ改正で以前報じられた「京とれいん」が走り出す。4月23日、クローバー会総会で乗らなかった方、上りは梅田発0952115213521552の4列車です。河原町まで所要43分、快速急行なのに定期急行の2分後の後追いです。定期特急と比べると茨木市、高槻市、長岡天神が通過になっています。茨木市で普通(高槻市行)が特急待避で8分停車となっています。そして河原町は2番線に入線、折り返しにはたっぷり時間をとっています。河原町発1101130115011642発です。終発を除けば河原町で26分休憩することになり、ご老体を労わる事になります。この列車、土日のみ運転で、ご老体がへたった時はオールロングシート車で代用されるからご容赦を!

続いて朗報。河原町~関西空港間が1300円で乗れるキップが発売されると発表があった。新快速攻勢でやられ放しの民鉄、JR西日本「はるか」と比べると2,000円ばかり安くなるという。お暇な方、計算してみて下さい。これも土日昼間に河原町~天下茶屋間に20分毎に準急を走らせるようになるからだ。新京阪沿線から大阪南へ暇人を引張り込む作戦に関空連絡準急を上乗せした形だが、堺筋の繁華街、日本橋~動物園前間に阪急沿線族がどれだけ関心を寄せているか疑問だ。となると、南海ラピードに連絡する列車は、座席間隔狭い飛行機の愛用者には好評となろうが、思うようにいかぬが世の習い。しばらく静観することにしよう。

 

心を一つにして

何気なく見ていたテレビ番組、1年かかるであろうと言われていた東北新幹線の復旧が50日でなり、青森から鹿児島がつながったことが報じられていた。このためには全国から3000人の鉄道マンが集められ不眠不休の工事に当たったと言う。英国の鉄道関係者はこんなこと欧州では考えられないと、つぶやいたとか。心ないアナウンサーは「アメリカでは2年かかる」だろうと言った。これはさておき、日本の鉄道技術はこれで世界でまたもや一段と株が上がるであろう。別の番組では地震を感知する装置が東京・青森間で60か所近く設置されており、先震を感知するや全線にわたり非常ブレーキが作動するシステムになっていると報じていた。これで中越大震災の時の様な脱線事故が防げたと言う。そして、阪神淡路大震災の時は土木構築物の損傷が大きく、復旧に日数を要したと言う。日進月歩の例え通り、新幹線の復旧は早くできたが、その動力源となる【電気】の問題で常磐線の復旧工事に着手出来ないのは片腹痛い。常磐線沿線には日本の基幹産業の担い手である生産工場が多い。今わかったことは環境問題、地球規模での資源問題の事を考えても、鉄道の果たす役割が大きいことであろう。JR貨物の存在を忘れてはならない。そして「第3セクター鉄道」とJR線の関係だ。レイルがつながっているのは極わずかではないか。国土交通省にレイルの幅が一緒なら「いざ」と言う時のためつないでおけ係を設置したらどうだろうか。そして米手作市さんが言っていたDL、これも何らかの方法で保有が必要だ。日頃は遊覧線で運転してはどうだろうか。日本はとあるメーカーさんの「ジャスト イン タイム」に、政治を始め何もかも流されてしまった結果が、震災後の日本の姿を露呈しているようにも思える。いま日本国民に求められるのは「心を一つ」にして、震災復興に立ち向うことであろう。我々が愛する鉄道の役割は大きい。邪魔しないように心がけよう。

被災後一部区間を走らせていた三陸鉄道

週明けの新聞広告で「被災鉄路再生の行方」のタイトルが眼についた。以前、掲示板で紹介された「週刊東洋経済」誌である。あれ以来交通関係誌が特集された号は愛読している。先のタイトルは40頁、その44頁には「被災者の足に」に大奮闘の三陸鉄道。震災で大打撃を受けたにもかかわらず5日後に一部運転再開。赤字会社なのに運賃無料。三陸鉄道の矜持がここにある。との小見出しが踊っていた。知らなかった。三陸海岸べりの鉄路は津波の猛威の前に壊滅したものと思っていた。NHKの報道番組ではJRに関する報道が中心で、こと三陸鉄道についてはコンクリート橋の崩壊の姿が大きく取り上げられていたのが印象に残っていただけである。ところが北リアス線は久慈-陸中野田間(11.1km)を3月16日に運転再開させたと言う。次いで宮古-田老間(12.7km)を3月20日、田老ー小本間(12.4km)3月28日に開通させた。車両基地は久慈にあり、宮古側には1両しか残って居らず、それでもって1日3往復の運転しかできないとか。南リアス線はいまだに不通のままのようだが、いずれ朗報が聞かれるであろう。運転再開に当り三陸鉄道は3月一杯、運賃無料とした。分断区間、不通区間の運転再開については触れられていないが、第三セクタ-では、転換当初は好成績を上げていたのが、いつの間にか赤字となり、横浜未来博からの払い下げ車を活用するなど話題を振りまいていたが、今回の災害復旧で、国がどのような条件で手を差し伸べるのか、見守って生きたいと思っている。

京阪電車と和歌山

老人は学者ではなく一介の鉄道趣味者であり、沿線住民でもないのに幼児から京阪電車に拘ってきた。米手作市さんから京阪と和歌山の関係を解説せよとの希望があった。幸いなことに京阪電車のご厚意により「京阪100年のあゆみ」が送られてきた。50年史「鉄路五十年」と比べると、和歌山との関わりがコンパクトに、分かり易く紹介されている。

和歌山との関わりについて50年史では、毎期12%の配当を続けている和歌山水力電気(株)が業容拡大のために資本増強を図るため大阪電燈(株)との合併の斡旋を、京阪の重役に依頼してきたことに始まると記している。京阪は開業時、営業成績が振るわない時があったが、それを救ったのが配電事業であった。和歌山水力電気からの話が耳に入った当時の社長は和歌山出身であり、他所に紹介するより京阪が資本調達に応じようではないかとなり、19227月に合併(買収)してしまった。そして和歌山支店を設置、県下で発電、配電事業に加え電気鉄道(軌道)経営をする事になった。2010年(京阪開業100年)年賀状に、新造35年後の姿(1960年撮影)の、和歌山軌道線100号を、京阪本線100号代用車として使った。

和歌山支店の経営は順調であったが、京阪は新京阪鉄道建設による借金地獄解消のため三重合同電気に和歌山での事業を売却することになった。この時の社長は三重合同電気の社長を兼ねており「和歌山支店を切り離して金に替えることが、京阪自体の財政を整理する第一歩」と考えていたそうだ。和歌山支店の事業譲渡は19305月に行われ、8年余に及ぶ京阪マークは紀州から消えた。

これにより京阪本体は救われた。そして新京阪鉄道は本家京阪に加えられたのであった。そこで阪和電鉄について言及したいのだが、50年史、100年史では余り触れられていない。阪和と言えば竹田辰男さんの研究が知られており、老人の出る幕ではない。僅かに頭に残っているものを中心に綴ってみる。

阪和電鉄(株)は和歌山県下の企業家に加え大阪財界人の手で設立されたのは19264月であった。設立時の資本金は2,000万円で、京阪は40万株(15円)の内1万株(2.5%)引き受けたとされている。会社設立の翌年、金融危機があり、払い込みは順調でなかった様だ。会社設立時の筆頭株主は南紀方面に航路を持つ大阪商船で、払い込み失権株分を大阪商船と京阪が引き受け、京阪及びそのグループの株式保有量は15%であったと言う話を何処かで聞いた。そのためか、京阪からは当時の社長が取締役として名を連ねていた。

和歌山で配電事業を展開していた京阪は、営業戦略として出資者となったのであろうが、経営にどれだけ関与したのかは50年、100年史共に触れられていない。ただ車両の電気機器について、京阪と同じメーカー東洋電機(株)であった。これを介して何らかの関係があったのではないかと思われる。東洋電機設立時の社長は、京阪開業時の専務取締役を務めた渡辺嘉一氏である。京阪は開業時、代表取締役社長を置いていない。東京財界と大阪財界の関係を勘案して社長を置なかった様だ。その渡辺氏は開業を見届けるや会長となり東京に戻ってしまった。その後、渡辺氏は東洋電機(株)を19186月に設立し、英国デッカー社の電鉄電気用品製造と独自に開発した製品で今日の地歩を固めた。

東洋電機(株)の最初の製品、DK9C形の納入先は京阪であり、今も密接な関係にある。この東洋電機は鉄道省への製品納入について大変な苦労を重ねた事が東洋電機50年史では紹介されている。大容量電動機や電動カム制御器を始め、自動扉開閉器などユニークな製品が開発され、実用化された。当時の最大の需要先は鉄道省であったが、先発メーカーの高いハードルに阻害され、その成果を鉄道省への納入で発揮できなかった悔しさは、民有鉄道で花が咲いたように思える。その先兵隊となったのが京阪であり、新京阪での採用であった。そのグループに阪和電鉄も入っていたのは、京阪-渡辺ライン上にあると思う。渡辺氏の来歴は今回100年史で初めて知った。

和謖・?100号:1958.12.25 撮影

和歌山100号:1958.12.25 撮影

和謖・?100号:1960.05.15 撮影
和歌山100号:1960.05.15 撮影

アイキャン電車とは

変【12628】関西急電アイキャン色

アイスキャンデー色が話題になっていたそうだが、老人は退院後ボランティアに追いまくられ、その前のP-6の時もさぼってしまった。期変わりと共にまたまた多忙な日を送る事になるので一気に昔話を展開することにしよう。

アイスキャンデーのことを京の童は「アイキャン」と言っていた。アイキャン省電が出現したのは昭和24年9月15日のダイヤ改正の時だと、我が奧野利夫師匠は書き残してくれている。鉄道省から公社になった頃だから国電とするのが本当だろうが、こげ茶色の省電の中にあって4両1編成、流線型モハ52003+サハ48035+サハ48033+モハ52004の鮮やかな色の急電が京都-神戸間を走り出した時は、省電ファンならずとも大騒ぎとなった。老人はこの時小学校5年であった。

アイキャン屋と名付けられ、紙芝居屋と同じくジャランジャランと鐘を鳴らしつつ自転車でやってくる物売りのオッサンの商品・アイスキャンデーを収納したアイスボックスは水色であった。この色が急電の色に似ているとした名付け親がいたようだ。この年はよほど残暑が酷かったのか、印象深く語りつがれた。翌年8月から急電は関西急電色、モハ80系の湘南型に変わっている。僅か1年の命であった塗り分けであったが京都人にも強烈な印象を残して阪和線に落ちていった。

落ちた先に同じアイキャン色モタ303+クタ501+モタ302が頑張っていた。こちらの登場は流線型より3ケ月早かったとか。阪和線の山手からは青い海がこの頃は見えたのであろうか。少なくとも青の濃淡の塗り分けは大阪湾や紀伊水道の青い海を象徴しているように思われる。それが京阪神間の餓えた都会人からすれば、アイキャン屋の箱に写ってしまったのかも知れない。

さて、昭和25年前後、アイキャン屋全盛期であった。老人の縁類になる下鴨神社の「みたらし茶屋」を名乗る京菓子舗・亀屋粟義も、京菓子の原料は統制品であり入手ままならず、夏にはアイキャン製造機と言っても簡単なものだが、同じ町内の肉屋の冷凍機製造と修理を手掛ける業者に作らせ、初夏から初秋にかけて京菓子など目もくれず空と温度計を睨みつつ、アイキャン製造に励んでいた。おじさんが自慢することが一つあった。「うちのアイキャンは京菓子の色粉使ってから色と香りが良い!」であった。薄い水色とピンクの2色とほのかな香り。これが自慢であった。ただし甘味料の方は砂糖を使うわけにいかず、サッカリンでなかったと思っている。

アイキャン箱は近所の指物大工が作り、すのこの下に氷2角置いてアイキャンを30本ばかり重ねて、売り子のおっちゃんが下鴨を廻っていた。今は昔の話、大変な脱線となってしまった。

50年前の神戸電鉄

 

迷図作家さんの力作、神戸電鉄デニ11型への関心が薄いと心配して頂いている。京都人は有馬温泉を大阪や神戸の奥座敷としか心得ていないようで、地下駅から出発する電車を知らず、関心が薄いのかも知れない。ゴルフブームの中で知った京都人も多いようである。

淡路島を訪ねようとした京都の学徒は、行きがけの駄賃に関東からやって来た気動車くずれと、7月入線のロマンスカー撮影を試みた。それには地下駅は不適であるのは自明のことで、tsurukame氏を案内人にしたようだ。その地下駅の地上から歩き出し、最初のトンネル付近(地形図A)は×とし、一山越して(地形図B)地点に移動した。さっそく電車青年が目的としていたロマンスカーが現れ、更に思いもよらない電動貨車もやってきてホクホク顔になった。

ところが気動車青年が目的としていた関東ものがやって来ない。場所を替えようと再度山越えを試みるが、夢野台火葬場(現在は廃場)の正面に出てしまった。これはおかしいぞと、陽当り方向を目指すうちに線路際に辿りついた。上り方(三田方面)は順光となり誠に具合が良い(地形図C)。ただし線路際は断崖絶壁となっている。それを下り、細い水路を渡り対岸をよじ登れば視野は拡がる。これだ!となりコンクリートブロックに挑戦した。対岸の小高い土盛でしばらく待つうちに、関東ものクハ132号を従えたモハ208号が湊川へ下って行った。もちろん折り返しを待つ。試運転のため直ぐに戻ってきた。

電車少年はそれから動くことなく、展望車改造クハ141号、もう一つの関東もの「びわこ型」クハ151号のお出ましを待ったが、現れずフィルム消化に励んだのみに終わった。その最後の1コマに迷図作家さんがモデルにされたデニ14号の姿があった。

老人が鉄ちゃんに復活したのは1986年夏、吉谷和典さん逝去半年後のことであった。四散していたフィルム(NEOPAN SS)が手許に戻ってきた。その中に1960.11.0304があった。DRFC時代にプリントしたことがない。高橋弘さんにお願いして、初めて見るプリントを手にして、「この崖は何処だろう」と首を捻った。フィルムのコマ順で長田の先と見当付けたが、何処か分からない。

そのころ業界2団体の世話役をしており、会議のため有馬温泉へ出向く機会が年1度以上あった。まだ現役バリバリであったので、昼食後に出向き先等から阪急芦屋川かJR芦屋から芦有バス利用で会議の席(温泉宿)に駆けつけることが多かった。阪神大震災の前年、新開地から久しぶりに山岳電車に乗ってみた。長田を前に沿線開発のすさまじさに驚いた。震災後、沿線で幾つか復興工事のお手伝いをする機会があり、長田から丸山に向け線路沿い道路を歩いてみたが、崖であったであろう位置は土砂や廃材で埋められ、雑草が覆い面影はなかった。線形も少し直線化されたようで変化が見られるが、その頃カブリツキから撮った1カットを紹介しよう。地形図【神戸丸山衝上断層】の位置である。

湊川~丸山間の地形図による線形

湊川~丸山間の地形図による線形

デハ4号:地形図A地点
デハ4号:地形図A地点
デハ304+303号:地形図B地点
デハ304+303号:地形図B地点
デハ211号:地形図C地点
デハ211号:地形図C地点
デト1001号:地形図B地点
デト1001号:地形図B地点
104号:地形図C地点
104号:地形図C地点
クハ132号:地形図C地点
クハ132号:地形図C地点
205号:地形図C地点
205号:地形図C地点
デニ14号:地形図C地点
デニ14号:地形図C地点
画面左下が丸山衝上譁・?
画面左下が丸山衝上断層

阪神電車112型

阪急202号に続くは阪神だろうと思いながら、総本家宅裏庭の離れ屋に1月26日隔離され、配管サイセイ工事を受けていた。無事2月14日竣工検査合格となり乙訓の陋屋に戻ることが出来た。予想通り「気分は鯉の吹き流し」の素晴らしいタイトルで紹介された事が、枕元にthurukame氏からお見舞いメールで2月2日に届いた。老人撮影の写真も2月19日に到着、やっと紹介できるようになった。

日本最初の都市間急行電車として1905年に開業した阪神電鉄は1911年4月、自社事業用ボギー電動無蓋貨車1両101型101号を竣工させた。これも日本最初であった。その独創的なスタイルが迷図作家の手によって紹介されたのであった。設計目的は電柱や建設資材運搬用で、貨物台寸法は長さが約10.3m、運転台は中央に1ケ所、しかも運転台下が空白といったものであった。工事区間で見通しが効き前後の小運転に便利なように、運転台の位置を高くしたものと考えられる。

同型の増備は1912年8月112型112、113号、1931年?月112型114、115号、1956年9月121型121号の3回、5両に及んだ。101号は1929年1月30日付で111型111号に車両番号は変更された。1933年3月全線パンタグラフ統一でパンタ化された。廃車は111号(1953年)、112、121号(1958年)、113~115(1967年:昇圧)の順である。1938年1月許可で、ポールと救助器取付で国道線や甲子園線など軌道併用線でも使用された。

老人が112型の存在を知ったのは1958年初夏である。先日(2010.12.07)急逝された奥野利夫氏から阪神電鉄の小型車全廃計画を聞かされ、車両調査と撮影をしておこうと思い立ち尼崎車庫を訪ねることにした。氏に車両課の方を紹介して頂き、創業以来の車両調査を始めた。当時、奥野氏の名は私鉄関係でも轟渡っており、最初の訪問で現有車両の型式図を閲覧させていただき、2度目の時には開業時の客車のみならず貨車関係も見せて頂いた。絹布のトレーシングペーパーに烏口による1/30の原図などが保存されていた事が今も頭に残っている。第1号車は111型111号に改番された後に廃車となったが、後身が112型として3両残っていることを教えられた。その日は生憎全車、工場建屋内にあり見るだけであった。しかし、1年待てば屋外で撮影可能になると教えられ、その日を待つことにした。

その日は1959年10月24日に実現した。須磨の爺やも同行してくれたように記憶している。1年待った理由は当時、尼崎車庫は高潮対策として工場、検修施設の嵩上げ工事をしており、その後は伝法線沿いに留置される予定だと聞かされた。急行系3301、3501型に続きジェットカー量産型の搬入があり、試運転開始の報を得て出向いたら、教えられた位置に113~115号の3両が留置されていた。

113号:車体は日本車両で新製され、台車や機器類は手持ち品が再用された。当初ブリル-27G1であった台車は電気機器類などと共に1955年にブリルMCB型に変更された。この時の大きな出来事は運転台出入口が出来たことで、それまでは妻面窓から出入りしていたそうだ。新設された出入口の高さも1550粍程度で、連結器も緩衝器もない。後にレィル運搬車牽引用簡易連結器を取り付けた(緩衝器共)と言うが、見たことなしである。

114号:車体は藤永田造船所の新製、台車や電気機器類も113号同様の経過を辿るが、改造は1年早い。理由は1954年の特急用大型車300型導入に伴ない、車両限界測定車に改造された事による。更に2年後、盆踊りの櫓まがいのものが組み立てられ、架線作業兼用車に変身した。タンクが取り付けられたが用途は聞き忘れた。車庫用地嵩上げ地区最北端線に救援車709号と共に留置されていた。

115号:車体製造は114号同様である。その他は113号同様であった。

高松琴平電鉄デカ1号:1957年9月、仏生山工場で出会った。運転台は自家製。台車はペックハム製で珍しい。鯉のぼりの為には竿が必要。このデカは今も生き残っている筈。いずれまた……。

レイルロード社の阪神電車形式集は高間恒雄氏の大変な努力で刊行された。老人のDRFC時代の思い出話も役立ったかもしれない。素晴らしい書籍を作ってくれた高間さん有難う、万歳!

113号

113号

113号・運転台扉に注目
113号・運転台扉に注目
114号
114号
114号伝法方から見る
114号伝法方から見る
115号
115号
高琴電鉄デカ1
高琴電鉄デカ1

半世紀前の淡路交通(3)

電化に合わせ南海電鉄から、運輸省規格形のモハ63型20両割当見返り供出車両として、5両の木造電動車が入線した。南海からは後に2両増車された。次いで阪神電鉄の鋼製廃車体を2両購入。自社宇山車庫で手持ち部品を取付け、電動車とした。以下、奥野師匠に教えられた事を交え述べる。

*モハニ1001・入線1948.01.23→クハ101・制御車化1953.10:1961.06.20廃車。元加太電鉄モ30の旧番号を持つ。車体は南海電化時(1907.8.21)の新造車(1907.07日車)で、電1形10両のうち3号車が昭和初期に鋼体化名義車となり、抜け殻を加太電鉄に売却したものであった。加太電鉄は1942.03.14に南海鉄道に併合されたので、南海電鉄から譲渡されたことになる。車体は【10722】で紹介された軌道線101形に似た面構えの正面3窓で、台車は加藤BW型、電動機はWH101‐1(37kw×4)が加太時代。淡路では台車BL・27GE‐1と電動機は×2になっていた。譲受時価格は1,181,000円、1950年再評価で600,000円、制御車化で400,000円。阪神中古車体の再生後に廃車。

*モハニ1002・入線は前と同じ、鋼体化1955.01.10。元加太電鉄モ31。これも南海時代の1937年に鋼体化名義車になったもので、原車は製造1909.07・天野であった。これが前窓5、関西タマゴ型の最初の電車であった。台車BL27E‐1と電動機はモハ30と同型で×4となっていた。鋼体化は台枠再用で内装は木造、台車をBWタイプ、電動機をTDK‐30に、出力72㏋×4に強化している。購入時価格245,000円は鋼体化後、再評価で4,125,000円となった。1958.09.18にドアエンジン取付、1960.02.01貫通路設置、幌を取り付けた。更に台車をDT10、電動機はMT‐4・に取替、クハ112とMTc編成を組んだ姿を見ている。この届けは翌年1961.07.05らしいが、田舎ではよくある話、気にしない。

*モハニ1003・入線は前と同じ、簡易鋼体化1959.06.15。元加太電鉄モ32である。この電車の来歴は先の1002号と同じ、鋼体化は屋根を残し柱や外板を鋼製とした。台車BL27GE1、出力37kw×4、制御器・制動装置MK15・AMJと、淡路標準方式になった。

*モハニ1004・入線は前と同じ:1961.02.20廃車。次の1005号と共に南海での車歴は同じ。電3形1921年川崎造船所製造とある。その後1940年に改造を受けモユニ525,526となる。これが迷図作家紹介の木造4扉車であった。そして1944年6月開業の多奈川線専用となり、沿線に建設された川崎造船潜水艦工場に向かう産業戦士専用車として無座席車となった。終戦後、この2両は加太線に配置されていたとか。これが縁で紀伊水道を渡った。台車BL77E2、電動機の出力37kw×4、定員90人は1001~1003と同じが座席定員(60)の記載なし。阪神中古車の再生後に廃車。

*モハニ1005・入線は前と同じ、鋼体化1961.05.25。来歴は1004号と同じで車体新造の鋼体化車。淡路唯一のクロスシート車。訪問時に確認できず、後に京都鉄道趣味同好会誌”急電”で概要を知った。ここでは大阪通信員撮影のカラー写真で紹介する。台車DT10、電動機TDK30・53kw×2、制御器はPC型、制動装置はAMJとなっていたが、後年変更があったようだ。

*モハ1010、1011・入線1956.08.24。1010→鋼体化1957.06.05、モハ1011→鋼体化1958.03.20。この2両は入線後に車体新造で鋼体化された。原車は前面5窓タマゴ型の電8形132(1924.10・梅鉢鉄工)号と電5形120(1921.10・川崎造船)号の2両であった。その後、改番を経てモハ1025、1027となり共に加太線用となり、本線新車投入に伴う玉突きで淡路島へ送られた。台車BL・MCB2、電動機GE-218(52kw)×4、制御器は日立PR200、制動装置はAMJ、定員90(52)人となっていた。車体製造は昭和車両工業所と名乗る今も知らないところである。譲受価格は1,025,000円、鋼体化後の再評価で5,654,000円になっていた。

*モハ609、610・竣功1960.06。木造車101、1004号追放のため、阪神電鉄で廃車(1960.02.05)になった車体2ケを購入、宇山工場で手持ち台車と電装品で再生した。この2両、阪神時代とパンタを見れば向きを変えている。台車は609にBWタイプ、610はBL・27GE1をあてがい、電動機はTDK30・53kw×2の出力。単車走行可能である。老人は1954年秋、この2両を伝法大橋で撮影している。その2両と再会出来て感激であった。評価額は不明。

*モニ500・入線1950.07.28→鋼体化1952.10.10。元国電モヤ4003である。鋼体化までの期間が少ないところをみると、相当酷い状態でやってきたものと思える。元モハ1だけに電装機器は国鉄の標準品で送られて来ており、その後の標準化に役立ったと思われる。ただ連結器は間に合わずで、そのくだりは須磨の爺やの薀蓄をお読み下さい。入線時評価額は957,681円と記録されていた。

淡路交通にはその後、2回乗ることが出来た。1961年秋と1966年初夏に「鳴門観潮」のためであった。

1966年の時に外部塗色が変わっているのに気がついた。1960年訪問の時は窓下濃チョコレート、窓上淡クリームであったとの記憶が残っている。準特急氏から「新歓」の帰途に訪ねたと便りがあった。それが紹介されることに期待を寄せている。大阪通信員さんの思い出はいかが?

DRFC現役時代、須磨と行を共にすることは殆どなかった。しかし生中の時だけは別で、この日も15時頃の南海汽船で「深日港」に上陸、愛用していた東福寺口経由、ミュンヘンで大ジョッキを煽りながら島の鉄道について益々の隆盛を祈念した筈あった。

モハ1002

    モハ1002

モハ1003
モハ1003
モハ1005
モハ1005
モハ1010+1011
モハ1010+1011
モハ609
モハ609
モハ610
モハ610
モニ500
モニ500

半世紀前の淡路交通(2)

それでは2人が眼にした電車などを紹介することにしよう。宇山車庫で見せてもらった形式図や書類を2人は1冊の手帳に分担して記帳している。片方が記帳の時は、もう一人は外へ出て撮影をしていたようである。以下の説明は、一部について鉄道ピクトリアル161,162号を参考にした。

*キハニ1→モハニ2006:電動車化1948年6月、床下に電動機(TDK516A・85㏋×2)取付、内燃動車時代の推進軸により駆動する直接制御車とした。1955年8月、ブリル27GE1台車にすると共に電動機(WH37kw×4)は吊り掛け駆動とし、制御器はGE-PC形、制動方式もAMJ自動ブレーキとした。1957年5月、車体改造を行い上り(洲本側)方の運転台撤去、荷物室仕切撤去、貫通路の開設、定員80人(手荷物4.3頓)を乗客定員90(36)人、制御器統一でMK方式とした。更に1958年9月ドアエンジン取付をしている。

*キハニ6→モハニ2007:電動車化1948年9月、要領は2006号と同一。ところが1955年9月直角カルダン改造とあるが委細不明。1956年3月MK、AMJ化。1958年9月、客用扉閉鎖窓新設(荷扱い扉を客用に)及びドアエンジン、塗油器取付。定員は100(42))人となる。

*キハニ5→モハニ2008:電動車化1950年3月、おそらく南海から譲渡された電動機・50㏋×4と直接制御器を使用したものと思われる。その後1954年12月、当車は台車をブリル77E2からTR10に取り換え、運輸省の補助金を得て神鋼電気製の垂直カルダン方式を採用した。電動機は75㏋×4、制御器はSE・RPC‐101となった。1958年1月、貫通路設置、荷物室と客用扉撤去(荷物室扉を客用に)、ドアエンジン取付とある。定員100(40)人。尚、当車は代燃装置取外し後、トレーラーとして使用されていたらしいとの話もある。

*キハニ3→モハ2009:電動車化1956年3月、木造電動車1001を制御車とし、その電動機WH‐101H、37kw×2にした。この時の台車は日車・菱枠型である。形式図ではBL27GE1とあり、現車は日車製である。藤井信夫氏の記述によれば、後述の111号とMTc編成を組んだとあるが、訪問時は63形供出車1003号とMM編成であった。後に出力強化されたものと思われる。1958年8月車体改造と制御器及び制動装置の変更についても先の2007に倣っている。当時のメモに113→2009とあり、代燃装置を取り外した後、一時期トレーラーとして使用していたのかも知れない。また逆で2009→113として元内燃動車6両を、垂直カルダン編成3本へと目論んでいたのかも知れない。想像するのは勝手で、夢ある話だと思いませんか?

「内燃動車発達史」をお持ちでない方にほんの少し補足しておこう。キハニ1,2は川崎車両製で、全長

12,840粍。キハニ3、4は日本車両製で、全長13,120粍。キハニ5,6も日車だが、全長15,294㍉と長い。価格だが1~3は12,635円、4は16,215円、5は23,145円、6は23,845円となっていた。

*キハニ2→クハ111:制御車化1951年9月、1957年5月乗務員室、客室出入口扉一部変更及び貫通化改造とある。ハニ→ハとなったのであろう。1958年7月ドアエンジン取付。

*キハニ4→クハ112:制御車化1952年3月、1958年8月ドアエンジン化、1960年1月貫通扉設置及び運転室変更。この2両のクハは上り(洲本)方片運転台となった。これら内燃動車改造車は電動車を含め、乗務員扉を両側面に整備したりで窓配置や顔付の変わったものもある。

写真は6枚、連続して掲出する。垂直カルダンの図は三重交通志摩線5401号のものであるが、淡路交通も同一と思われる。これについて、「ぷるぷるさん」が解説してくれるとうれしい。(つづく)

モハ2006

    モハ2006

モハ2007

   モハ2007

モハ2008
モハ2008
モハ2009
モハ2009
クハ111
クハ111
クハ112
クハ112
垂直カルダン駆動の構造図
垂直カルダン駆動の構造図

50年前の淡路交通(1)

1960年11月3日、須磨は山科から、乙訓は京都から東京発姫路行きの客車列車に乗り込んでいる。既に姫路まで湘南型が直通運転していたが、敢えて客車列車を選んだのは理由があった。それはこの場で披露するのは遠慮して別の機会としよう。兵庫で出迎えてくれたのはthurukame氏であった。昼食を済ませ、彼の案内で湊川トンネルを出たところから長田に向かい歩いている。途中、火葬場の裏へまわり川ベリに出たら丸山駅前後の崖淵であった。須磨の目的は元神中、気動車改造の制御車。乙訓は湘南タイプ、WN駆動、対向クロスの温泉電車であった。好天に恵まれ3人は目的を達成することが出来た。

それ以後暫く委細不明。気付いたら2人は中突堤の飯屋で、当時流行って握り鮨(1皿3貫:20円?)で安酒を煽っていた。淡路島への渡船待ちだったのである。

JTB時刻表では淡路島への夜行便の記載なく、夜行列車愛用族はどうしたものかと思案にくれていた。その頃、旦那が新聞輸送の便船があると教えてくれた。2人は卒業後の行き先も決まった事だからと、これに飛びついたのであった。便船は播但連絡汽船の1日一便、岩屋21:20発、神戸22:50着の折返し運用となるもので、100噸位の貨物船に便乗の形であった。24:00乗船開始。案内されたのはデッキ下、エンジンルームと隣合わせであった。板張りに茣蓙、騒音と振動。この時、例え魚の干物の匂いが染みついたオハ60系であっても、汽車の夜行列車の有難味をつくづく思い知ったのであった。乗客も我々2人を除くと行商人風のオッサン連中であった。

24:30出航、志筑2:30着、同3:00発、洲本3:30着。ここで2人は退船を命ぜられた。6時まで仮眠が出来ると聞いていたが、それは嘘だった。抗議する元気もなく。淡路交通の洲本駅の場所を聞いて夜道を歩き待合室に転がり込んだのだが、寒くて寝られない。仕方なく2人は駅周辺でジョギングをすることになった。有難い事に関西汽船6時発神戸行きの初発があり、この頃に夜明けとなり港周辺の店も開店となった。そこで飯屋で定食を賞味したのだが、何を食ったのか覚えはない。

電車の洲本初発は6:10、この電車は福良5:00発→洲本5:47着で、関西汽船神戸便に接続、神戸中突堤8:30着となっていた。当時の関西汽船洲本航路は神戸8:30初発、洲本に10:40着、洲本最終17:50発、神戸19:10着があり、日帰りも可能であった。

目覚めと共に本題に参ろう。淡路交通は淡路鉄道として軌間1067粍、1914年4月10日創立、開業日と区間は次の通りである。洲本口-市村:1922.11.26、市村-賀集:1923.11.22、洲本-洲本口(宇山):1925.05.01、賀集-福良1925.06.01、福良延長線(港湾整備により埋め立て地を延長)1938.04.01、これで全線23.4㎞の開通となった。開業と共に蒸気列車が走りだしたのだが、1号機は1920年9月ポーター製の13.38頓Cタンク、客車は播州鉄道から2軸車6両を購入して対応した。路線延長による車両増備は2,3号機で、同じくCタンク1922年5月コッぺル製、13.82頓と僅かに大きいが、軽便規格と言っても差し支えない。福良延長に合わせ国鉄から18.29頓のこれまたCタンク、1914年3月ポーター製の払い下げを受け4号機としている。これは長州鉄道開業期のもので、国に買収後は形式1045となり1047号となったものであった。客車もその後の路線延長に合わせ、揖斐川電気から2軸単車7両を購入し総計13両とした。蒸機の重量はいずれも運転整備時のもので、空車時重量は9.45頓、10.97頓、15.24頓の順、価格は同じく19,400円、23,175円、5,254円と記録されていた。 

さて1920年代後半から内燃動車が実用化され、非電化鉄道でも旅客輸送が見込める地方私鉄では採用される事例が増えて来た。詳しくは湯口会員の「内燃動車発達史」をご覧ください!としておけばこの場は凌げる。淡路鉄道は1931年にキハニ1~3、1933年キハニ4、1935年キハニ5、1937年キハニ6と6両の半鋼製ボギー車を揃えた。揃ったとたんに燃料統制となり、苦闘の時代を迎えるのであるが、

その話は前著上巻231頁に紹介されている。終戦と共に燃料問題が解決したわけでなく、比較的得られやすい電力を動力源とする鉄道電化が世の風潮となった。戦時統合で鉄道から交通に改名したのは1943年7月、1946年11月電化工事の許可を得、1948年2月11日より電車運転となった。この時導入されたのが南海電鉄の木造電動車で、いずれも63形割当供出車で、淡路では1001~1005となった。それが先日、見事な姿で紹介された訳である。本稿では先輩である内燃動車の電化後の姿を改造順に紹介することにする。それらの車両番号は電動車2006~2009、制御車111、112号となっていた。

 

賀正・総会・淡路

クローバー会の皆さん、新年明けましておめでとうございます。京都は今のところ穏やかな日照りの中、老人宅の窓から見える新京阪線「キュウミ」ちゃんが満載の初詣の人を運んでいます。今年も仲良く「デ元青」を盛りたてて行きましょう。

春、4月23日(土)に第3回クローバー会総会を、京都駅前・京都タワーホテルで開催します。今夏は役員改選、会則改訂、その他重要案件提案があります。詳細は追ってお知らせしますが、とりあえずカレンダーの4/23にはO印をお願いします。宿泊希望者についてはホテルと相談することにしております。

淡路交通の紹介ですが、1960年11月4日訪問のまとめを当時ガリ版3粍方眼で作ったことを思い出し、すぐ出来ると思い「玉手箱」に潜り込んだのは良いとして、12/30までに見つけることが出来ずがっかりしていました。ところが大晦前に時の手帳が見つかりヤレヤレとなりました。これよりまとめ直しの上、紹介いたします。

以上、ごあいさつ、お知らせ、お詫びで年頭の辞といたします。

電車・バスでまわる「歩くまち・京都」京都フリーパス

京都市が音頭をとって、お得な?1日乗車券が今月11日~来年3月23日まで発売され通用期間となる。そこで通用区間について検証してみることにした。先ず【鉄道】全線OK:市営地下鉄、叡電、嵐電、一部区間:近鉄・京都~向島、京阪・出町柳~中書島、阪急・河原町~洛西口、桂~嵐山、となっている。京福のケーブル、ロープウェイや京阪京津線が外れたのは仕方ないないとして、京阪宇治線・中書島~六地蔵を適用外としたのはなぜだろう。六地蔵で少し歩けば周回コースとなり、今話題の寺田屋を始め「新酒ブーム」に沸く伏見へ呼び込めるのに・・・・・・。そして【バス】市バス:定期観光を除く全線、京阪バス:定期観光、比叡山線、比叡平線、松井山手線を除く山科、醍醐、中書島地区(該当地区までは市営地下鉄を利用、京都バス:市バス市内均一区間及び広河原線鞍馬温泉以南と岩倉、大原、嵐山地区(大原地区は小出石以南?)。これで京都盆地は雲ケ畑地区以外は含まれる。比叡山線、嵐山高雄線は省かれる。京都シティバス:中書島、淀地区、京阪京都交通:中山営業所全線(京都市内)、西日本JRバス:京都駅~栂尾、阪急バス:向日営業所全線(阪急電鉄との接続駅は洛西口だが、東向日まで150円で清算すれば大原野神社、勝持寺・花の寺、十輪寺、善峰寺に、長岡天神で180円で清算すれば光明寺、乙訓寺に行ける)、ヤサカバス:全線、となっている。通用期間1日、価格:2,000円(小児の設定はなし)ここまで来て「なにっ!」となった。ちょっと高いやおまへんか!市バス1日乗車券500円、それに地下鉄全線つけて+700円で1200円、それが京都市交通局以外を付けたら800円アップとは何ぼにも高い!郊外観光に出たら近場で半日、鞍馬や大原行ったら1日がかりが相場や、しかも冬場、寒い京都や皆さん山の麓までいかはらへん。1000円にして気楽に利用してもらって「京都はええとこどした」と、言ってもらえるように出来ませんか。老人はアムステルダム、ウィーンで24時間キップを利用したことがあるが、ユーロが130円時で700円ぐらいやった。フランクフルト アム マインではゾーン2で前記ぐらい。ベルリン、デュッセルドルフ、その他、ホテルの宿泊カードが市内交通機関のフリーパスとなっているところもあった。【損して得を取れ】の類で、一考を要する価格設定であると思う。折角スルッと関西シリーズで好評を得ているのに、何とかしないと企画倒れになってしまう。京都市長の考え一つや思う。帯をしっかり締めなはれ!

らくさい便り

臨時直通列車で【紅葉の嵐山へ】一直線!のパンフレットが効を奏したのか、平日昼間でも特急は満員の阪急である。なかでも梅田9:51発、桂10:32発の快速特急は6300系6連とあって、座っている乗客より立っている人の方が多い盛況ぶりである。これに気を良くしたのか、来春「京風」特急-観光特急-を梅田~河原町間で運転させることになった。毎週土日祝日運転で、当面1日1往復の予定。途中停車駅は十三、淡路、桂、烏丸となる。観光特急は6両1編成(6351・6F?)で内装を「京風」に改装するとか。特製HMはもちろん、この1編成に愛称を付けると言っている。南海の「天空」に最初首をひねったが、真言密教にまつわると知り納得したもんだ。これについてはthurukameさんの解説をまとう。平凡だが、京風なら「雅」-まさとは読まないーが王朝風となり平安京を偲ぶものになる。外装の変化には期待はもてないであろうが、内装にはお手並み拝見と参ろう。こうしたリクレーションカーは近鉄の「十八番」だが、南海に続いて阪急(新京阪線)とはこれいかに。本来、行楽列車頻発がお手のもの筈の京阪に、ダブルデッカー以降ヒット商品がない。中之島線不入りの余波を受け、宇治線のワンマン化が近々実行されるようだ。宇治線の再起は京市交東西線との直結だ。なに、車両の寸法が違う。京市交の車両にちょいと手を加え、宇治線に乗り入れさせればなんとかなる。むちゃな事を言っているのではない。アムステルダムへ行けば2.4m幅が3mの線区に直通しておるぞ!ドンマイ、ドンマイ。夢は嵐山、びわこ、宇治を結ぶためだ。

洛西たより

以前、阪急京都線洛西口駅周辺の東側で複線工事をしているのを見つけた摂津の御仁が、「あれ洛西NTの新線か?」と質問され、「いや、府道中山稲荷線との立体交差工事だ。」と答えた。下り(梅田行)線は9月11日深夜から早朝にかけて仮線に移動した。上り線は12月11日早朝切り替え予定である。これで工事は本格化するが、仮線とは言え高速で洛西口駅を通過するから「阪急もJR並や!」と言っている人もいる。3年後には高架線、駅が竣工する予定である。

さて今秋の紅葉は期待できると新聞発表があった。それを前に阪急は「紅葉の嵐山へ一直線」と、一大キャンペーンを張っている。11月の土日祝日は4ケ所から快速特急、直通特急が嵐山に向う。桂発を列記すると快特梅10:12、同じ10:32、快特河10:43、同梅10:52、同河11:03、直特宝11:12、直特神11:32、快特河11:43、同じ12:03、となる。この9列車を巡り4、5番線の上り方で場所取り合戦が始まっているようだ。11月7日、それに参入後のホームカミングディ?としたら怒られるやろうな……。阪急もでっかいテルテル坊主を新装成った嵐山駅に吊るしていかがであろうか!

関西の電車・巡察の旅 その3


【お詫び】前回、最西端「網干駅の姿」を入れ忘れとなった。三河田原へ旅立ちの日となんら変わっていない。網干線沿線は、日鉄の撤退で過去の賑わいは薄れてしまった。

▲最西端・網干は2001年当時と変化なし

3日目:8月28日(土)、最終日である。ひょっとしてとの思いから2日目より早く家を出た。西向日6:13発普通を高槻で9300系快急に乗換え、淡路から大市交堺筋線を動物園前で降りた。先を急ぐなら天下茶屋で高野線に乗り継ぐのが本流だが寄り道するために、御堂筋線で天王寺へ出た。WCに立ち寄り近鉄阿倍野橋・河内長野行準急7:14発に間に合った。3+4の7両編成である。近鉄は名鉄と一緒で多両数固定編成を作らない。ここ南大阪線も2~4両編成の組み合わせで5~8連を組成している。列車によっては凸凹、色違い編成が現れる。そのうちに富田林到着。汐ノ宮は近い。なぜ汐ノ宮かと言うと友人がいる。3年前に電話があり「沖さん、隣に田中鎈市さんがいらっしゃるよ。京都在勤時代、電車の好きな変人が居た、と言ったら”それ、沖中はんやろ”と一発で当てはった」。電話を代わってもらいしばらく話したが、二人の接点が分らず尋ねた。汐ノ宮カメラクラブでご一緒であった。2人の年賀状の住所は番地が近接している。15年ばかり前、高野線・美加の台の住宅改修工事に行った時、河内長野から汐ノ宮を経て帰宅したが、どんなところか忘れてしまい、車窓で確かめたかったのだ。
河内長野の近鉄側の構内は南海側と比べると狭い。高野鉄道は19世紀末の開通、20世紀初頭開通の河南鉄道より早い。蒸気動車が乗り入れていた姿を想像してみた。接続の南海高野線は林間田園都市行急行、6000系8連がやって来た。南海は高野線の自社沿線開発を進め、改良工事に多額の資本投下した結果、資金繰りに困り倒産噂話で賑わったこともあった。さしずめ関西京成電鉄版である。京阪中之島線は自社建設線でないから気楽だろうが、東京メトロ副都心線と異なり、乗り手のないシーソーの片方みたいなもので、今後の大阪市の都市計画の進捗次第が命運を握っている。
林間田園都市下車は初めて、谷底の駅につきエスカレーター利用で改札口を出る。小さなロータリーにバス、タクシー乗り場があるが共に待機車はない。はるか南東方向にみどりに囲まれた住宅街が見える。近鉄が桔梗が丘団地を売り出した時、上本町から70㎞もあり狸の巣になるぞと従兄は冷やかしていた。林間田園都市は難波から39㎞、これならと思ったがバブル崩壊で苦労していると報じられた。10分ぶらつき、次の6000系8連急行で橋本に向かった。
南側の斜面を削り造成された小原田車庫には「天空」編成が留置されている。この車庫新設で急行の大運転(山線直通運転)は数えるほどになった。8連急行は8:39橋本に到着。

▲大運転用2000系が待機する

留置線の2303+2353がホームに据えられので、その車内で林間田園都市で購入したサンドとヨーグルトを腹に収め、WCへ。これが失敗となった。用を達している間に2304+2354が山から下りてきて増結した。そこへ次の8連急行が到着した。空っぽだった2300系4連はあっと言う間に埋まってしまった。止む無く先頭2354号、転換クロスシート扉横の背もたれに立つことになった。座る筈であったシートには、中年のオッサンが背摺りを後ろ向きにして向かいのオバハンと声高に喋ってけつかる。くそったれ!大油断であった。
走り出して暫くして、扉に持たれていた妙齢の御婦人、「トイレに行きたい」と同行者に言っている。グループで高野山参詣のようで、「困ったわ」と言い合っている。高野下を前にして「次の駅なら確実にトイレがある。40分後の電車で追いかけ、極楽橋で落ち合ったら如何?」と声をかけてみるが、「ええ」と言ったまま。上古沢だったかな、到着前にWCが目に入った。「早く行ってらっしゃい!」と肩を押したら「極楽橋で待っててね」と言い残し降りて行った。
9:47、極楽橋到着。想定第1番目の南端で、3時間34分要した。汐の宮見物なければ確実に3時間以内で到着となったであろう。ケーブルをチラッと見て「こうやさん」。紙(髪)を落とすのではなく清水が洗い流してくれるWCへ。折返し、2番目の南端へ行くために留置中4連の先頭車に急いだ。今度は失敗しないぞ、2303号のかぶりつきだ。小走りで先頭車に行けば車内はガランとしており間に合った。2300系は全転換クロス車で、扉間は1人・2人掛け、扉妻間2人掛2列のロマンスカー、老人が眼の色変える理由がここにある。

▲米手作市氏はケーブルカーで下山する

▲極楽橋では特急は手前、急行なら向こうの電車に乗車する

▲高野線(山線)は本年開通80年を迎えた

高野線(山線)は本年開通80年を迎えたその昔1251系3連の上り急行の電制音はすごかった。それに比べると2300系の電制は静かなものだ。そして電制と空制切り替え時のショックがない。「次の高野下で”天空”と交換します」とアナウンスがある。何、これを知っていたら何処かで途中下車していたのに。席確保のため動かず”天空”の入構を待った。橋本着11:02着、8連急行と乗り換えとなり、11:11発で天下茶屋をめざす事にした。
天下茶屋では早く家を出たせいか腹が「グゥ」となり催促している。WCを出たらカレーショップが目に入った。そこで腹に収めて、3番線4号車乗り場に立ち和歌山港行き「サザン21号」を待つ。やって来た8連、後4連は満員、前4連はガラガラ。こんな事だと思い自由席車と指定席車の分かれ目に立っていた次第。すでに戒を犯しているから”迷わず指定席車”である。ガラガラの車内に6人目の乗客となった。追加料金¥500。そして和歌山市から港への気まぐれ客は唯1人だった。和歌山港13:13到着。想定第2番目の最南端には+206分、なんと西向日から7時間要したことになる。これが10年前だと「迷わず水軒」となるのだが、2002年5月26日廃線となった。昼間にも1往復あったから、行くに苦労はなかったが、高野線に行く楽しみはそがれた事になる。

▲和歌山港に間もなく到着

▲本日2本目にして最終列車到着の水軒

▲距離表の数値は難波が起点

和歌山港から難波へ直行しようと思い、折返しサザンの先頭車のカブリツキに行くと「鉄」らしき親子が先に頑張っている。そこで和歌山市で下車、WCとして14:00当駅始発特急で北に向かうことにした。難波、淀屋橋、出町柳と繋いで最北端、鞍馬到着17:02となった。和歌山港-鞍馬間は市駅で一服しなければ3時間15分位の所要時分で収まるだろう。鞍馬では孫との約束、天狗の面を撮るために折り返しを1本ずらしWCとした。

▲天狗の面がお出迎え、お見送り

鞍馬17:18発、出町柳、祇園四条、河原町、と繋ぎ東向日18:33着。改札口には総本家青信号特派員氏が待ち受けていた。もちろん生中で、関西の電車・巡察の旅を乾杯で終結するためであった。本日の行程12時間20分、運賃6,240円、3日間の運賃合計16,900円(座席指定券代は省く)の旅であった。今回の道中、WCが目立つが、歳を取ると1時間前後で催す前兆があり、失敗のないように早い目に処理していたからである。

関西の電車・巡察の旅 その2

2日目:8月16日(月)。14日は“日本の客車・再版”祝賀会であった。鉄道ピクトリアル・今津編集長をお迎えして佐竹さんの功労を称える集いであった。須磨の大人の裏話、新規入会の通園さん紹介、美作の国で療養中の滝本君から見事な西瓜の差し入れがあり、酷暑の最中でも稔りの多いクローバー会であった。

さて2回目は西の果てへ。京都駅から新快速でぶっ飛ばせば2時間少々で行ける地であるが、5時間あればなんとかなるであろうと、1回目より1時間早く西向日640発とした。運賃と時間の節約を考えれば十三・三宮・高速神戸経由が正規のルートとなるが、後のことを考えると淡路・阪神なんば線経由にすれば変化が見込めそうだ。日本橋745に着くなり先ずWC。奈良からやって来た快急は10両編成で、鶴橋、上六ではどれだけ下車したか分らないが、先頭9726号の4扉から30人ばかりが下車した。残念ながら座れない。難波も同様。西九条からメガホン片手族が乗ってきた。虎狂ではないから静かなものだ。本日は地元校が2校出場する事になっている。伝法を出ると100km/h運転となる。10両ですぞ、50年前は2両だった。尼崎814着。高架留置線に55514Fが休んでいる。舞州へ移転した大阪車両工業が鋼体を造り、正雀のアルナ工機が艤装した、と言われている。この駅の蕎麦屋も何処へ行ったのか見当たらない。サンドウィッチとヨーグルトを購入した。

 

青胴車が伝法大橋を渡る姿は見られなくなった

青胴車が伝法大橋を渡る姿は見られなくなった

赤胴車も橋に向け福駅から力走

赤胴車も橋に向け福駅から力走

 目前に阪神なんば線からの普通が到着、全員降ろして折り返し線に。そこへ直通特急が到着するが1/3残して西へ向う。ガラガラの普通に先乗りしていたら、あぶれた1/3が乗ってきた。こちらも静かな車内。甲子園で降りて三宮行の快急を待つ。満員の近鉄1028号は、高校野球応援団を弾き出すと身軽になって走り出す。近鉄車で神戸入りが出来るとは夢にも思わなんだ。特急が停まる「御影」、外側線を最徐行で通過する快急6連は苦肉の策の一つだ。震災の日の週末から6週連続で神戸へやって来た。阪神復旧の日、625日まで何度も通った。戦災を知らない京都人には見るもの全てが勉強であった。

震災10日後は青木まで開通

震災10日後は青木まで開通

震災で壊滅した石屋川(新在家)車庫-酒井福三さん提供-

震災で壊滅した石屋川(新在家)車庫-酒井福三さん提供-

 三宮からしばらく乗りっ放しとなる。先ずWC。ホームに直通特急が到着した。それなりに乗っていた車内はガランとしてしまった。三宮914発。神戸高速鉄道は阪急阪神HDに統合されたのだから、運賃の一元化を先ずやって、それからスッルト関西を有効利用したら、客を増やせないかと思う。遅い遅いと言われるが、直通特急は明石・飾磨間3駅停車で35.2km28分走行である。新快速は明石・姫路間2駅停車で35.4km26分走行だ。昔、車庫のあった西新町を出ると110の目盛を維持するためにノッチのONOFFの繰り返しとなる。飾磨1013着。網干線乗り換え1020発。車庫を横目に高架線に上がり、降りて少し行って2ツ目の鉄橋、渡るのは夢前(ゆめさき)川、10年ばかり前、木村昌晴さん以下7人、河原でHO運転会をやった。動力源はバイクのバッテリー12Vだ。子供は勿論、大人も取り囲んでくれた。ポン友・木村さんは吉川文夫さんより一ケ月早く亡くなった。僅か15年の付き合いだった。「また来たよ」、黙祷。最西端・網干1038到着、所要時分3時間58分。思惑より1時間早く到着した。

姫路ライナーが加古川を渡る

姫路ライナーが加古川を渡る

 1998221日朝、木村さんと2人、網干駅ベンチで仲間の到着を待っていた。3人がやって来たところで腰を上げ835発で東へ向け出発した。飾磨で215日から走り出した大阪ライナーに乗り換え民鉄による電車最長区間、旅の始まりであった。インタァーバンの好きな木村・沖中コンビはその昔の電車王国アメリカで、2000哩のトロリィーカ-の旅が1910510日スタートしたことを知った。日本ではどうなるか、アメリカでは軌間が同一であったことで実現したのだが、日本ではそれが出来ないのが残念である。乗り換えを繰り返せば何処まで行けるか、西は網干から三河田原迄が最長となる。一度乗ってみよう、その日を姫路・梅田間の直通特急運転開始後としたのだった。

思い出の網干から姫路へ出た。姫路駅の山陽との上下切り替え後に通った事がないからである。これからどうするか、まっ出たとこ勝負で行こうと思う。神戸市内に入り板宿で神市交と接続している。名谷迄は行ったことがあるが、終点・西神中央は未だである。トンネル電車は谷底だけに明かり取り部分があり農村風景が見え、ホッコリする。終点の駅前ロータリィーが広いのにびっくりだ。折返し三宮に直行、ガード下で海鮮丼と生中1杯で満タンになったところで能勢電に行くことにした。

眼を見張った広い西神��央駅前に”そごう”健在

眼を見張った広い西神中央駅前に”そごう”健在

 準特急氏2度目の来阪の時は能勢電と神戸電鉄へ行った。紅葉シーズンなのに暖秋のため晩秋の装いはなく、案内役としては「ごめん」の気持ちが今もある。そして日生NTへは行った事がない。35年前、ニュータウン造成に向け沿線のそこかしこで線路規格向上、複線化工事が始まった。丹波へ仕事に行った帰途、時折り国道173号を南下して工事の進捗を観察した。日生線の開通直後、息子に「阪急の昔の電車に乗りたい」とせがまれた。一も二もなく能勢電にやって来た。320,380,500形がまだ残っていた。日生線は山下始発の320380形の2連で折り返し運転であった。本線は610系、500形の4連で川や崖沿いの線路をきしみながら走った。変わったと言えば大きな複線トンネルが出来たことで、能勢カーブ式電鉄であることには今も変わりはない。せがんだ息子は成人を前に野球一筋となり、今年は不惑を迎えている。その親父は膝小僧を抱いて欠伸をしているうちに日生NTに到着した。

広い構内は将来のため?
広い構内は将来のため?

ホーム端から線路端末まで42本が押し込めそうな留置線がある。延長計画のある北千里に良く似た構内線形だが、行方には山ががんばっている。バブルが何度も飛んでこないと山の向こうを引き寄せるのは無理だろう。駅前広場は西神中央と比べるとひっそりしていた。

これで本日の目的達成。日生中央1529発で帰宅の途についた。蛍が池からモノレールで南茨木へ、西向日1716着。全行程10時間26分、運賃5,610円也の巡察の旅だった。

 

 

 

 

 

関西の電車・巡察の旅 その1

スルッとKANSAI夏の3dayチケットをプレゼントされた。このところ動かない老人にカンフル剤のつもりで送ってくださったのかもしれない。どうしようか、一思案の結論は、3日乗車で東西南北端まで「乗り鉄」となった。挙行に際して、①特別料金がいらない列車に乗る。②車種は不選別、来た列車に乗り必ず着席する。③老人はWCが近いから、余裕を持って行動する。④障害者手帳はないが、腰、右膝に配慮する。⑤行路途中で生中の相手を呼び出さない。さて、乙訓の五戒はどうなるか?

1日目:8月7日(日)、西向日・普通749発→烏丸805着、810発→竹田821着。ここでWCへ、やって来た天理行急行・828発に乗車する。西大寺で入庫中の阪神1000系を初めてみた。平城京1300年の沿線風景をぼんやり見ているうちに「この急行、平端で橿原神宮行に同ホームの乗り換え不能に気付き、郡山で下車した。後続の普通を待つ間にWCへ。大和八木に940着、大阪線下りホーム改修中に付き蕎麦1杯が駄目になった。944発の榛原準急に乗車。

小学校5年の夏休み、父の故郷で過ごすため130015501300の準急に乗っていた。桜井手前の変電所あたりに黒煙が上がっている。火事だ。変電所手前で列車はストップ。駅員がホームから飛び降り走って来た。駅まで走れと言って乗務員室に入って来た。列車は無事に桜井に到着、乗降あって朝倉に向け発車した。榛原で下車してその後を聞けば不通になったそうだ。桜井は吉野杉の集散地で製材所や卸問屋が国鉄線を背にして軒を並べていた。今もその片鱗が残る。

その桜井で後続の急行乗り換えのために下車。理由は終着榛原5番線にエスカレーターがないからだ。乗り換えた急行2619号車、先の準急9206号と同じ内装であるのに気付いた。老骨もリニューアルされると気持ちが良い。阪急33005300系のまだら化粧板は酷いと思う。大和朝倉を通過してスピードダウン、前に榛原準急が居るのであろう。7年半前、仁蓮上人を先頭に準特急、総本家、老人の4人で長谷寺・榛原間の御立ち台にやって来た。それぞれの御立ち位置に分散したところで、老人は黄土色に焦茶の縞模様の細長い物体を見つけた。「蛇やぁー!」、「ひぇー!」と奇声を上げたお人がいらっしゃった。保護色で50cm位の可愛い蛇だった。

長谷寺~榛原

榛原発車後「そのうち来るさかい、ちょっと待っていてや」と心の中で呟いた。榛原から南へ2里、父母の眠る墓がある。毎年この頃、兄夫婦とやってくる。酒樽でかくれんぼした思い出を従兄の3回忌の時にして、幼馴染をびっくりさせた一幕がある田舎だ。電車がらみと言えば叔父が戦争中にお伊勢さん、橿原神宮に連れて行ってくれたこと。青山越えの2200型の電制の音にびっくり、5600代の飾り窓に見惚れたのもその時だった。

名張1026着で下車。腹が「グウーッ」と鳴ったからだ。改札を出て蕎麦屋を探すが何処も開いていない。やむなくホーム売店でサンドと飲むヨーグルトを購入、ベンチで早弁とする。済ませた時、目前に急行到着。特急退避の上1051出発。伊賀神戸を前に西名張への経路を追うが分からなくなった。桔梗が丘住宅地が出来るまでは線路跡はくっきり残っていた。今は神戸駅手前の川筋位となった。

その神戸駅には863763のユニットが、海老茶に銀色のバンド姿で乗り換え客を待っていた。800系登場時の色でもなく、パンダ塗分け色でもない不思議な色だ、思わず下車してしまった。

伊賀神戸1114発、1424VVVF車は快調に走り青山町に1117着。これで本日の目的地、最東端到着となった。所要時間3時間29分、でも名張や神戸でウロウロしなかったら3時間前後で来られたであろう。でも早回りではないから、これでいいのだ。

伊賀鉄道

青山町から峠を望む

帰路は田原本から王寺を経て生駒に出ようと思いパンフを見たら不適用区間となっている。何故だろう?5年ばかりに前に乗った事があるが、その時はスルッとkansaiが使えた筈だ。大軌200形は8300系3連、信貴生駒1形は1020系4連となり、ワンマン運転にはびっくりだった。適用外区間は乙訓の戒に反するから乗る気はない。WCに行って、青山町から鶴橋に直行することにした。乗った急行は特急遅延のあおりを受け良く走る。名張-赤目口-三本松間の平坦部では110/h前後を維持している。2200形時代はどうだったのか、仁蓮上人に問うてみたい。名張3分延発は八木で取り戻し、ところが再び八木3分延発となり五位堂からノロノロ運転となる。国分で準急を抜くや再び猛ダッシュとなり、鶴橋1312着。名張-鶴橋間66.1㎞:70分(途中停車8駅)であった。50年前は66.2㎞:56分(途中停車3駅)で、かっての急行の筋を引いているのは現在、快速急行と名を変えている。所要時分57分、途中停車は5駅で、特急退避ありだ。

三本松~赤目口

三本松~赤目口

思惑より1時間早く着いてしまった。うだる暑さの中で時間つぶしを考える。そうだ、生駒山上に行こう、適用区間ではないか。王将で冷やし中華に生中をすすっている間に思い付いた。鶴橋1355発で生駒1414着。ケーブルは1420発車と係員が叫んでいる。雑誌で見たケーブル・カーは微笑ましく思ったが、現物を見ると少々グロテスクである。ガラガラの車内で発車。本日は臨時便ありで所要時分は、鳥居前(6分)宝山寺(7分)生駒山上と案内している。往復したら1516着で御帰還であった。

さあどうするか、けいはんな線へは開業草々に行ったが、トンネル電車で面白くない。さあ帰ろうか、WCに行って生駒1516発、ガタの来たアルミカーで堺筋本町、淡路を経由して起点・西向日1646着。全行程8時間57分、運賃5,050円也の巡察の旅だった。

山上線

宝山寺線

イラストは楽しめても……チンプンカンプン

米手作市さんは英語でお手上げらしいが、老人はフランス語らしき文字で説明文入りの書物をパリ土産でプレゼントされた。とても楽しいイラストが溢れかえっている。イラストの順を追うとどうやら鉄道の歴史を語っているようだ。時々「絵」が出てくがどう見てもパリのようだ。終わりの方で我が新幹線も出てくる。開通区間は岡山まである。printed in spain とある。図はとても精巧で、ほれぼれする。「絵」には着色したものがあるが油絵ではない。

本体は幅27.5×高30×厚2.5糎。240頁まで打ってある。表紙は厚紙、ずっしりと重い。新婚旅行に出る前に餞別を渡したら、パリの露天ガラクタ市で見つけてきたと言って、チョコレート代わりに渡された。どなたか引き取っていただけないでしょうか。ただ一つ条件ありで、11月7日のホームカミングディか、鬼の笑う来年の第3回総会でお渡し出来る人である事です。乙訓の老人宅へお出ましになることが一番うれしい。早いもの勝ちです。素晴らしい本です。

フランス語チンプンカンプンの乙訓の老人

御免なさい【8833】の訂正

モ161号乗車希望の方、浜寺駅前集合時間は14時55分です。ボケがまわった老人は1時間間違えました。7月3日14時55分に老人は阪堺線乗り場でお待ちしております。乗車希望者多数の場合、尻押し役務める所存です。南海本線の高架工事が始まると、船尾ー浜寺駅前間が運休になりバス代替になると言われている事が気になります。路線廃止になっては大変!そんな思いもあり、浜寺に出向きます。懇親会では、堺市内における「チン電」の命運が話題になると思います。かって正月の「住吉例会」を提唱したものとして、「阪堺のチン電」から目が離されません。

阪堺モ161、誰でも乗れる貸切電車

東にEXILEなる知らない名前の電車が王道を走ったそうだが、西では来る7月3日(土)午後「阪堺のチン電」の名で親しまれている古典車を、路面電車同好会関西支部代表と庶務担当のコンビが借上げ、次の行程で走らせる。

出庫(我孫子道)14時30分頃。回送で浜寺駅前着15時頃。折り返し・貸切運転15時5分頃発車。我孫子道15時30分頃到着。車庫内で休憩。(写真撮影可能)我孫子道発車16時9分頃。貸切運転で天王寺駅に16時30分頃到着。折り返し、回送で16時37分頃発車。我孫子道17時頃生還予定。貸切運転は浜寺駅前→天王寺駅前間です。したがって乗車希望者は浜寺駅前で15時55分までに集合願います。乗車と共に貸切電車運転御奉賛代として一人2,000円を頂戴いたします。解散は天王寺駅前ですが、打ち上げ懇親会を17時30分頃から行います。会場は路面電車同好会関西支部ご用達の店である「大よし」です。場所は阪堺線今宮駅から北の歩道を東へ徒歩3分。パチンコ屋の地下の大料亭です。

関西には昭和3年製の吊り掛け駆動の電車がまだ残っています。161号はこのほど重要部検査が終わり台車も塗装替えされました。本来、エアコンのない161号は夏季には運転されませんが、窓を開け「緑の風」を浴びよう!」と貸し出しに成功しました。乗車ご希望の方は浜寺公園までお越し下さい。問い合わせは乙訓の老人まで御願いします。