1960年11月3日、須磨は山科から、乙訓は京都から東京発姫路行きの客車列車に乗り込んでいる。既に姫路まで湘南型が直通運転していたが、敢えて客車列車を選んだのは理由があった。それはこの場で披露するのは遠慮して別の機会としよう。兵庫で出迎えてくれたのはthurukame氏であった。昼食を済ませ、彼の案内で湊川トンネルを出たところから長田に向かい歩いている。途中、火葬場の裏へまわり川ベリに出たら丸山駅前後の崖淵であった。須磨の目的は元神中、気動車改造の制御車。乙訓は湘南タイプ、WN駆動、対向クロスの温泉電車であった。好天に恵まれ3人は目的を達成することが出来た。
それ以後暫く委細不明。気付いたら2人は中突堤の飯屋で、当時流行って握り鮨(1皿3貫:20円?)で安酒を煽っていた。淡路島への渡船待ちだったのである。
JTB時刻表では淡路島への夜行便の記載なく、夜行列車愛用族はどうしたものかと思案にくれていた。その頃、旦那が新聞輸送の便船があると教えてくれた。2人は卒業後の行き先も決まった事だからと、これに飛びついたのであった。便船は播但連絡汽船の1日一便、岩屋21:20発、神戸22:50着の折返し運用となるもので、100噸位の貨物船に便乗の形であった。24:00乗船開始。案内されたのはデッキ下、エンジンルームと隣合わせであった。板張りに茣蓙、騒音と振動。この時、例え魚の干物の匂いが染みついたオハ60系であっても、汽車の夜行列車の有難味をつくづく思い知ったのであった。乗客も我々2人を除くと行商人風のオッサン連中であった。
24:30出航、志筑2:30着、同3:00発、洲本3:30着。ここで2人は退船を命ぜられた。6時まで仮眠が出来ると聞いていたが、それは嘘だった。抗議する元気もなく。淡路交通の洲本駅の場所を聞いて夜道を歩き待合室に転がり込んだのだが、寒くて寝られない。仕方なく2人は駅周辺でジョギングをすることになった。有難い事に関西汽船6時発神戸行きの初発があり、この頃に夜明けとなり港周辺の店も開店となった。そこで飯屋で定食を賞味したのだが、何を食ったのか覚えはない。
電車の洲本初発は6:10、この電車は福良5:00発→洲本5:47着で、関西汽船神戸便に接続、神戸中突堤8:30着となっていた。当時の関西汽船洲本航路は神戸8:30初発、洲本に10:40着、洲本最終17:50発、神戸19:10着があり、日帰りも可能であった。
目覚めと共に本題に参ろう。淡路交通は淡路鉄道として軌間1067粍、1914年4月10日創立、開業日と区間は次の通りである。洲本口-市村:1922.11.26、市村-賀集:1923.11.22、洲本-洲本口(宇山):1925.05.01、賀集-福良1925.06.01、福良延長線(港湾整備により埋め立て地を延長)1938.04.01、これで全線23.4㎞の開通となった。開業と共に蒸気列車が走りだしたのだが、1号機は1920年9月ポーター製の13.38頓Cタンク、客車は播州鉄道から2軸車6両を購入して対応した。路線延長による車両増備は2,3号機で、同じくCタンク1922年5月コッぺル製、13.82頓と僅かに大きいが、軽便規格と言っても差し支えない。福良延長に合わせ国鉄から18.29頓のこれまたCタンク、1914年3月ポーター製の払い下げを受け4号機としている。これは長州鉄道開業期のもので、国に買収後は形式1045となり1047号となったものであった。客車もその後の路線延長に合わせ、揖斐川電気から2軸単車7両を購入し総計13両とした。蒸機の重量はいずれも運転整備時のもので、空車時重量は9.45頓、10.97頓、15.24頓の順、価格は同じく19,400円、23,175円、5,254円と記録されていた。
さて1920年代後半から内燃動車が実用化され、非電化鉄道でも旅客輸送が見込める地方私鉄では採用される事例が増えて来た。詳しくは湯口会員の「内燃動車発達史」をご覧ください!としておけばこの場は凌げる。淡路鉄道は1931年にキハニ1~3、1933年キハニ4、1935年キハニ5、1937年キハニ6と6両の半鋼製ボギー車を揃えた。揃ったとたんに燃料統制となり、苦闘の時代を迎えるのであるが、
その話は前著上巻231頁に紹介されている。終戦と共に燃料問題が解決したわけでなく、比較的得られやすい電力を動力源とする鉄道電化が世の風潮となった。戦時統合で鉄道から交通に改名したのは1943年7月、1946年11月電化工事の許可を得、1948年2月11日より電車運転となった。この時導入されたのが南海電鉄の木造電動車で、いずれも63形割当供出車で、淡路では1001~1005となった。それが先日、見事な姿で紹介された訳である。本稿では先輩である内燃動車の電化後の姿を改造順に紹介することにする。それらの車両番号は電動車2006~2009、制御車111、112号となっていた。
乙訓老人の記憶に若干プラスすると、神戸中突堤~洲本の夜間超シケ船便は、主たる目的が淡路島東岸諸港への新聞輸送だったようである。洲本着時間を正確に表示すると、あまりにも早すぎて乗客が二の足を踏む。で、現実より遅い表示として、我々のようなウブで率直で懐の寒い素寒貧乗客を呼び込んでいた、としか思えない。結果は乙訓老人の記憶通り、想定の2時間程早く洲本でおっぽり出されたのであった。ついでに書けば、そのボロ汽船の3等客室(猛烈に汚い畳敷)へは、垂直に限りなく近いハシゴをヨジ降りねばならなかった。でも我々は京都市民で、こんなハシゴは、京都の町屋=長屋では至極当たり前だから驚きはなかったが、万一遭難ともなればコトではある。
ついでを重ねると、昭和30年代の新宿の一角で、異常に繁盛していた天丼のみを提供する(現在は繁栄のカケラも見られない「お蔭横丁」)の店店は、二階に上がるのがまさしくこんなハシゴであった。天丼といっても丸々と太ったイワシ(当時庶民が海老を食す習慣などほぼなかった)で、恐らく1.5合ぐらいの丼飯に2匹ドカンと乗せ、ジャブッとたれを掛け、50円也(漬物は別会計で10円だったか)であった。東京へ立寄る時は、必ず寄席の入場料(学割はなかったが、午前中に入るとそのままハネるまで居れた。勿論食堂などない)と、この天丼屋への、小生にとっては「法外な支出=贅沢」を予算化していた。イヤ話が脱線した。
洲本では、素寒貧乗客相手に、午前4時やそこらだというのに、朝まで寝させて、朝食も供すという、旅館の客引きが網を張っていた。察するに、買防法で余儀なく廃業さされた、旧赤線業者の四畳半活用策だったようだ。
我々はそんな余裕があるはずもなく、ひとえに寒さと時間とに支出なしで闘ったのは乙訓老人記憶通りである。