阪神電車の鋼製旧型車(その3)

阪神電車の急行運転192161日からである。この時の最新車両は301型で、藤井信夫さんは「2両連結で梅田-三宮間を56分で結ぶ急行運転を開始して」と、紹介している。301型はバンドン式連結器を装備し制御方式はGEMK総括制御器であった。急行運転開始に間に合った増備車は311321形の20両で、その後に33140両、鋼製車37120両が増備された。また、開業時の1号型の増備車10両を総括制御車に1915年に改造したことを、高間恒雄さんは阪神電車形式集・1で紹介している。後に4150号にまとめられ、1923年に連結運転可能な車体を新製して291形になった。車両構造上、連結運転に不向きであったようで、1号型時代は連結運転されていないようだ。まとめてみると、50ph車で連結運転可能な301390号と291300100両が急行にも運用された訳だ。

371形(後の601形)が登場した頃、国道拡幅がきまり、岩屋から三宮へは地下線化されることになった。それに合わせ急行用と名付けた40130両が製造された。車体寸法は先の371形同様であったがボギーセンター間距離が延長、乗降扉部床段差とホールディングステップが廃止された。これは急行停車駅の乗降設備が改良された事を物語る。そして何よりもグレードアップしたのは主電動機の出力アップで48.5kw×4となり、制動装置はAMMとなった。制御器と連結器がMKとバンドンのコンビになったのは、301330号のものを流用したのではないかと、高間さんは解説している。MKは後に東芝PC5自動進段式になった。この401形は1929年、801801830号に改番され、続いて83110両が1928年、翌年10両増備で831850号の20両となった。先の801形と車体寸法に変化はないが、「たまご」型は平凡な平妻になった。主要機器や性能は801形と同じである。

三宮地下線化開通は19336月であった。これを前に住吉-石屋川間の高架線化が完成、急行は阪神間を48分、普通58分となった。地下線対応の車両は鋼製(内装は木造でもOK)車が要求された。この時点での鋼製車60120両、80130両、83120両、鋼体化車901形が193210両、1001形は19311933年間の20両、計100両であった。残る木造車50両の鋼体化工事が完了したのは193612月、全て1101系となった。

急行用の増備851形は1936年の登場である。1933年から始まった1101系のスタイルとなり、両妻間寸法は13mから14m車体となり、窓配置は車掌台横に小窓を加えている。扉間幕板部に明り取り窓があり、貫通扉折戸のガラス窓が上下に延長され「喫茶室」とか「床屋」と言われた。そして巧みに運転台機器を覆った曲面仕切り板、おかしな運転姿勢となった601801形の運転機器配置と比べると、8517両、1937年製造の86117両は戦前製阪神の代表車と言われた。戦時体制下での増備車88130両の明り取り窓はなく、85186188154両の走行用機器は、共通化されていた。

神戸市内高架線、地下線化で線路条件は一段と向上した。それを期してスピードアップと増発が実現した。特急が設定され阪神間35分の韋駄天走りとなったのである。この時の急行は45分、普通55分の所要時分となった。特急、急行は12分毎、普通は6分毎となり、“待たずに乗れる阪神電車”はここに誕生したのである。そして19346月、特急、普通共に6分毎に、急行を廃止してしまった。この時の途中停車駅は野田、尼崎、西宮、甲子園、芦屋、御影で、元町延長は19363月であった。

この時期、車両がどのように運用されていたかは老人の年令では知る由もない。高間さんの形式図集・1では、851形が登場の頃までは1101シリーズが3連で走る特急が紹介されている。初期の急行では6013連の姿もある。これからみると急行系と普通系は混用されていたようだ。それが明確に分離したのは戦後になってからであろうと思われる。また、601801831形の新造時はブルー1色であったという話だ。酒井福三翁からは阪神電車の話なると、ブルー1色の話がよく出てくる。それほどに1924年生まれのポン友は魅了されたようだ。

レールロード社・“阪神電車形式図集”の助けを借りて、くどくど書いたものだ。高間恒雄さん有難う。DRFC現役時代には、京阪と共に拘ってきた。お後はthurkameさんにバトンタッチしよう。

25年前の特急編成が急行で最後のお努め!

25年前の特急編成が急行で最後のお努め!

高潮対逍・?工前の地平時代の尼崎駅
高潮対策施工前の地平時代の尼崎駅
今は川の築堤が高くなった伝法線との併走区間
今は川の築堤が高くなった伝法線との併走区間
甲蜷・?博覧会宣伝車は全て2扉で黄色だった
甲子園博覧会宣伝車は全て2扉で黄色だった
鳴尾西方、電車後方の家屋は震災でやられた
鳴尾西方、電車後方の家屋は震災でやられた
定番の甲蜷・?上り方は、午後にホームの端から
定番の甲子園上り方は、午後にホームの端から
折畳内開扉にはへばりついて 於 野田
折畳内開扉にはへばりついて 於 野田

澤村達也さんを偲んで

26日の偲ぶ会の席上、澤村さんが叡電デオ300形が大変お気に入りだったと言う話を聞いた。1970年生まれの息子も同じくデオがお気に入りであった。旦那が上高野沢渕町に引越しした頃、息子と2人で訪れた時に出町柳で当該車両を見るや目を見張っていた。帰宅するや「叡電買って!」となったのは当然で、当時リマのガラレールでエンドレスを始めていたが、よし久しぶりにやるかとなり、同中3年夏休みまでやっていたペーパーモデルに挑戦となった。この時2両作ったのだが、モーターカーは1両、近車のKD26だったかな、台車枠に天賞堂のパワートラックションをかませた。台車が軽快なためかよく走った。トレーラーはピボットにするためTR50だったかな、いずれにせよ中書島まで延長されることを願っていたから、2両連結でパンタ姿が必要だった。その後、ポール姿をと思いマッハで2本買ったが、取り替えることなく当家の「向陽鉄道」は息子の成長→野球青年、となり消滅した。澤村さんが模型に本腰を入れたと聞き、当時の部品取りをして全部引き取ってもらった。今回のデオは、入線した1959年4月上旬、恒例の春の東京電車巡りから帰宅したところへ、同中での同級生、茂良樹君から「新車入ったぞ!」と電話があり、慌てて修学院へ駆けつけたときのもである。茂君の父親は同志社教会の牧師で、
同志社高校の校長を兼務していたから、知る人も多いと思う。
ポールを上げた方の写真はどなたかにプレゼント

ポールを上げた方の写真はどなたかにプレゼント

試運転から帰ってきてデナ1号と並びました
試運転から帰ってきてデナ1号と並びました
入線後の初夏、三宅八幡駅の近くでの一景
入線後の初夏、三宅八幡駅の近くでの一景

阪神電車の鋼製旧型車(その2)

その1で旧型車は2分類されるとした。新造当初から分類されたのではなく、阪神電車の歩みに関係している。阪神電車は1905412日、大阪市西梅田町-神戸市雲井町間を開業した。当時の国道2号(摂津街道-西国街道)を部分的に掬うように軌道敷を建設し、軌道条例を満たしたことで知られている。そのため随所に道路併用軌道や急曲線が混在し、運転条件向上に弊害があった。開業期の車両は併用軌道でも乗降に便宜を図るため固定ステップを設けた。運転環境を向上させるには、併用区間を廃し停留所の乗降施設を車両の床高に近づける事が要求された。同条件にあった京阪電車は急行停車駅を高床乗降ホームに改修、専用車100号型を1917年に新造した。その後、全駅をこの方式への改修工事に着手、開業以来の1号型は運転台を兼ねた乗降台下に可動式ステップの増設工事をした。これは高床ホームでステップを引き出し対応するものであり、19226月に工事施工車37両の竣成届けを大阪府警に提出している。また急行用100号型の新造は23両で打ち切られ、1号型の走行装置を再用し、急行型車体を新造した設計変更名義車が46両投入された。これからみれば京阪は、1922年に全駅で高床ホームによる乗降が可能になったと思われる。「思われる」としたのは京阪50年史を始め100年史でも記載がないからで、運輸面から言えば重要事項であると思っている。

さて阪神の場合はどうであったか、京阪が高床車を導入した頃の日本は日露戦争不況から立ち直り、第一次世界大戦の渦中にあり、重工業地帯が関西では阪神沿線を中心に形成された。そのため阪神の乗客増は1913年と比較すると1919年には3倍になっていた。当然、車両増備は図られたが、車体製造は出来ても走行装置は日本の技術が未熟のため欧米からの輸入に頼り、車両増備はままならない状況にあった。増発が出来ない阪神は、19196月に千鳥式運転を編み出し、急場を凌いだ事が知られている。京阪並みの両端デッキなしで中央扉がある最初の車両、301301310号は192079月製造であった。その後は311321311320号、32133020両は192110月、331331370号の40両は19211012月に製造され、一私鉄が年間60両も量産したのは注目される。そして2年後の192315月に29129130010両が増備され、更に翌1924年には高速電車では日本最初の鋼製車37137139020両が製造された。こうした車両増備が相次ぎ開業以来の1号型50両は姿を消し、51号型16両は北大阪線に移った。

1920年から1924年の5年間で100両の新造車(291型は総括制御器を14150号から転用)を取り揃えた阪神の勢いには圧倒される。これら100両に共通するものは全車両端扉部にホールデンステップがあり、車体両妻が半円形で、後に「たまご」型と言われた。301形のみ正面3ツ窓ダブルルーフで、他はシングルルーフ5ツ窓であった。主電動機は37.3kw600V)×4個、制御器はGEMK又はPC、東芝RPCであったが、後に291形のMKを除き自動進段型に統一された。連結器はトムリンソンとなっている。制動装置は不明だが、直通方式に非常弁を追加したもので、4連化の時にSMEAMMとあるからWH方式を採用していたのではなかろうか。

大量の新造車が揃い千鳥式運転は中止となり、192161日から急行列車が設定された。道路併用区間は住吉以西に残ったが、一部区間では時速35哩(56km)運転、2両連結も認められた。そして住吉-石屋川間の高架線は19297月に完成、続いて岩屋―三宮間の地下線工事も着手され、19336月開通となった。これでホールデングステップ使用区間は解消された。地下線開通に合わせ、本線系統で使用される木造「たまご」型291370号の80両は、全て鋼製車体に取り替えられる事になった。こうして出力50hp×4の車両群は、後に普通系と呼ばれることになった。それらは、1931年:1001101010両、1932年:901910(後に700形と改番)、101310141017102016両、1933年:10111012101510161101111014両、193411111137114028両、1935年:113811392両、1936年:1141115010両、6年に亘り80両の鋼体化名義車両を生み出したのである。これらは1001形、901型、1101形、1111形、1121形、1141形と分類されている。1001形は2両連結を建前とした広幅貫通路、901形は支線用の両運転台車、1101形以降は汎用車として両運両貫通車、1111形以降は扉間幕板部明り取り窓を設置した。(つづく)

601形原型4連は他社では見られぬ急行編成

601形原型4連は他社では見られぬ急行編成

復旧型601形は急行系831形復旧型と同マスク
復旧型601形は急行系831形復旧型と同マスク
時には残っていた1001形が先鬆・?で
時には残っていた1001形が先頭車で
本線普通の主流は1101シリーズ
本線普通の主流は1101シリーズ
淀川を渡っていた601形は瀬戸内を渡って淡路島へ
淀川を渡っていた601形は瀬戸内を渡って淡路島へ
伝法線の701形は1958年で終わった。
伝法線の701形は1958年で終わった。
伝法線の601形の身代わりは1001形で
伝法線の601形の身代わりは1001形で

阪神電車の旧型鋼製車(その1)

河さん、準特急さんの要望に応えるべく1959年前後のNEOPAN SSを透かし見て選び出してみた。画調が一定しないのは、その日の天候に勘頼みの露出が追随しなかったこと、自家現像によるスカタン等、もろもろの原因に起因する事であるのでお許し下さい。(その1)は尼崎車庫での撮影である。この時期、老人以外にも車庫訪問した先輩方が沢山おられ、同じ角度で撮影された画も多い。珍しいものではないと思うがその昔、須磨の大人が「50年もすれば貴重な記録になる」と言って、預けておいたフィルムを渡してくれた事が思い出される。ほとんどオシャカになった中で、先日紹介の淡路交通、神戸電鉄は生き残り組の一齣である。

阪神電車本線系の客車は普通系と急行系に分類される。1959101日現在(以下、基準日)のメモに基付いて話を進めてみよう。普通系とされた車種は60170110011101111111211141号型の7群である。共通点は主電動機が37.3Kw600V)×4個、連結器がトムリンソン、制御器が701号型を除きGE、東芝のPCPM型自動加速式、制動装置はAMMで、SMEであったものは戦後AMMに改造、長編成化に備えた。701号型は支線用で、主電動機出力は同様、制動装置はRL7型非常弁付きの直通制動(SME)、制御器はGEMK 型手動加速式であった。基準日には7091両が貨車(事業用・救援車)として残存していた。1958年度末に7027072両が残っていたが、195957日廃車となり本線系統(伝法、海岸、武庫川線を含む)から姿を消している。急行系は801831851861881号型の5群で、共通点は主電動機が48.5kw600V)×4個、連結器はバンドン、制御器はGE、東芝のPCPM型自動加速式、制動装置はAMMであった。

基準日に本線上をどれだけ疾走していたのか、普通系は601号型原型12両復旧型6両、1001号型7両、1101号型系47両、計72両で、急行系は801型原型25両、復旧型4両、831型原型14両、復旧型6両、8517両、86116両、88129両、計101両、合計173両となる。3車種について原型と復旧型があるが、復旧型とは被災車復旧に当り車体前頭(乗務員室部分)に手を加えたものである。その姿は写真を見て頂ければ一目瞭然である。被災とは火災、戦災などで焼失した車両を、一旦廃車手続きをした後に復帰させ、台枠などを再用し新設計の車体を造ったものである。終戦直後の混乱期、新車は63形以外認められない時代にとった苦肉の策である。

尼崎車庫へ調査に伺った時、目に止まった車両を許可なしに撮影した。咎められることなく、京阪守口車庫での行為と同じである。今では考えられないことが許され(放任)ていたことになる。比較的写りの良いものとしたので全型式となっていないが、欠けたものは(その2)の走行写真でお許しを乞うことにしよう。尚、50015002号は新造ジェットカーと併結可能工事のため入場中のもので、残念ながら走行する姿を見つけることは出来なかった。

 

廃車を待っている2両、前部カップラーなし

廃車を待っている2両、前部カップラーなし

木造車の鋼体化、大量50両が同タイプ
木造車の鋼体化、大量50両が同タイプ
801号型の原型、入場荳・?為ステップなし
801号型の原型、入場中の為ステップなし
831号型の原型
831号型の原型
831号型の復旧型
831号型の復旧型
先の851型との違いを探してみよう
藤本君の851型との違いを探してみよう
戦時体制では制御車10両新造、戦後電装なる
戦時体制では制御車10両新造、戦後電装なる
新造ジェットカーと併結のため入場荳
新造ジェットカーと併結のため入場中
改造前のためどのようになったか?
改造前のためどのようになったか?

烏丸車庫廃車体、そして・・・・・・

烏丸車庫の廃車群

 

西村雅幸さんの大奮闘で浜大津のイベントは幕を閉じた。今回の様に感動の場の連続は生まれて初めてであった。西村さん、ご苦労さまでした。暫くゆっくり休養なさって下さい。

200形の廃車群で車号が分かるのが北端の215と南端の203である。215の廃車日付は195371日付、2031954515日付となっている。1954年は老人が洛北高校入学の年で、須磨の大人は朱雀高校最終学年(高3)と思われる。下総町電停(西南角には鞍馬口病院、東南角は交通局鞍馬口変電所)東入る南側に木造2階建ての近畿予備校があった。老人の実兄も1年お世話になった当時、京都で最も著名であった予備校であった。話はそれたが、廃車日付からみれば1954年葵祭頃には並べられていたのであろう。

1953年度廃車5209215217258268に見合う新車は3月登場の8008668705両、1954年廃車8203204242246264274278293に見合う新車は5月登場の87188010両となる。2年度に亘りに廃車となったものの内、9両が烏丸車庫に集められ部品取りや解体の日を待っていたのであろう。部品取りと言うのは195512月新製の881890は、制御器その他、再使用可能なものを外し次期の新車に再利用されたのであった。鉄や金属類は専門業者に、木部は風呂屋に払下げられた。老人の下鴨の生家の隣家(南側)は稲荷湯と言う銭湯、風呂屋であった。中高校のころ時々風呂屋の親父(石川県出身)は烏丸車庫からゴムタイヤの荷車で、200型の木部廃材を運び込み燃料としていた。因みに302195843日廃車となっている。

「諸悪の根源」と言われたブリル79E型に似た住友製鋼所製の台車を採用した200300形、前後左右によく揺れゆれた。でも1形のブリル21E形の前後の揺さぶりよりましだったかな?江若鉄道の事と言い、久しぶりに半世紀以前の事を思い出すことが出来た。

西村さん、有難う!よくやって下さった。1本〆をする前に聞いた話では有料入場者数は987人、これに招待者数を加えると優に1,000人を超えた訳だ。江若鉄道関係の伝播は、新聞で知った人が電話で次々と伝えて言ってくださった力によるものが大きいと思う。これこそが、鉄道が地域に密着している最高の事例と言えるのではないか!

 

ドイツ鉄道のローカル線

 ぶんしゅう氏からドイツ鉄道のローカル線事情を、とお尋ねがあった。老人は1988年に路面電車同好会に入会して以来、ドイツ市電の姿を知りたいと思った。従って彼の要望に応えることが出来ないと思うのだが、2003年ドイツ一周旅行をした時、各地の駅で見たローカル線で走っているであろうと思われる気動車を紹介しよう。

お多分に漏れずドイツのローカル線もほとんどが非電化線である。本線筋が民有化された後、閑散線(旧東ドイツ圏に多い)は第3セクターとなり、それらの新しい車両は白に緑の塗分けが多いので見分け易い。ドイツでローカル線用と言えば日本のキハ01のモデルとなった4輪車が知られているが、2003年初めて旧東ドイツ圏でお目にかかったが、事業用車として側線で昼寝をしている姿のみであった。4輪車については、須磨の老人が詳しいので蘊蓄を語ってくれると思う。

老人が初めて見ることが出来た気動車は1996年、シュトラスブルグ(フランス領、本来語尾はブールと発音する)から国境であるライン河を越えて最初の駅、ケールで行き違った国境連絡列車であった。フランス、ドイツの国境区間は交流ながら電圧が異なり、ローカル列車はDCによる運転もあり、写真①628系と称する2両固定編成が運転されていた。2両の内1両の区画1/3が1等、1/3・2等、1/3自転車持込スペースであった。2003年には旧東ドイツ圏ハレ→ハルバーシュタット間でも乗ったが、なかなかの優れものであった。発車は押ボタン、運転手は窓から半身を乗り出し後方確認である。最大速度は120キロ、自動運転である。停車はオフとした後、横のボタンを押し減速、更に別のボタンを押す。日本の様に階段緩めをして停車寸前に全緩めチョイ入れの名人芸なしで、ガガガッゴッツンで停車した。液体式か電気式なのか分からぬままである。

後日ウルムからフライブルグへ向かう途中、ドナウ川源流沿いの曲がりくねった区間でも乗った。途中駅で小学生の団体が30人ばかり乗って来た。座席のない子供たちは我々が乗っている合造車になだれ込み、無人の1等座席をてんでんに占拠してしまった。そこへ大柄のおばちゃん車掌が出現、子供たちを2等車に追い込んだ。後で見に行くと3人掛けで収まっていた。教師は知らん顔、これがドイツ流らしい。これらの2両編成、1996年に乗った時は白に窓廻り淡青の2トーンであったが、民有化(ドイツ鉄道)後、写真②赤主体に裾まわり白の標準色となり、旧東ドイツ圏でも見られるようになった。非電化ローカル線の標準的な列車編成は、写真③DL牽引の客車列車で、これはペンテルツーク(振子:行ったり、来たり)運転、最後尾車は制御車なのである。

ドイツ中部ライプチィッヒから西へ約50㎞、ナウムブルグと言う人口3万の元城下町がある。この町の市電はイヴェントに合わせての不定期運転。RE(地域急行、日本なら快速)で到着したらホーム反対側に、写真④低床4輪車が停車していた。車体長は確実に10m超のもので日本ならボギー車となるものだ。このあたりの第3セクターが、ドイツ鉄道の駅に乗り入れているのであった。これは日本にない姿である。

ドレスデンから西へ100km強、ツビカウと言う人口11万の都市がある。駅に到着すれば反対ホームに、写真⑤3車体連接車が停車中。よく見れば前後は1軸台車。中央は4軸ボギー構造になっている。このDCが駅外れから、写真⑥3線軌条で市の中心部に乗り入れている。そして、この第3セクターは市電乗り入れのみならず、大都市へ直行するため、写真⑦本線急行用DCも保有していた。

ドレスデンから西へ245km、エルフルトと言う人口20万人の都市がある。駅の東隣にインターシティホテルがあり、駅から南へ電車通りを5分も歩けば繁華街(居酒屋あり)であり、とても便利なところだ。老人は朝9時20分に駅ホームに出てみたら、写真⑧満員の大型DC重連が到着した。まず人が出て、次いで自転車族が降車するのを目の当たりにした。第3セクターに転換された沿線からの通勤客であった。これと同型車両を環境都市で知られるフライブルグでも見た。テレビ放映では、休日はDCで郊外へサイクリングに行くのが楽しみだ、との市民の声が紹介されていた。

 

国境で出会ったVT628系DC

国境で出会ったVT628系DC

繝・?カル専用の2両固定編成
ローカル専用の2両固定編成
DL牽引の振蜷・?成
DL牽引の振子編成
車長は10M超の第3セクターのDC
車長は10M超の第3セクターのDC
右・市内乗り入れDC、左・ICE-3
右・市内乗り入れDC、左・ICE-3
市電は1m軌間、DCは標準軌
市電は1m軌間、DCは標準軌
車籍は第3セクター、亜幹線急行用、時速160㌔で走る
車籍は第3セクター、亜幹線急行用、時速160㌔で走る
大型DCの車長は客車並みか
大型DCの車長は客車並みか

十和田観光電鉄、廃線へ!

今朝のテレビで来年3月31日でもって鉄道事業を廃止すると報じられた。その理由は東北新幹線の青森延長により、十和田湖観光のルートが変わったことよる鉄道利用者減少に加え、東日本大震災に兼業部門の大幅な業績ダウンにより鉄道事業の赤字を支え切れなくなった、としている。「デ元青」でも何度か伝えられた鉄道が消えることは寂しいおもいでならない。これが引き金となり、三陸海岸をめぐる鉄道が廃線にならないように祈っている。

阪神電車の追加

その昔のものが総本家さんの所に保管されていました。残念ながら5001+5002はないとの事。そのうち富士写真店さんに探してもらいましょう。ヘッドマークは古いほうが精悍ですね。何しろ梅田・三宮間25分で走ったのです。それも正真正銘のノンストップ特急だったのです。元町までが27分。この頃の阪急特急はまだ三宮の手前、春日野道あたりを走っていたのですが、残念ながら阪神は地下線のため置き去りにした阪急を見ることは不可能でした。この301形(3011系とも言う)のシートが沈み込むようなクッションで、これも忘れられない思い出です。国電の急行電車はこの頃、阪神間何分で走っていたのでしょうか?モハ52、80系共に旧性能車時代ですが、私鉄には負けていなかったように思います。
1958年は旧ヘッドマークで3連だった。(甲蜷・?下り先端)

1958年は旧ヘッドマークで3連だった。(甲子園下り先端)

1959年秋には4連3本3連1本に組み替えられた。
1959年秋には4連3本3連1本に組み替えられた。
ステンレス車体の試作を汽車会社に提案されたが・・・・・・
ステンレス車体の試作を汽車会社に提案されたが・・・・・・
どこかの大螯・?研が見螯・?来ていた。台車はKS59.空気バネ。
どこかの大学鉄研が見学に来ていた。台車はKS59.空気バネ。

京阪電車、ノンストップを走らせる!

さる10月3日、京阪電鉄は来る10月22日~12月4日までの全土、日、祝日において京橋~七条間において上り2臨時列車でノンストップ特急を走らせると発表した。1950年9月1日に開始した戦後のノンストップ運転は2000年6月30日を最後に終わりを迎えたが、改めて観光シーズンの旗手として復活するとは誠にめでたいことである。淀屋橋(9:36、10:06発)を出ると北浜、天満橋、京橋、七条、祇園四条、三条に停車、終着・出町柳まで58分の所要時間で走る。

さて注目のノンストップ区間のの所要時分だが、1956年3月ダイヤ改正では43.9㎞を34分30秒で走った。区間平均速度はなんと76.3㎞/hであった。以後の特急の所要時分、速度はこの数値を僅かに上下するにとどまった。今回、44㎞、43分となっている。平均速度は61.4㎞と大幅に及ばないのは残念。来年も行楽シーズンには運転し、列車名を公募するとしている。果たしてどんなネーミングとなるだろうか。鳩特急が亀特急とならぬように祈っている。

老人、伊香保温泉に遊ぶ

9月22日~26日間、お兄さん(老人のこと)の快気祝いを兼ねて秘湯巡りをするから出てらっしゃい、と義妹から誘いがかかった。連れ合いは即座に乗ったようで、「5日間休める?」と言った。「3日なら休めるが……」と声を濁した。同業者とのクルマの旅は楽しいが、車中女性3人と義弟(市川市民)の4人の喧噪にさらされるのは辛いなぁーと、一瞬思った。でも23~24日は付き合う、25日は伊香保電車の遺構が残っているようなら訪ねてみたい、これを条件に参加することにした。老人の連れ合いは22日に、老人は23日朝の出発で昼に白岡着。14時頃市川市民夫婦到着、そこで白岡町民夫婦(義妹とその旦那様)のBOXCARで15時に伊香保に向け出発となった。

経路は北関東自動車道で、地名ではJR両毛線や上毛電鉄のルートを走り、高崎から関越自動車道に入ったようだ。途中、田圃の真ん中のICで降りて宇宙船まがいの展望風呂で汗を流した。これでは秘湯とは言えんだろうなと大笑いになった。夕暮れの中、渋川ICから伊香保温泉へ向かう途中、右折するや右左折を繰り返し、義妹夫婦の借り別荘に到着。丘の斜面にコンクリート製の基礎を作り、その上にバス・トイレ付2DKを2層乗せた別荘である。義妹の旦那様の趣味は絵を画く事で、定年後は見晴らしの良いところで余生を送りたいと言っていた。今年10月末に契約解除するにあたり「お兄さんの快気祝いでご招待」となった次第。

24日、先ず秘湯巡りである。国道17号を分け入り三国峠直下で左へ細道を辿る”法師温泉”である。以前テレビで紹介され、一度は行ってみたい温泉であった。10:30~13:30間のみ1000円で日帰り入湯が可能である。入湯後11:45集合で伊香保温泉行かと思ったら、途中、月夜野温泉に寄ると言う。また入湯かいなと言ったら、「与謝野晶子記念館」見学だとのこと。運転手である旦那と老人の連れ合いが示し合わせたようだ。共に立命館大学二部文学部卒である。13:15いよいよ伊香保へ向けて出発かと思ったら、渋川郊外の水沢うどん街道で昼食だと言う。長いものには巻かれろ、伊香保温泉着は15:15になってしまった。

とにかく情報を得ねばならない、ロープウェイの駅に観光案内所があるというので急いだ。案内所の女性は50過ぎの方。「電車が登って来ていた話は知っていますが、その遺跡めいたものは何も残っていないようです。駅跡など全く分りません。」と気の毒そうに言った。その後、案内コーナー外にいた年寄りに声をかけてくれた。「O×さん、貴方若い頃、東武さんに勤めていたのじゃないの。」「おう、そうだよ、何か……」「この方、京都から電車のことで訪ねて来たのよ、何か覚えていない?」「電車のことか、古い話だなぁ、昭和31年一杯で終わった。伊香保の駅と車庫跡は下のバス乗り場になってしまい、何も分らん。線路跡も道路と関係なしだから何処を走っていたか全く分らん。渋川市内は道路脇だったから、ここがそうだといえるが、その場へ行かないと無理だな。そうだ、平形(ひらかた)先生の庭に1台保存されているが、わしは先生と無縁だから、どうすれば見られるか分らん。」

お年寄りは電車と関係ない、現在伊香保温泉のボランティア案内人をしている元東武鉄道社員であった。こんな会話を隣で聞いていた義妹が言った。「お兄さん、平形眼科なら知ってるわ、これから買い物に行く食品スーパー隣、マルエドラック横に平形眼科の大きな看板があるわ!」

これで1件落着になる筈であった。温泉元湯に入り、温泉饅頭を賞味してから買い物に行こうと言い出した輩がいたが、義妹が17時閉店の土産物屋に行こうと言い、16:40に温泉を離れた。土産物屋に立ち寄り、平形眼科の大看板向かいの駐車場に着いたのは17:15、夕暮れは迫って来る。大きなお屋敷だ。国道17号を渡りお屋敷への右カーブとなった進入路を上り詰めると、立派な八脚門が構えていた。その脇の隙間から電車の屋根が見えた。「あった!よかった、来たかいがあった。」

旦那様が「兄貴よ、此処から庭に入れるよ、中に入って撮って来ようか。」老人は「ちょっと待て、こちらの門は閉まっており、診察時間のみ門は開きますとなっている。」義妹は「電話をかけて了解を貰ったら?」市川市民は電話番号を調べてくれた。0279(22)0073である。掛けて見るが応答がない。3度試み諦めた。裏口から入って撮るという旦那様を制止、「警備保障に加入していたらどうする。たかが昔の電車1台、されど1台だよ、通報されたら代表者の老人の身元を言わねばならない。電車に肖像権があるかどうかは知らないが、公道から見える場所にあるならよいが、私有地に置かれているものだけに持ち主の許可を得ることが第一、クラブの誰かが撮りに来てくれるよ、今日はこれまで。」

JR渋川駅で下車、西へ(市役所通り)、三国街道(国道17号)交差点を左折、南下すると前方に平形医院眼科の看板が見える。お屋敷南端の道路を右にとれば八脚門が見える。徒歩15~20分か?訪問は診察時間内が良いと思われる。

 

作讌・?の入口から見る

 

老人は幻を追い、夢を見たのか

先日の【14871】コメントで、阪急京都線1600系強力4連(170kW×8)が、新幹線の経路となるべし線路上を時速120km超で走ったことを投稿した。さっそく準特急氏から、1600系の主電動機はデイ100のものを使ったから150kWではないか、ピクトリアル私鉄巡りではいずれも170kWにはなっていないとの指摘を受けた。はて、与太ネタをコメントしたのか、気になって眠れなくなってしまった。話の発端は高校生(1954年・昭和29年)になった頃、O師匠から「特急用のデイ115~117の内、115と116号の主電動機は710形と同じ170kwだ」と聞かされた。デイが特急用から外れたのは1300形の登場による。1300形はご存知の如く軽量設計による京都線用高性能車両のはしりである。これの車体とデイの更新工事の際に、制御車化したデイから外ずした電装機器を組み合わせ仕立上げたのが1600系である。その中には特急専用車であった115、116号の170kw主電動機が含まれているとされ、1600系に強力編成ありと、評判になった。

老人が新幹線となる線路上をすべる様に疾走する1600系4連の急行に乗った話をT師匠にしたところ、「それが強力1600系だ!」と言われた。だが車号は思い出せない。

710系は711~715編成までが170kw主電動機で新造され、716、717編成は150kw編成であったとも聞いた。後に3扉改造の時に170kwに統一されたようだ。このあたりの説明がピクトリアル誌では山口益生さんの説明がある。失礼ながら奥歯に物が挟まったような言い回しでもあり、なにか事情があったのではないかと勘ぐっている。

強力デイのことは故羽村先輩との間でも話題となった。こんな話を持ち出せば故高橋正男先輩に「ええ加減にしてくれ!」と怒鳴られそうだ。老人がデイの特急に初めて乗ったのは同志社中学入学の年(1951年)、秋の彼岸に兄に連れられ大阪の電車見物に行った帰途、天六-大宮間であった。主電動機が何型かは知らなかったが、10m長の50㎏レールの乗り心地は決して良いものではなかった。故人となられたO、T師匠、羽村、高橋両先輩、老人は今こんなことで悩んでいるのですが……。

有難うございました 高橋弘さん

訃報に接し、鉄道趣味の先達であり、師匠と仰いでいた方が次々と逝去され寂しい思いがしてならない。

高橋さんと同席となったのは1955年12月、奥野さん宅であった京都鉄道趣味同好会忘年会の時であった。この時、父は高校2年生に一升瓶を持っていけと言って渡してくれた。この忘年会には大橋さん、中谷さんも参加され、同好会会務と会誌「急電」発行についての打合せも行われたように思う。

忘年会は高山さんを含め6人、私は最年少で高山さんと高橋さんに挟まれ小さくなっていた。一升瓶を持ちこんだことで大いに盛り上がり、高橋さんから訪問された各地の電車話をお聞きする事ができた。私も姉が四国・善通寺で所帯を持ち、1954、1955年の夏休みに四国を巡った話をしたところ、興味をもって聞いて頂けた。その時、琴平参宮電鉄創業期の木造4輪車を撮りそこなった話をしたようで、後に3景の写真をそれぞれ2枚ずつ頂いた。この時「沖中君が琴参電車の紹介を何処かでする機会があったら自由に使ってくれたら良いよ」とおっしゃった。その3景は次のとおりである。

①     デハヨ型26号、撮影地は琴参琴平駅。高橋さんが東山中学5年秋(1949年と思われる)、修学旅行で四国へ行れた時のもので、夜行で高松に上陸、屋島と栗林公園に行き琴平で1泊、琴平神宮参拝後に撮影したとの説明があった。フィルムは映画用をライカ1型のパトローネに詰め込んだもので粒子が粗く、大きい写真は掲載に向かないから気をつけるように言われた。

以前、1954年夏に樫藪変電所横に留置されている竹製はしごを括りつけた27号を撮りそこなったと「デ元青」に記したが、それと同型車である。デハヨ型は5期に亘り新造されたが、その最終期1925年4月梅鉢鉄工所で製造された5両、24~28号の内の1両が26号である。廃車は1954年4月21日付けで28号と同時であり、27号は架線修理車として残されたが1955年3月末に廃車解体。開業期の車両はこの時点で見られなくなった。

②     和歌山鉄道モハ50号、於:東和歌山駅、1952年2月24日撮影。「琴参の2軸車改造とは思えない車体ですが、台車も改造か?」との高橋さんのコメント入りである。この50号は琴参のトップバッター、開業した1922年10月22日の祝賀電車となったものである。1939年10月に和歌山鉄道に売却されたデハヨ型は4両、11~13、15号の4両であった。燃料事情から水力発電が豊富な和歌山では、アメリカから原油を差し止められるやいなや、一早く鉄道電化に着手した。ノンステップ化、連結器取り付けなどの改造後50~53号と付番され、1941年12月末の電化工事の完成を待って1942年正月から使用開始となった。私は松電、長電、東京の電車見物を終えた後、国電モハ52が阪和線で特急運転している奧野さんに教わり、天王寺を朝9時過ぎ発で乗りに行っている。その時、この50号が東和歌山構内で貨車入換作業をしているのを見ていた。50号は旧11号の旧番号持つ。つまり1号車なのである。26号と11号は正面の横樋が曲線と直線の相違以外に、出入口が3ステップと2ステップの違いもあり、開業時の5両のうち4両はいち早く売却の憂き目にあった。

③     デハ56号、撮影場所と時は26号同じ。琴参は昭和期に入り乗客数が急上昇している。琴平急行電鉄開業もあり「金毘羅参り」が頂点に到達した頃、車両増備が図られた。結果は南海鉄道軌道線の余剰車両、元阪堺電鉄1型(1911年製)5両(15、17、29、37、39号車)の導入であった。1935年9月に購入され1936年2月に使用認可を得ている。南海側では50~54号と付番して出荷したと伝えられているが、すでに琴参には50形51~54号が存在しており、60形55~59号に改番された。導入後の写真では阪堺時代同様オープンデッキであったが、後に折畳扉を取り付けた。この5両は戦後鋼体化されているが、撮影された1949年の56号は鋼体化工事前である。

頂いた3枚の写真の説明はこれ位として、”参ったぁー”となった事が1件ある。2002年のことだったと記憶するのだが、高橋さんは鉄道友の会シルバー賞の栄誉に浴された。その祝賀会が二条駅北の弥栄会館で開催された。私は富山時代の2年間だけ入会しただけだったが、祝賀会の案内状が舞い込んだ。過去の短期間の会員であるのに関わらず、案内をいただいた事に感動を覚えると共に即座に出席の返事を出させていただいた。当日、受付で席札を貰ってびっくり!「A」となっているではないか。名札を探したら高橋さんの隣席ではないか。もう一方の隣席は吉川文夫さんとなっていた。これは何かの間違いではないかと、テーブル「B」におられた高山さんに問い質しに行った。いとも簡単に「あ々、あれかいな、あんたは付き合いが古いし、なんかあった時お互いに遠慮もないと思って吉川君とで挟んでおいた。」といわれた。この時、持病と言っておられた腰痛に悩んでおられた頃でもあった。大変な役を仰せつかったものだと思いながら、高山さんの願いを果たすべく高橋さんの手足となって動いたつもりであったが、終わりの方は旧知の人に久しぶりに会って「飲ん兵衛」になっていたかも知れない。その節は高橋さん、ごめんなさい。また天国でお会いしましょう。吉川さんをはじめ天下の「電車好き」が集まって語り合いましょう。

①大譽11年生まれにしては古閾・?スタイル

①大正11年生まれにしては古臭いスタイル

②金毘羅さんから紀伊國にやってきた元路面電車
②金毘羅さんから紀伊國にやってきた元路面電車
③浪速からこし入れた明治の木造ボギー車
③浪速からこし入れた明治の木造ボギー車

初めての汽車一人旅

 老人は同志社中学校2年(1952年)の夏休み、はじめて汽車による一人旅をしている。電車では小学校3年(1948年)以来、折に触れ奈良電、近鉄橿原線、同大阪線経由で父親の出生地(奈良県宇陀市古市場)往復を一人でしていた。汽車の旅となると母親の出生地(島根県吉賀町六日市)となり、小学2年の時の往路は父母同行、復路は9歳上の兄の迎えによるもので、以後なく寂しい思いがしていた。小学校の頃から地図を見るのが好きで、父の本棚にあった冨国書房・大日本帝国地理体系を引っ張り出していた。地方鉄道の電化線が赤線となっており、どんな電車が走っているのか、電車少年には興味そそられるものであった。中学2年の社会は地理中心で、フォッサマグナ(中央構造線)なる言葉を知った。その北端が北アルプスと知り日頃、標高1000m以下の山に囲まれての生活だけに高い山が見たかった。

この年は初めてアルバイトをしている。先のアイキャン屋の長女が従兄と結婚、縁類になることにより「たぁちゃん、みたらし団子づくり手伝って」となり、日給200円12日分、2,400円の大枚を手にしたのであった。これをどう使うか、かねて汽車の旅がしたいと願っていた老人は北アルプスと電車(松本電鉄と長野電鉄)、更に東京電車見物の旅の許可を父母に願い出た。父は即座にOK、長野で旅館を手配してくれた。善光寺参道東側”宮林旅館”であった。母は東急沿線大岡山駅近くの従兄に連絡してくれた。

さて中学2年生は盆明けに中央西線の夜行で先ず松本に早朝到着した。駅ホームで洗顔後、2食目の焼きおにぎりをほおばり、関西と違い丸味の少ない高床木造ボギー車で島々線往復をした。外部塗色は濃い茶色一色だった。次いで浅間線、ここは正面幕板(額)が広い高床木造ボギー車で、運転台を兼ねた出入口部が一段下がっているN電並みの車体構造であった。外部塗色は上高地線と同じ、この2線に乗ることが出来た。北アルプス連峰はどうだったか、全く覚えがない。昼飯は多分コッペパンを牛乳と共に腹へ流し込んだのであろう。午後は長野に移動、着いた善光寺の宿では米2合を差し出している。

松本で思い出したのはこの程度だが、実は結婚の翌年(1965年)盆休みに新婚夫婦は浅間線廃止を知らずに松本に来ている。野辺山荘で一泊、翌日は浅間線に乗って八方尾根を望見の後、上高地線で上高地帝国ホテル泊りのコースを画いて松本駅に到着した。駅前に松電の姿がない。この頃は今のように廃止と言って大騒ぎをしていなかった。ぼろ電に乗る楽しみが消えてギャフンとなった。上高地線は全て鋼製車体に更新され、上半薄いグレイ下半水色の塗り分けとなっていた。浅間線の外部塗色も末期は上高地線同様であったのだろう。

ところで老人は「鉄」復帰2年後(1988年)、河原町六角に移った駸々堂地方刊行物コーナーで信濃毎日新聞社・「信州の鉄道物語」を見付けた。趣味界の大御所、小林宇一郎監修とある。即座に買った。そこで松電島々線→浅間線→布引電鉄1~3号となった木造単車の布引時代の写真掲載【①】を見付けた。台車はブリル21E、写真に装着してみれば全体像は想像できる。浅間線時代は写真に見えるステップの下に更に1段、露出型のものがついていた。また別書では浅間線のダブルルーフ2,4号車の竣工時(ホデハ4,5)の図【②】も見付けたので紹介する。車体と台車は九州小倉にあった東洋車両(1924年7月)製で、台車は庄内交通1型と同型であった。いずれお目にかけることになるだろう。最盛期(昭和初期)の時刻表では、浅間温泉初発午前4時48分発から12分毎で終発午後11時48分まで、駅前初発は午前5時10分から12分毎で終発は午前0時10分まで、上り下り共に所要時分は22分、浅間温泉折り返し時分4分、駅前は着発のピストン運転となっていた。廃止直前は早朝、昼間、夜間は24分毎になっており、朝夕最混雑列車の前に横田-駅前間では続行車もあったようだ。

さて長野では長電乗り回し、「牛ではない電車に牽かれて善光寺参り」を果たし、夜行列車で早朝新宿到着となったのである。待合室で少憩後、西口から出て東京で最初に見た私鉄電車が京王電車であった。この時の印象は強烈で今に至るも残っている。25年ばかり前、高橋弘師匠にこの話をしたら師匠も同じ印象を持たれたようで、次にお伺いしたとき、1950年5月撮影の甲州街道上の写真をプリント【③】して待っていて下さった。その時貰った一景を紹介しよう。最古参車2000型である。「京王電車は2扉が似合う」とおっしゃった。

その京王電車の現在の姿、本年7月2日ふと思い立ち中央特快、高尾で下車した。跨線橋から見える京王線ホームには4扉20m車10連が見える。北野から奥は始めてでその昔、中央線から見えた時は確か2連だった記憶がある。長い連絡道?を急いでみたが発車した後のまつり。時刻表を見れば10連は「準特急」であった。次発は10分後の高幡不動行普通。北野で八王子発準特急に連絡とあり、山下りは7000系6連。次いで10連の9000系準特急で調布へ。乗り換えた普通8000系8連で下高井戸へ。いずれも20m4扉車。14m弱の車体に2扉が似合う姿ははるか彼方の物語。この「準特急」は如何なる列車か京都人には分らない。「準特急」氏の解説を待つ。

最後に須磨の大人出題のクイズ、3人は旦那、トオルちゃん、新兵の3人である。わっちゃらは同行していない。浅間線廃止(1964年3月31日)以前のことで、野辺山集合とならずだから3人は木曽森林辺りに行った時ではないだろうか。

おまけに恥ずかしながら自家現像失敗の巻。準特急さん笑ってやって下さい、1959年9月の庄内電鉄モハ7号の姿【④】である。初めての汽車一人旅ではカメラなしであった。

①松電島々線→左同浅間線→布引電鉄と流転

①松電島々線→左同浅間線→布引電鉄と流転

②ホデハ4,5の竣工時の型式図
②ホデハ4,5の竣工時の型式図
③高橋弘さんから貰った61年前の京王電車
③高橋弘さんから貰った61年前の京王電車
④あっと驚いた7年ぶりの再会
④あっと驚いた7年ぶりの再会

やったぁー!なでしこ日本!

世は節電ムード。これをネタに銭儲けに専念する輩も多い。老人は深夜なら後ろ指差されまいと、今朝も午前3時起床、テレビの前にかじりついた。沈滞ムードを一掃する快挙に4時間もかじりついてしまった。さて、7月13日、関西電力はJR西日本に節電を鉄道各社に要請しない旨、申し入れたと朝日夕刊トップ記事で報じられた。その2日後の夕刊16面2段見出しで阪急神戸線車両減で節電、と報じられた。「お〃やるか、阪急は!」の気持ちになった。その昔、電鉄各社は電力費低減のため工夫をこらしたものだ。1951年4月、京阪特急が1700系4連で登場した時、三条発車は4連、折り返し天満橋発は2連であった。1957年3月、急行が5連で運用されるようになった時、1000・1500・1200+1200・1000の組成で三条出発、折り返し天満橋発は3連と2連に分割され急行発車後1分遅れで、2連となった普通が発車する運用ががあった。共に終端駅で増解結を繰り返しながら列車運用をして、乗客の増減に応じ効率良い電力消費をしていたのである。

ところがATS設置の頃から状況に変化が見られるようになった。長編成組成も一因だが、固定編成が常識となり、運転台付き電動車が車両費節減につながるとして新造が抑えられてきた。それが空気を運ぶ列車増加につながっている。今回の阪急の処置は当然である。京都線も大市交乗り入れ列車を含め6連とすれば良いと思う。嵐山線も6300系は昼寝して7200系増結用2蓮で十二分だ。こうした動きの中で大飯原発故障運転中止が報じられた。阪急の選択は正しかったのである。このところ本線、副本線上での増解結は混乱を招くとして避けられる傾向にあるが、各社共々に工夫を凝らし減便ではなく先ず減車にに取り組んでみてはどうだろう。欧米では15分毎なら頻発運転なのだそうだ。関西は10分毎に慣らされてきた。東京は何でも3分毎だそうだ。行儀よく座れば快適な車内保持は確実に出来る。つぎはどこだろうか。

他に例を見ないオデコ・京浜140型

DRFCが結成される前の1958年春休み、3度目の東京電車見物に出かけている。当時のメモによれば4月4日東武西新井工場、5日雨につき京成全線乗りまわし、6日交通博物館、7日小田急経堂工場、そして相模鉄道5000形乗車、8日京浜川崎車庫と金沢文庫車庫となっていた。140型は最初の東京電車見物、1952年の時に見ており、230型の中間車として使用されていた。今回、他に例を見ないオデコ(関西ではデボチン)と紹介され、このオデコ「高松で見たぞ」となり探してみた。①高琴電鉄モハ21号である。吉川さんの記述によれば、開業期の1号型を大正期1926年に車体更新したものだと紹介されている。デ14形14~17号のうち16号のようだ。東急合併時には5110形5113号、京浜分離後は113号となり、四国に渡ることになった。

このスタイルなら「もう1丁あったぞ!」と探し出したのが1959年夏、京都駅で貨物列車の最後尾に繋がれ高松へ回送される姿を見た②128号。この120形は1921年藤永田造船製造のデ40形がスタートで、デボチン拡大初代となる。しかもタマゴ型5窓、関西スタイルがプロトタイプとなった。他に例を見ないオデコになったのは、正面に行き先方向幕を移したことが拡大理由だそうだ。京浜電車は窓高が大きいことで評判を呼んだが、そのはしりが後に120型となったデ40形と言えよう。その発展型が140形で、制御車として先頭に出るようになったのは120形引退が引き金になった様だ。120形は1958年に5両、翌年6両の廃車、その6両のうち2両が回送されている姿を、老人は図らずも目撃したのであった。高松では後に鋼体化、10形2両、60形4両となった。

1958年4月車両基本編成表では川崎車庫に140形は153~160号の8両が配属されており、そのうち2両が293+159(+261)、296+160(+271)-()内は朝夕ラッシュ時の増結車-の2編成となり、閑散時に140形の運転台が風を切ることになった。残る6両は230形に挟まれ本線用となっていた。川崎車庫所属車に120形11両中6両が大師線用として残り、そのうち123、124、126、128が3扉車290形とカップルとなり、先の140形組み込み編成と共に3扉車6本、ラッシュ時は2扉車230形の増結を得て威力を発揮したのであった。131号は266と編成を組み大師線用、127号も262と組み予備車となっていた。これがDRFC発足当時のデボチン電車の実態と言えるであろう。

ついでに京浜電車から終戦直後、63供出車として高松へ送られた電車は21号以外に7両あった。老人が瓦町駅待合室での仮眠から目覚めた時、始めて撮影した元京浜電車2両を紹介しよう。③70形71号は大正初期に製造されたデハ29型に始まる正面が丸い3ツ窓木造車の後身である。中央窓の上部が丸く左右の窓もカーブがきつく印象深い。72号と2両あった。④60形61号は70形の電動車で、4両の内3両は原型の木造車体を簡易鋼体化の結果、正面の特長あるスタイルは失われた。残る1両は鋼体を新造した正面2ツ窓d2D6D2dの近代的なスタイル、2電圧対応型の今後の琴電の標準車になる筈であった62号であった。更に1両、琴平線用に61号と同スタイルの制御車15000形1510号があった。いつのまにか600V用になり73号になっていた。これで7両となる。

先の記述の中で141形は140形、仕事と孫の付き合いは7/1~3であったこと、訂正します。

①デボチンの広さもさることながら、台枠もおもしろそうだ

①デボチンの広さもさることながら、台枠もおもしろそうだ

②仏生山到着後8ケ月後、ボ繝・?繝・?姿となった。
②仏生山到着後8ケ月後、ボロボロの姿となった。
③譽・?荳・?窓はイケメン(長身男前)運転士用に採用

③正面中央窓はイケメン(長身男前)運転士用に採用

④原型の姿が失われた簡易鋼体化
④原型の姿が失われた簡易鋼体化

梯子をくくりつけた電車

窓間柱を利用したくくりつけは1954年8月、琴参電鉄樫藪変電所に留置されているデハヨ27号で最初に見た。
5年後、9月15日に山形交通三山線を訪問、間澤終点(車庫所在)では工事用車が目の前で窓間柱と扉の保護棒を利用してくくりつけ、作業に出掛けて行った。先のデハヨ撮影に1955年行ったら廃車解体スミであった。
102号は工事用となっており、車内はノンシート

102号は工事用となっており、車内はノンシート

入口の取っ手と窓荳・?に繝・?プ掛してぶら下げた
入口の保護棒と窓中柱にロープ掛してぶら下げた

青蛙と赤蛙

東急電鉄初代5000形をなぜ青蛙と言うのだろうか。京都人は市電600形を【青電】と言っていたではないかと、漫才のネタになりそうな話題だ。理屈っぽい江戸人も京都流にすんなり幼児感覚で画期的な新型電車の登場を祝ったのだろう。比良山系一隅の小池が繁殖地として知られている【もりあお蛙】を、息子が小学生の時に見せてやったが、背は青でなく緑であった。

屁理屈はさておいて、1989年GWに九州へ電車の旅をしている。5月2日、仕事を手早く済ませ午後の新幹線で先ず小倉へ、門司港から夜行「かいもん」で西鹿児島へ、午後3時頃に熊本へ移動。翌日午後2時頃に市電で上熊本到着。そこで眼にしたのが【あおがえる】。ピク誌を通じ蛙の上陸は知っていたが、まさか単車で使われているとは……。後の行程もあり走行中の姿は諦め、北熊本の車庫へ向かった。車庫には検修要員の方だけであったが、蛙の運転台増設に至る経過を話していただいた。老人は静岡100形がワンマンカ-となり使われているのだと思っていたのでびっくり仰天となった。休日で要員が2人という事もあり、全身が撮り易い位置への移動は遠慮した。

その4年後、大井川鐵道から伊豆箱根鉄道駿豆本線に行こうと思い、3番電車で新金谷を出発した。吉原で眼にしたのが赤蛙。新幹線利用が多くなった東海道線の旅、岳南鉄道なんて忘れていた。次駅で降りて吉原にトンボ帰り。近郊電車区間並となりこうした事が出来るようになった。戻ってみると次列車が出迎えてくれた。これに乗って途中下車。貨物列車と煙突が背後にあるところで一景、これが今回の一枚となった。その後3回訪れることになった岳南鉄道。2年前の春は雨となり写真どころではなかった。青蛙に復元された編成があると知り終点まで行ってみたが8000系2連のみで、5000系は解体されたのか何処にもなかった。何でも東急電鉄が青蛙については引き取った?とかの話を耳にしたが、どうなのか知りたいものだ。

モノコック構造電車のはしりとして今も現役で残る熊電の2両、今月21日発売のピクトリアル誌№851の表紙を飾っている。米手作市氏の紹介はタイミングばっちり。今後の迷図作家氏の発表を楽しみにしている。河さんのピク誌での国電話も佳境に突入した。

本日は晴天なり、電車をボイコット!

本日は晴天なり、電車をボイコット!

下部が広がり、おっちんすわりの蛙の姿
下部が広がり、おっちんすわりの蛙の姿
この姿が譽・?なのだが、なぜか2パンタとなっている。
この姿が正位なのだが、なぜか2パンタとなっている。
この端面に運転台が増險・?れていた
この端面に運転台が増設されていた
本来こうした2連で走っていると思っていた
本来こうした2連で走っていると思っていた
貨車、煙突、煙の3本柱がここには必要
貨車、煙突、煙の3本柱がここには必要

電鉄の節電

先日来、関西電力が鉄道各社に節電を要請している事が報道されている。お得意先であり、株主である先に要請をしているが、政府がお触れを出した東京電力の場合と異なり、少し遠慮がちであるように見受けられる。15%の時は戸惑い、5%なら何とかなるとも報じられた。今朝の新聞では10%となった。さて、【13585】で須磨の大人が28年前、カナダ・エドモントン市に長期出張した話を披露してくれた。老人もその頃(1980年1月)、ドイツ・フランクフルト等に業界視察と交流と言う名目で10日間出張したことを思い出した。彼が出張先で、自動車から電車撮影したことを知り敬服している。あの電車はドイツ製で、今や世界で話題となっているLRT のLRV、その”さきがけ”となったものである。彼が28年前に撮影した連接車は、1968年に試作車が出現した。車体はデュワーグ社の製造によるもので、形式はU2、1単位の車体長は23m(連結面間は約24.8m)、巾2.65m、自重29.5t、座席定員64人、出力150kw×2となっている。

老人はフランクフルト4日目に自由行動が許され、吉谷先輩から聞かされていた路下電車探訪をする事にした。前日、市内地図を中央駅の書店で仕入れ、ホテルマンに地下鉄の乗り場を地図にマークしてもらったら、中央駅地下から北の方向目がけてのルートがそうであった。西駅を出てしばらくすると地上に出て国鉄線と合流し専用軌道となった。住宅街の一部は併用軌道、そのうち地下に潜り終点。地上に出てみると市の中心部であった。この時乗ったのがU2であった。真っ赤をベースに腰部をアイボリ-とした、派手な外部塗色はとても印象的であった。そして街並み拝見を始めたのだが、ゲーテ大学近くの交差点でU2が1単位で停車しているのを見つけバカチョンで撮った。今回探して見たけれどもフィルムは出てきたが、写真は見付からない。そこで1990年5月、サンディエゴでのU2をお目にかける。赤1色である。南へはメキシコ国境へ向うが、市街地を外れると貨物線を利用したところもあった。後に東へ延びたルートには行っていないが、大陸横断鉄道の最南端ルートになっているとかで、今もDL牽引の貨物列車との併用区間が随所にあるとか……。U2が登場した頃はまだ超低床車、ステップレスなんて話題になっていなかった。

ここで本題。U2形は2車体連接車で非貫通両運型である。閑散時は1単位でも走れる。今回、関電に節電を要請された電鉄各社は、最も電気を消費するのは列車運行に関わる鉄道部門であろう。間引き運転、ダイヤ変更、減車と、いろんな方法が考えられているが結論はまだのようだ。阪急京阪線の昼間時、「空気を運ぶ車内に見慣れている」老人は、8両固定編成で本線上を走っている普通や準急は果たして減車出来るのかと、ピクトリアル誌の「阪急特集号」を取り出してみた。神宝線共に、以外に生きている運転台付の中間車があることが分った。南海も大丈夫。近鉄は増結用の2連が多い。深刻なのは京阪と阪神だ。京阪は輸送力大増強時代、2600系を除き7、8連固定に編成替えをした結果、中間運転台を客室に改造してしまった。阪神も同様で、大阪なんば線用の1000系が登場する迄は、武庫川線用を除き4、6両編成しかなかった。山陽も神戸電鉄も然り。となると減車可能は阪急、近鉄、南海ぐらいのもので、他は相変わらず「空気を運ぶ」電車が残るようだ。JRは?

ドイツでは地下線でも運転される車両は、貫通式であることが義務付けられていないようだ。そこでU2はラッシュ時3単位で地下線運用されている。路下のため急カーブもある。連結部は長いリーチを生かし急カーブにも対応している。とてもじゃないけれど貫通幌など装備できない。でもこれが効を奏して、簡単に増解結可能となり、効率良い運用が可能となる。節電電車の一つであろう。話題がこじつけとなり申し訳ない。

3単位連結すると65.4mになる

3単位連結すると65.4mになる

陽気な女性運転手の投げ繧・?スを頂戴する
陽気な女性運転手の投げキッスを頂戴する
路面から車内の床まで4段ある
路面から車内の床まで4段ある

旅は道連れ世はクルマ

 若い頃は一人旅がほとんどで、須磨の大人と淡路島に渡った事など稀有の事だった。社会人となり、DRFC仲間と「鉄旅行」をする機会があった。1977年1月に津軽鉄道、南部縦貫鉄道を訪ねた時は斜陽館に泊り、ストーブ列車運休の腹いせは芦野公園での雪合戦となった。こうした旅は「鉄」が欠けても後世に語り継がれるものとなっている。

今回の主役は「ぶんしゅう」氏で、老人は突然「先日の企画乗った」と言って、道連れにして欲しいと頼んだ。あつかましくも3ケ所に行きたいと注文をつけた。①琴電仏生山車庫の「松下さん」に一枚の写真を届けたい。②高架駅となった高知駅が見たい。③善通寺の姉夫婦と会いたい。いずれも1954年8月(高1)の一人旅に関係することであり、そして琴電、琴参、土電、伊予鉄の車庫めぐりが始まった。伊予鉄は先に須磨の大人の写真で車両説明をしたので、今後触れない。残る3線、琴参は富山勤務時代の1963(三八豪雪)年9月15日が最終日となった。その翌年秋に高知出張のおり早朝に善通寺で下車し車庫へ赴き、留置車1両毎に別れを告げた。この話は「関西の鉄道」で紹介したが、いずれ琴参の思い出話は書き残しておこうと思う。

さて今回の注文①だが、2005年秋に高知へ行った帰途に仏生山車庫に立ち寄った。検車庫(西側)内に120号車が整備を終え留置されていた。最初の四国行は京都21時発、夜行普通列車四国連絡宇野行きで早朝高松駅に到着した。仮駅であった高松桟橋駅で車庫の所在駅を聞き出し、ひとまず瓦町駅待合室で仮眠をしている。目覚めて構内で志度線、長尾線、留置線で車両撮影の後、仏生山車庫に行った。車庫長さんに車両のあらましを聞き、最初に撮ったのが120号。陽は西に回り足回りもバッチリで、老人お気に入りの1景である。この時の話を「松下さん」にしたところ、くしくも検車庫内にあった120号を庫外に、それも撮影した位置に異動してもらった。そのお礼に半世紀前の姿をプリントして持って来ると約束をした。2007年GWに行く筈が果せず、晩秋に体調不良となり一人旅にドクターストップがかかった。それが今回、ぶんしゅう氏に道連れとしていただき実現したのである。また松下さんから120号が動態保存対象車になっている事も伺っていた。

次いで②、TMS38号を今も所持している方、池田さんの四国めぐりの稿をご一読いただきたい。四国山脈越えの土讃線では蒸気機関車のトンネル内煙害防止のため後押し運転しており、そのため先頭車となるオハフ61はタイフォンを装備している、との話が出てくる。老人はこれに興味をもち、善通寺から早朝1番列車で高知に向った。途中C58が後部に回ることなしで高知着となり、機関士に質問してみた。「前年、土佐山田→新改間でやっていたが、重油併焼装置をつけることで中止になった。」との答が返ってきた。何度も降り立った高知駅が高架化されると聞き、「土電(とでんではなくとさでんと発音する)の乗降場を引き入れエスカレーターでホームと直結する。」との情報がもたらされた。ホンマかいな?と思っていたら、憶測によるものだと土電の方に知らされた。でも2005年は未だ躯体工事中の真っ盛りで全体像が掴めなかった。それを今回、土電乗降場と天井の高いコンコースを見届けて高知駅見学は終わった。1954年8月の駅前には都電スタイルの205号(蛍橋行)が停車していた。後部に控えている7型は蛍橋行の後を追い桟橋行となる。

そして③、琴参54号は1927年製の路面電車スタイルだが、床高1,000粍の高床車である。扉を開けると3段ステップで客室床面となる。車輪径は858粍、50馬力×2、自重17.5屯。路面区間はシリーズ運転。郊外に出て専用軌道になるとパラレル運転となり、轟音と共に疾走していた。

今回ぶんしゅう氏は、おしゃべりを道連れにしてへきへきしていたに違いない。その昔、老人を道連れにした旦那は「何でも良いから喋ってくれ、横で居眠りされたら今畜生!となる。」と言っていた。世はクルマ時代、有料高速道路1,000円の恩恵に浴し、燃料費込みで5日間1人当たり11,281円の交通費となった。これではクルマ族は鉄道離れして、利用者が減少する筈だ。

①-1 これが老人お気に入りの1景なり

①-1 これが老人お気に入りの1景なり

①-2 3000型は台車以外に窓上R無し迚・?1000型と異なる
①-2 3000型は台車以外に窓上R無し等が1000型と異なる
①-3 角型5000型の貫通扉は扇風機代用になる片引扉
①-3 角型5000型の貫通扉は扇風機代用になる片引扉
①-4 閑散期の急行は500号1両
①-4 閑散期の急行は500号1両
②都電そっくりの土電が高知駅前に
②都電そっくりの土電が高知駅前に
③四国螯・?の南側の街路を走る50型
③四国学院の南側の街路を走る50型

米手作市氏にしがみつく

5年前の今頃、姪の結婚式が成田であり、そのついでに銚子電鉄に47年ぶりに立ち寄り、濡れせんべいを乙訓へ送る手配をしたこと、投稿した。その折に銚電・笠上黒生駅上りホーム側線でデハ101号見つけたと記したように思う。その時の姿を今回紹介しよう。この101号についてはDRFC時代から関心を抱いていた。奧野利夫師匠に特異な構造した台車をつけている電車だ、と聞かされていた。同型台車が花巻電鉄にあることも奧野師匠に教えられた。その花巻電鉄を訪れたのは1959年9月20日と当時の手帳には記されてある。

この日、老人は盛岡から夜行で石越着、栗原電鉄・若柳町にある車庫へ出向き在籍車両調査をさせてもらった。その後、石越を12時20分発117レ青森行普通で花巻に14時49分着であった。到着するや線路をまたいで花巻電鉄の線路にまっしぐら、15時7分発鉛温泉行をとらえるためであった。馬面電車と思いきや、不細工な芋電車(鉄デハ2+サハ3)が出てきたのにはがっかりであった。でも台車は特異な構造のものであることが確認出来て満足であった。こうなれば乗りたい。

車庫で在籍車両など教えてもらい、次の16時発は馬面電車(軌デハ4)単行で、志度平温泉までとのことだったが、委細かまわず乗ることにした。車体幅1,600ミリは車内幅となると1400ミリ程度しかない。座席の奥行きは300ミリ程度だったが、それでも車掌はキップを売りに来た。乗り心地は押して知るべしゴツゴツしたものであった。なぜなら揺れ枕バネがない。これが特異な構造、揺れ枕ナシのボギー台車なのだ。だがその台車を丸裸では見たことがない。それが笠上黒生駅の側線にあるボロボロ姿の101号に装着されていたのだ。

木立の蔭に隠れるように留置されているデハ101号。時が時なら、国が国ならスクラップとなりその生涯を終えていたかもしれないが、この国では朝鮮事変後のように「テーツ、買いまっせぇー」と、自転車でリヤカー引いた鉢巻姿のオッサンは今では現れない。なんとしても台車枠内に首を突っ込んで揺れ枕の有無を、姿を、無いならその代わりになるものを確かめたい。だが諦めた。蜂の巣が台枠にあるのに気付いたからである。家蜂がいる。結婚式に顔を腫らしていくわけに行かない。仕方なく離れて撮るよりしかたが無い。そこで撮れたのが今回の1枚。以来、特異な構造のボギー台車、花巻で乗ることは出来たが肝心な箇所を見ることなく「お迎えの来る日」を待つばかりかと思いきや、哲男さんのお陰で写真で知ることが出来た。でも上からの撮影でないので今ひとつ良く分らない。東武鉄道の門を叩かねばならないのか、その時は哲男さんにエスコートしてもらおう。

さて、揚げ足取るつもりは無いが、花巻電鉄の始発駅は花巻市の都心に当る中央花巻駅で、元岩手軽便鉄道の始発駅でもあった。軽便が改軌するまでは「遠野物語」の出発点を共有したことになるが、軽便の方が先輩である。その後、観光で中央花巻駅跡の近くに行ったことがあるが、往時は花巻市の南西端に位置する場所のように見受けた。家並みの中を西に向かい、国鉄線を越えたところが西花巻。したがってここが創業時の中心で車庫も設けられていた。鉄道線として花巻温泉に向け西北方向に延長されるに従い国鉄駅西側に「花巻駅」が設置され、1931年の車庫火災をきっかけに「花巻」に車庫は移転されたと聞く。1965年7月、東北本線電化工事に合わせ西花巻~中央花巻間は廃止となった。

米手作市さんが身を「しばらく隠すぞよ。その間クローバー会のこと、しっかりたのむぞ!」と仰せられてから間もなく1週間となる。直ぐに乗られずであったが、電車に関係ない方面で2010年のことがまとめられ、デッキにしがみつく行為が可能になった。そして昨日買った鉄道ピクトリアル8月号、なんと我々の仲間になって頂いた「河 昭一郎さん」の玉稿のスタートだ! 内容は先ず手にしてのお楽しみ。売り切れぬうちに本屋へダッシュしよう。

床下を覗き込むも蜂の巣が……

床下を覗き込むも蜂の巣が……

 

やっと出合った特異な台車

しずしずお出ましの芋?電車

トレーラーは揺れ枕付のアーチバー型