人と鉄道と-乗り易い電車-

前回のサンテ・チェンヌ、中心街の停留所背後はバスターミナルで、電車とバスの結節点となっている。ふと気付いたのが連接トロリーバス。11乳母車の母親が車内の人に何か話している。やがて12白髪の紳士が身を乗り出し乳母車を受け取り、ヤレヤレとなった。子供を乗せたままの最近の乳母車、どこの国でもバスに乗せるには苦労している。ドイツに入国して季節運行のナウムブルグ市電を訪ねた。市電は駅前ではなく徒歩10分の公園前からの運行であった。路上から車内への乳母車搬入は電車でも大変である。この時は13運転手君が父親に協力していた。

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画11,12、13

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今回の探訪テーマはノンステップカーの品定めである、快適性トップはカールスルーエの3車体連接車、14形式はデユワグGT-70/Nである。快適としたのは、最後尾部が展望室構造になっていたからである。それとは関係ないが客室の床高が超低床車の中では少し高く、出入り口部に勾配が15生じる。電車の乗り場(安全地帯)とステップ先端と歩道面の段差が15㎝と大きく、乳母車に乗っている子供も16少し気にしているようだ。歩道がない道路面からだと3840㎝となる。同じメーカーであるボンの6xGe13ZR NTは、中間車の構造が異なり乗降部と道路での段差が30㎝、17,18これならご婦人でも気軽に乗り降りできる。

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人と鉄道と-通行人と車内-

人と鉄道と-通行人と車内-

急行「やまと」にレンズを向けた記憶のない老人は、鉄・復活後は路面電車のスナップ中心に楽しんでいる。フランスで2度オッサンに怒鳴られた事を紹介したが、貴夫人は如何なりやと写真を探してみた。1996年GWの欧州低床路面電車探訪で、フランス中西部の元炭鉱街であったサンテ・チェンヌでの光景だが、中心街は京都市・都市計画道路1期線の幅員10間より狭い。恐らく15m幅であると思われるもので、標準レンズでは歩道部分も視野に入ってしまう。画1:左右の貴婦人は怖い顔してレンズを睨んでいる。画2:左の貴婦人は旧型電車到着を前にしてプイッと横を向いてしまった。そして反対方向から来た電車にレンズを向けたら画3:左側に貴婦人が2人、撮って会釈をしたら右側青コートの貴婦人は手を振ってくれた。画4:老人が立っていた乗り場は歩道で、ノンステップ電車と歩道天端の高低差15㎝で、右のお嬢さんにっこりでヤレヤレ!

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大阪市電が走る?

6月8日は阪堺【路面電車の日】であった。どですかでん氏と阪堺電車我孫子道にある車庫で15時に待ち合わせる事になった。その理由は彼が語るとして、2年前の手術後、総本家氏が阪堺沿線で撮影会をするから参加しないかとの誘いがあった。それに乗って久しぶりに車庫に出向いた。今回はどですかでん氏の情報に乗り、まず浜寺公園駅へと、恵美須町から352号で懐かしいモ101型のモーター磁気騒音に耳を傾けた。我孫子道を出て工場建屋横から大和川橋梁への勾配に向け全力を挙げた時、ふと留置線を見ると大阪市電3001型の装いをまとった顔が見えた。

浜寺に向ったのは2年前、駅高架化の工事予告が掲示されていたからで、その後の進展は如何なりやと、確認のためであった。しかし、折り返し車庫に戻る事にした。大阪市電が留置されている、何事ぞ!と思ったからである。車庫に到着するや日本路面電車同好会関西支部のテントに向った。久しぶりの顔があった。「大阪市電色が見えたがどないしたんや?、まさか大阪市長がスポンサーになったんとちゃうやろなぁー?」。返ってきた返事は351型が走り出した50年記念で、大阪市交通局の協力を得て外部塗色を復元したのだとか。留置位置には354号が懐かしい装いとなっていた。

南霞町駅から東へ徒歩三分、じゃんじゃん横丁入口、パチンコ屋の地下、居酒屋【大吉】が2次会会場である。ここで知ったのはその354号を貸し切り電車に仕立てると言う。その日は6月15日(土)午後だとのこと。以前256(元京都市電)号、125(元大阪市電)号を有志で借切って、お別れ運転をした。今回は駄目だ。ボランティア先の年次総会当日で、老人はそこで【サヨナラ挨拶】をすることになっている。今回のオーナーである工藤さんから当日の計画を知らされた。それでは回送で我孫子道14:00頃出庫、浜寺駅前14:30頃着、折り返し貸切(乗車)となり我孫子道15:10頃着。入庫して撮影会の後、我孫子道15:50頃貸切で発、恵美須町16:10頃着。折り返し16:20頃発、我孫子道16:40頃着、入庫。我孫子道17:00発、浜寺着17:30頃着で下車となり、これで貸切運行は終わる。参加費は3000円を目途にしているとの事。詳しくは工藤さんに直接メールでkudoh-miyanoshita@flute.ocn.ne.jp問い合わせると分かる。電話は090 5969 1058です。残念ながら上町筋には今回出てこない。

90周年記念で1993年7月31日、緑木車庫で

90周年記念で1993年7月31日、緑木車庫で

贅を尽くした通勤、通学、行楽特急・京阪3000系

今週はビスタⅡが登場した。仁連上人著のJTBキャンブックス“近鉄特急 上”89頁を開いてほしい。老人撮影の先頭部が紹介されているが、窓ガラスが1枚物であることが分かる。このパノラミックガラスはその後の増備車では片端カーブ部分は分離されてしまった。理由はともあれ、こうした正面窓ガラスの片端が曲面となった電車の日本での登場は1957年秋の名鉄5200型であると思う。老人はピクトリアル誌で知り翌年春に東京への道中、岐阜で下車して新岐阜駅に赴き現車をしげしげ拝顔したのだが、曲線部分にかかるところにステンレス縦割バーを見付け違和感を覚えた。その翌年秋、ビスタⅡは曲面1枚ガラスで登場した。やっと日本のガラス業界も一歩前進したと思った。京王電鉄5000系が1963年登場した時、東京出張の折に新宿まで正面窓を見に行った。残念ながら名鉄流であった。

それが1971年、京阪電車3000系は老人の宿願を果たしてくれた。最初に四条交差点で見た時の感動は今に至るも覚えている。かぶりつきのロマンスシートは子供たちに占領され、なかなか座れなかったが、淀屋橋から乗ると確保し易いことに気付いたのは増備車投入後であった。着席は右列通路側とした。この位置からは曲面部分の展望がまことによろしい。これは8000系においても然りである。

3000系がダブルデッカーを挟んでの試運転は夜間にあると、「ぷるぷる」氏から連絡があった。1995年12月14日出町柳22:58着、23:08発、最終特急後追いで走行試験をするとの事。この時に昼間の試運転ダイヤも教えてもらった。翌15日上り丹波橋14:33着、14:35発、これが目を引いた。この日、淀車庫拡張工事に絡む信号所新築内装工事打ち合せが15:00に設定されていた。勤務先担当者から同行を求められており、行きがけの駄賃とばかり社用車便乗で行くことにした。ダブルデッカーを横大路のカーブで迎え撃つのである。無事果たすことが出来た。

老人は1962年に向日町に転居した。この時に旦那に「裏切り者!」と言われた。それを区切りとして守口車庫に近寄っていない。従って3000系誕生の経緯など聞いていない。でも対岸から何時も観察していた。その対岸からの展望は如何にと、石清水八幡宮の参道を辿り展望台に向かったのは35年ばかり前で、住宅建設現場で大工に教えられ事による。その後、ぷるぷる氏とケーブル取替直後に便乗させてもらい、はるか天王山の下を走る鉄道3線との比較を論じた思い出を持つ。そんなこともあり3月31日の3000系お別れの日は“おたまちゃん”と2人で、八幡さんの展望台から靄のかかった2川合流地を見下ろしながら3000系と別れを告げたのであった。

名鉄5200型は豊鉄1900型に変身

名鉄5200型は豊鉄1900型に変身

出町柳で待機中の試運転発車直前

出町柳で待機中の試運転発車直前

山側のごもく捨て場は公園に整備された

山側のごもく捨て場は公園に整備された

ダブルデッカーには最初から時代祭のシールが……

ダブルデッカーには最初から時代祭のシールが……

試運転は順調に流れているようだ

試運転は順調に流れているようだ

下津井電鉄の思い出

1955年3月末、初めて下津井電鉄を訪れている。前年8月、姉が四国善通寺で世帯を持ったことで、四国へ電車を訪ねる旅が始まった。最初の宇野線への踏み入れは京都21時発、四国連絡の夜行普通列車であった。東海道、山陽本線はC59牽引であったが、宇野線に入るとD50となった。途中交換の貨物列車もD50で、今から考えると乙線であったのだろう。茶屋町停車で夜目に気付いたのが荷物台付きの四角い電車、始めてみる軽便電車であった。だがこの年の乗車券は京都-高知間往復学割で、行き帰りに途中下車で善通寺に立ち寄っている。次は茶屋町下車で、軽便電車に乗って下津井から関西汽船で丸亀へ、そして琴参電車で善通寺入りしようと思った。

そして翌年春休み、茶屋町到着は深夜であった。下車した16才の少年以外は籠を担いだ行商人、岡山からの新聞であった。夜行列車到着時の駅ホームは賑やかになる。ホームの電灯は全て点灯され、荷扱い車掌と新聞配達人の大声の応酬がある。行商人は跨線橋を渡り、新聞屋は包みを担ぎ線路敷を歩き駅本屋側で待つリヤカーや自転車に運搬する。上り夜行普通列車は茶屋町交換のため、上下列車が出発した後のホームは消灯となり、夜のしじまは戻った。少年は待合室で転寝となり、駅の喧躁と共に目覚めたのだが、一番電車は出た後であった。二番電車の発車前に到着した下津井発一番は、前部の荷物台に魚のトロ箱を乗せた3両編成であった。先のthurukame君紹介の編成がその姿である。ホームに魚の匂いが立ち込める中、少年を乗せた新車2両編成は出発した。と共に睡魔が襲い気付いた時は山沿いを走っていた。窓外に下津井の甍を眺めつつ終点となった。ホーム端から見えた木造車庫には木造客車がぎっしり詰め込まれていた。車庫事務所の扉を開けたが無人で、ウロウロして怒られるのが嫌だから一旦改札を出た。港はすぐ傍で食堂も開店していた。この年カメラ持たずで、朝食後は下津井の街並みを拝見して丸亀への便船に乗った。その後来る筈が、DRFCで須磨の大人と出会い、ニブロクは彼の領域として近づかなかった。それが1961年3月thurukame君が訪問した事を知り、NEOPAN SSを借り名刺版プリントで訪問の時を探っていた。

1963年9月、富山から大阪に転勤、その翌年から四国、中国地区担当となった年の秋、午前中に丸亀で用務を果たし午後、関西汽船のフェリーボートで下津井を目指した。車庫には9年半前に見た木造客車の幾らかが残っていた。元気動車の一部は台枠足回り流用でナニワ工機タイプのMTc編成に更新改造されていた。その編成で茶屋町を目指し21km50分の快適な旅を万喫することが出来た。鷲羽山麓に取り付き、琴海から転がるように下るが、児島湾が見え隠れするうちに川沿いを児島の町に走り込んだ。児島からは田圃の中を淡々と走るが、元は児島湾であった干拓地のせいか水路をまたぐ築堤箇所が多いのに気付いた。

下津井電鉄の愛称は“しもでん”というが、仕事でも付き合いがあった。岡山市内の設計事務所から地区代理店に「電車の好きな大阪の営業マンが来たら立ち寄るように……」との伝言があった。何事ならん、と出向いたら「下電の宿舎で採用するから現場の建築屋に挨拶に行くように……」とのことであった。喜び勇んで天満屋隣のバスセンターから建築地・児島に向かった。下電のバスは当時定評があり、路線バスでもリアエンジンで快適さを売り物にしていた。四国に向かうときは岡山に立ち寄り1泊、早朝のバスで宇野へ、国道フェリーで高松上陸すれば午前中に一仕事出来た。何より連絡船の行列とは無縁であるから快適であった。岡山から高知に向かう時は下電バス→児島→下電→下津井→関西汽船→丸亀→国鉄のコースを辿ることもあった。こうした四国担当は大阪万博を前に終わった。

1966年京都転職後、四国の元得意先から呼び出しがあり出向くことがあった。その中には下電の診療所工事もあった。そして1972年4月児島-茶屋町間が廃線になった。世はバス時代で、電車の役割は鷲羽山の裾野、道路整備が遅れている地区のみとされた。それが瀬戸大橋開通を機に鷲羽山を中心に一大観光地として再開発する事業に下電は打って出た。

1988年4月10日JRの本州と四国のレイルがつながった。乙訓の老人は5月1日、下電を久しぶりに訪問した。橋の開通祝いは善通寺でやるべく、すき焼き肉と九条ねぎを背負っての出で立ちであった。この頃8ミリ撮影をしており、東下津井から始まる大カーブを畑の中から撮影することを目論んでいた。JR児島で下車したのは初めてで、西に歩くこと10分ばかりで下電児島に到着、けばけばしい装飾にびっくりした。改札内外共にも田舎の電車乗り場とは言えない装飾で、その中に1001号“赤いクレパス号”こと落書き電車が止まっていた。ほぼ満員の客を乗せ発車した。かぶりつきは先客の子供と鉄ちゃんに占拠されており、老人(この時は満50歳1日)は入り口近くで立ちん坊であった。展望電車“メリーベル号とは琴海駅で交換した。そして大カーブを辿り、ほぼ15年ぶりで下津井到着となった。

まず目についたものをOM10で撮った。今回プリントしてみたらご披露申し上げた「ざま」である。

富士カメラ店の店主はびっくり仰天、コンピュター技術駆使してやっとこさ黄色を弱く出来た、と言っている。モノクロはそれなりに見られるが、カラーは全くダメと言わねばならない。フィルムはFUJIネガカラー100で625の数字が入っている。1958年はNEOPAN SSで、30年後にまたしてもFUJIにやられた。その後、めでたく8ミリ撮影をしているが、これもFUJI COLORである。映写機が壊れたから廃棄済みである。どなたかシングル8対応の映写機お持ちでしょうか、声掛け願います。

丸亀へのフェリーは大型の新造船で、これに合わせて丸亀港も移転していた。

姉は2011年暮れに神に召されたが、今も善通寺との往来は継続中である。

投稿に並行して準特急氏から頂戴した、ナローゲージ鉄道・下電の戦後五十年“イーグルよ翔べ”を読んでいた。鉄道部門撤退、バス事業後退の中、生き残りをかけての企業の姿が画かれている。都市圏で何とか生き残っている日本の鉄道だが、百年後はどうなっているのだろうか。エネルギー効率の良い電鉄だと言っても世の中の潮流に乗れなくなると見放されるは必須である。その時のあがきが本書には説き起こされているようだ。筆者は同志社大学法学部出身である。何年度入学なのか知りたい。

これが名物落書き電車

これが名物落書き電車

掃かない車生だったメリーベル号

掃かない車生だったメリーベル号

富士フィルムは宣伝は上手、品質は一体どうなのか?

富士フィルムは宣伝は上手、品質は一体どうなのか?

べんけい号と名付けられていたが、どこを走ったのか不明

べんけい号と名付けられていたが、どこを走ったのか不明

西村君が紹介した他所で保存されたクハ6らしい

西村君が紹介した他所で保存されたクハらしい

廃線の井傘鉄道から入選したものらしい

廃線の井傘鉄道から入選したものらしい

玉野市営電鉄制御車201号

先日、玉野市営電鉄が紹介された。荒尾市営電鉄と共に市電と言われながら一風変わった雰囲気を持つものであった。専用軌道を走る鉄道線型の車両、これが両社に共通するもので、そして戦争の落し子であったと言えるであろう。玉野の場合、制御車を導入したのは高度成長時代の一現象と思われるが、僅かの間であっただけに知る人も少ない。老人が富山で雪と格闘している時に入線し、大阪に転勤となった時には終焉期を迎えただけに、どんなダイヤで運用されたか知らない。またDC化後、訪問したことなく、どんな色をしていたのかも知らない。制御車クハ201号、野上電鉄時代の姿をお目にかけようと思う。いずれも1958年12月5日、1960年5月15日、日方車庫で調査の合間を縫っての撮影である。ツートンカラーは1958年、上半クリーム下半明るく薄いブルー。1960年は青味かかったグリーン一色であった。102号が玉野201になった由。

デハ7時代は半鋼4輪単車で、ホイルベース2438ミリのブリル21E台車に20馬力の電動機2ケで走った。1946年11月に6、7号は101、102に改番、1954年には自社で車体延長工事を施工した。約8.5m車体が11,2mになったと言うが、工事後の車体長は連結器込の全長であると思う。台車はTR26となっていたが、変芯台車であり、果たして八日市鉄道時代のものかどうか、これは須磨様の解明をお伺いを立てる事にしよう。デハ時代の自重は10トン、クハとなってからは12.4トンとなっていた。

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図面の4輪車はボギー車に改造された

図面の4輪車はボギー車に改造された

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緊急報!「船場まつり」12日は午前中のみ開場

船場まつりは主催者側の都合で、10月12日(金)は午前中のみの開場となりました。13,14日は午前10時より午後5時まで開場となります。DRFC参加内容は模型運転展示のみで、参加内容の変更はありません。

以上、現役渉外担当から緊急報として連絡ありましたので、「デジ青」愛用者の皆さんにお知らせします。

2012鉄道記念日・DRFCはあついぜ!

今年の10月14日は1872年に日本の鉄道が新橋ー横浜間で開通して140年の節目の日です。

図らずもこの日、同志社大学鉄道同好会は3ケ所で活動をすることになりました。一つは青森で、同志社大学校友会からの声懸かりで、校祖新島襄先生と縁ある青森で「青森を走った汽車・電車」をタイトルとして写真展を、10月12~17日間で、開催することになりました。会場は青森駅から徒歩5分、ギャラリーNOVITAです。詳しくは次の電話でお問い合わせください。017-773-3746です。クローバー会会員も会場に日替わりで詰める予定です。

二つ目は大阪のど真ん中、船場センタービル中心に開催される「船場まつり」です。立命館大学、関西大学の鉄道研究部と共に、大学現役生が、御堂筋寄りの10号館1階で鉄道模型を走らせます。こちらの会期は10月12日~14日で、午前10時~午後4時間の催しです。

そしてしんがりは10月14日、JR琵琶湖線南草津駅前・フェリエ南草津5階、市民交流プラザ大会議室で、鉄道ファンならご存知のSLおじいちゃん「佐竹保男さん」の講演会があります。日本の蒸気機関車全盛時代の写真を通してのお話です。午後1時30分から午後3時まで、草津市立 南図書館の催しです。

 

DRFCなにわ船場鉄道フェスティバルに再登場!

先に「大津の86」特派員から速報された来る10月12~14日に、【船場まつり】で再び「まつり」の盛り上げ役としてDRFCは活躍する。次回は関西大学、大阪市立大の鉄研との合同参加で、今回好評を呼んだNゲージ京阪電車オンパレードに加え、新機軸が計画されている。【船場まつり】は大阪・中央大通の階下の船場センタービル中心に北は本町通、南は南宝寺商店街、東は堺筋、西は御堂筋を中心に広い範囲で開催される。開催は10時から16時まで、衣服をはじめ掘り出しもの雑貨などの「のみ市」がうりであるお買い得の祭りである。親父一人で訪れるのはもったいない。家族お揃いで、友達誘い合わせ、財布を緩めるつもりででご参加ください。DRFOは御堂筋の西、10号館1階で展開します。

尚、老頭児特派員は13日午後、「船場鉄道フェスティバル」コーナー周辺をウロウロしようと思っています。三条京阪では折りたたみ椅子があり、90分間休息させて頂きました。そこへ会長さんのみならず多くの方と言葉を交わすことが出来ました。15時30分、片づけに入った時、京阪電鉄鉄道企画部の方が挨拶に来られ、来年以降も今回の企画を継続させるので協力要請がありました。「こちらこそよろしく、ご要望あれば現役にお話し下さい、OB会としてバックアップさせていただきます。」との返事をさせていただきました。

9月22日午後は三条京阪地下1階に集合!

先日【23496】で、どですか電氏から紹介されたDRFC現役が「サークルステーションIN三条」に参加する件ですが、クローバー会メンバーはもとより、DRFC・OBで時間の許す諸氏はぜひ京阪電車三条駅地下1階までお越しください。折角の京阪電車のお誘いに、我々も乗せてもらおうではありませんか。Nゲージでどんなパフォーマンスを展開してくれるか、やさしい目で見守ってやろうではありませんか。OB諸兄は現役たちに「何年度のなにがし」と名乗り上げ、8月25日のようにならないように、こちらから彼らを励ましてやろうではありませんか!

老人は午前中、佐竹先輩宅で打ち合わせがありますから、それを済ませた上で三条京阪に参ります。申し訳ないのですが12時開会に間に合いません。遅くなっても13時30分ぐらいには到着するようにします。老人は遅れて参加すると先着のクローバー会の方、伝言願います、15時30分閉会後、対岸に「王将」があります。希望者は餃子定食で生数杯如何でしょうか。ただし、割り勘ですからそのつもりでお付き合い下さい。

 

久しぶりの京阪守口車庫 その2

別件でモノクロプリント収納箱をかき混ぜていたら、誰に貰ったものか不明の、しかもカラーネガDPE用機器からプリントされたものと思えるものが2枚出てきた。1枚はそれなりに判別できる8人の姿が、もう1枚は19人の姿がぼんやり見えるものである。19人の中で断定できるのは前列の大西顧問、その左の眼鏡男は清水孝一郎君?。後列に移り右から2人目は老人、鈴木アキちゃん、津川君、2人飛ばして旦那、次の眼鏡はtrukame?そして磯谷のオッサン、2人飛ばして高橋の御大、残る2人?となる。

さて何時見学に行ったものか、さっぱり分らない。老人は1958年秋から頻繁に守口車庫に出入していたから思い出深さがない。多分、当時車両課長であった伊藤さんにOK貰って皆さんを守衛小屋の前で待ち受けたのであろう。大西さんに顧問になって頂いたのは高橋御大卒業後であり、19604月以降となる。服装からして195912月か、19601月であろう。3000系の話など未だ聞けない時期で、1800系特急マークを背景にしている。

この頃の最新特急車1810系をバックにしてピンボケ写真の撮影者は不明

富山で63スタイル2台で2題

大津の86さんのアメリカ土産話に圧倒されています。63スタイル話も意外な展開を見せ本来、戦時中の「ないない」づくしの中、如何に節約してものを作りだすかに英知を集約した話、これが標準型となっ事など現代人には信じられない話であろう。かく言う老人も気付いたのは終戦の翌年であり、これが国鉄→JRの標準スタイルになるとは夢にも思わなかった。

老人は196143日から1963914日まで生活の基盤を富山県西砺波郡福岡町(現高岡市)に置いた。最初の半年、隔週毎に富山に出るのが楽しみであった。もちろん富山地方鉄道訪問で当時、立山線と言っていた現上滝線で145146号と名付けられた2台の63スタイルの制御車が走っていた。さっそく南富山車庫にお邪魔して来歴をお尋ねしたところ、北陸本線直江津駅から浜辺に至る専用線で戦時中使用されていたもので、終戦と共に当線に「配給」を受けたものだとの返事が返って来た。恐らく信越化学の工場引き込み線だったのであろう。19579月、熊本電鉄で63スタイルの木造車を見ており、国電より一早く木造で食パンスタイルが「ないないづくし時代」に作られたことに衝撃を受けた。また京阪電車守口車庫のお邪魔虫であった1959年秋、戦時下の車両統制会から、京津線206両の車両鋼体化を木造車体とするなら許可する、との簡単な図面を見付け出していた。

こうした下地があったので、昭和19年新潟鉄工所製造だと言うので、木造車体で製作されたものを鋼体化したのかと尋ねたら、以外や鋼製車体で当社に廻送されて来たとの返事だった。ただし台車が貨車用TR26でした、との話には当車が製作された当時、人を人間扱いしなかった一部の階層がいた事に憤りを覚えた。転入当時、附随客車ハフ11,12として立山線に配置され、その後に電気配線と天井整備の上、蓄電池による電灯を設け、更に座席を新たに整備して走らせたとの話であった。これがクハ140145146号になったのは1951年のことで、乗務員扉を付け内装も当社の標準並みとしたとの事。その後台車は国鉄中古品の払い下げを受けたが、2両同型ではない。19615月撮影の姿を紹介しよう。

以上がクハ1401451462台で1題目。次は話だけの2題目。1962年初夏、電鉄富山駅で客用扉が両開き3か所の片運制御車が目に入った。両端切妻で窓配置から言えば京阪20003期車(2025~)同系である。さっそく何物ぞと、南富山車庫に聞きに行った。越中鉄道の戦前増備車は5001系に取り替えられた後、立山線配置となった。その11.5m級のクハ101,102号を当時、本線クハ120形の車体延長工事を発注していた富士重工に送り込み、部材一部流用で18.5m級の制御車に仕立て上げたものだと教えられた。理由は高度経済成長時代を迎え、朝ラッシュ時の上市→稲荷町間救済のために145,146号の3扉に眼を付け、両開き扉にしたのが新車91,92号なのだ、とのお話であった。稲荷町から一駅南、立山線不二越間の朝ラッシュ時は、不二越工業を始め工場地帯で、稲荷町-不二越間には本線接続の出勤日のみ運転の臨時列車が、モニ6570形単行で運転されていた。座席は取り外されていた。クハ90形の写真は38豪雪で焼失、従って2題目は尻切れトンボで御免。

クハ140形145号はTR-23系を装備していた

クハ140形145号はTR-23系を装備していた

クハ140形146号はTR-10系の台車で走る
クハ140形146号はTR-10系の台車で走る

鳩マークについて

鳩マークに拘ってみる。千垣の鉄橋中心に「鉄」をやった後、稲荷町の車庫へ寄ってみたら3組の車体が新たに届けられ改造工事の真っ最中であった。3013、3513、3014、3514、3017、3517の6両の車体であった。そのうち前4両については「電照式鳩マーク」つきであった後の3017、3517は鳩マーク無しで、どの時点で外されたのか、帰ってから「ぷるぷる」さんに聞こうと思っていたが忘れたのか、車両部を離れていた時か?のままである。
この3年後だったと思うが、「ぷるぷる」さんから大井川にも2両1セット行くことになった。白井昭さんと打合せで連絡取り合っていますと言っていた。その数ヵ月後、先日準特急氏に紹介してもらった名古屋市電3001型の連接部の台車を撮影していたら、背後から大声で「沖中さーん、お宅の3000型、近くうちに到着しますよォー」と言っている人がいた。誰かと思って振り向いたら白井昭さんであった。後日、梅雨前だったと思うが、東上する際に新金谷に寄って電照マーク入りを取っておいた。それから3年前まで毎年1、2回、東海道上り下りの度に「大井川」に寄るようになった。DRFC40年は大井川にいらっしゃいと、白井さんに誘われ、澤村君に引き継ぐ事が出来た。今はtsurukame氏が通っている。
構内けん引車は各社まちまちだが、阪神電車尼崎車庫には怪物がいた。来歴は忘れてしまった。
左端のイケメンは山科から参加の京阪特急メイト

左端のイケメンは山科から参加の京阪特急メイト

新金谷到着2ケ月後、鳩マークあり
新金谷到着2ケ月後、鳩マークあり
阪神尼崎車庫の怪物
阪神尼崎車庫の怪物

富山の京阪特急

1991年春、東京から転勤で帰京した旦那(DRFC2代目会長)と京阪特急が富山で走る日を待ちわびていた。その日は立山のドライブウェイ開通の日だろうと決めつけ、旦那は富地鉄に電話をかけて確認していた。ところが走行に支障ありで延期になったと連絡があった。2人はGWにスバルでいくつもりであったが、中止とした。この年の盆休み、泊り込みで富山に行こう、と言っていたが旦那は家庭の事情で駄目になった。老人は路面電車同好会の仲間に呼びかけたら、山科、豊中、都民の3人が指に停まってくれた。18キップで行こうとなり、富山着は15時頃、電鉄富山でこの日の京阪特急の筋を聞きだし、
先ず向ったのが「寺田」であった。立山帰り満載でやってきたのが最初の一景である。折り返し再度、立山行きとなるのでそれを待って乗車した。車内はテレビが点いており高校野球の実況中であったが、岩峅寺あたりから受信不能となった。
この日は旦那が手配してくれた有峰口駅から徒歩20分の亀谷(カメガヤ)温泉の旅館へ向った。翌朝5時に起き出し、千垣の鉄橋に向った。朝1番は北陸線夜行普通列車の接続となり3連で富地鉄単行車先頭でやってきた。2番列車、これは富地鉄MM編成先頭の4連でやってきた。この列車は北陸線夜行急行接続であると言う。7時半まで橋の上、その周辺でウロウロして旅館に戻り朝食とした。この時2泊3日、寺田以西で京阪特急中心でとっぷり富地鉄に浸かったのであった。
初対面は寺田駅で夕方であった

初対面は寺田駅で夕方であった

赤は電鉄富山初発で立山に向け登って来た
赤は電鉄富山初発で立山に向け登って来た
緑は富地鉄の先輩より早く新標準色で登場
緑は富地鉄の先輩より早く新標準色で登場

元気な四国の私鉄は老人のアイドル

伊豫のプリマドンナ100形、200形は新製時、両運非貫通であった。3連化の時に片運改造がボツボツ始まり、貫通基本編成が定着した。1965年頃から西武所沢車両により車両更新が開始され、最初はプリマドンナより古い車が導入され、見た時はがっくりした。その後、冷房車導入で京王電鉄の支線か思われるぐらいに統一された。遠州鉄道と共に地方線区では最も優秀な民有鉄道と言われている。
それに比べ土佐電は、ヒイヒイ言いながらも話題に事欠かぬ存在で、今も観察をかさねている。2005年に訪れた時はまだ新駅着手の時で、竣工するや行きたかったのだがドタマの関係でドクターストップとなった。昨年GW、ぶんしゅうさんにおねだりして新駅拝見が実現した。
今年3月17日、善通寺へ向け出発した。18日琴平駅で500号急行をお迎えした。琴電から記念品グッズとお土産を頂いた。それというのはお使いになった写真、老人が1958年9月9日に撮影したものを採用されたのである。各駅にA4版が、
高松築港、瓦町、仏生山、一宮、滝宮、琴平にはA2版で張り出された由。残念ながら他用で乗れなかった。
81年前に輿入れの時はマドンナと言われた?
立派な駅前から走り出す電車は恥ずかしそうだ

81年前に輿入れの時はマドンナと言われた?これが駅舎かとびっくりした立派な駅前から走り出す電車は恥ずかしそうだ

琴電と琴参 あれこれ話

JR予讃線坂出・高松間に国分駅があるが、このあたりを境界に東を東讃(とうさん)、西を讃西(せいさん)と言っている。倒産して清算とは事業者にとっては良くない「語呂」だが、なぜか昔から両地域は対抗心が強い。その東讃の方に19111118日、私設鉄道法による東讃電気軌道が開業した。現在、高松琴平電鉄志度線を名乗っている。次いで1912430日、軌道条例による高松電気軌道が開業した。高松琴平電鉄長尾線である。真打は取りを勤めるもので19261221日、琴平電鉄が地方鉄道法により栗林公園-滝宮間を部分開業した。高松(瓦町)-琴平間が全通したのは1927422日である。この3社は戦時統合で琴平電鉄を核として1943年に合併、晴れて高松琴平電鉄を名乗ることになった。昨年、100周年を迎えJTB Can Books100年史が上梓されたが、クローバー会有志も協力している。読んで頂くと「琴電」は東讃の電車であることがよく分る。

西讃の電車だが、ここは四国の鉄道の“魁”と言える地で、1889年に丸亀-琴平間で讃岐鉄道が前年開業の伊予鉄道の後を追った。1897年に丸亀から高松に延長されたが、客足は伸びず経営不振となり1904年、対岸の宇野へ延長された山陽鉄道に買収され、1906年には官設鉄道の一員となった。西讃の中核都市は丸亀で、この地から琴平へ、電車を国道沿いに走らせる構想は早くからあった。しかし官設鉄道に平行しているとの理由で敷設は認められなかった。軌道条例による丸亀―善通寺間は讃岐電気軌道として1910年、やっと特許を取得することは出来た。ところが建設資金に齟齬をきたし、大阪方面をうろついた結果、1918年にやっと丸亀に本社を置くことが出来た。

開業できたのは1922年で、琴平参宮電鉄として丸亀―善通寺駅前間であった。その後、先ず琴平へ延長が認められ、更に善通寺から多度津へは地方鉄道法により延長された。これが大当たりとなり、以前「琴参電車あれこれ話」で紹介した。西讃は坂出にも港があり、大河の流入なく大型船の出入りが可能であるので拡張されることになった。琴参電鉄は丸亀から坂出へ地方鉄道法により延長、開通は1928年であった。西讃では更に琴平急行電鉄が設立され、琴参電鉄坂出駅前面道路を挟み斜め向かいから、琴参電鉄琴平駅前面道路真東向かいを終着点として1930年に開業した。苦しい経営を余儀なくさせられたのは自明のことで、琴参共々国から補助金の支給を受け営業していたが、1944年には不要不急鉄道として営業休止となった。戦後1948年、琴参電鉄に合併されたが、復旧されることなく1954年に廃線となっている。

琴電と琴参について述べよとの米手作市の指示応えたつもりである。その後だが東讃の電車は紆余曲折した上で現存しているが、西讃の方は時代の流れについて行けず、1963915日で営業を終えた。琴参電鉄は1965年近鉄の資本参加もあり多角事業に乗り出したが、本業であるバス事業が不振となり、近鉄は2006年に撤退した。2008年、ついに会社整理事業者となり、清算する嵌めになり、ここに琴平参宮電鉄は終わりを遂げた。その7年前、琴電も「そごう倒産」のあおりを食らったが、いまや再建の道を順調に歩んでいるのはご同慶の至りである。

悲しいかな、倒産、清算の語呂合わせが讃岐では存在したのであった。

琴電無蓋貨車は国鉄貨車2両分の台枠流用で自社仏生山工場製

琴電無蓋貨車は国鉄貨車2両分の台枠流用で自社仏生山工場製

 

琴電有蓋車は高松電軌引継ぎ車。終戦直後は客車代用車。
琴電有蓋車は高松電軌引継ぎ車。終戦直後は客車代用車。
琴参の無蓋貨車は日本商会と称するメーカー製
琴参の無蓋貨車は日本商会と称するメーカー製
琴参の��体不明の有蓋貨車の達磨さん
琴参の正体不明の有蓋貨車の達磨さん

空飛ぶ電車をご存知ですか

幼い頃、親父からドイツには“空飛ぶ電車が走っている”と聞かされた。電車は上に電線があってポールかパンタグラフで電気を摂り、下に線路があって車輪が回っているのに、どうして飛ぶのかと思っていた。小学校入学の頃、ドイツの飛行機に被れていた兄に“空飛ぶ電車”について聞いたら、「親父の言っているあれか、ヴッパータルの懸垂電車のことだろう。」と笑いながら言ったが、何処だとはとは教えてくれなかった。雰囲気からどうも「ど」田舎ではないかと思い、親父に「地図に載ってないが、どうやって行くのや。」と聞いてみた。「そうか、化学工業都市で有名な町やが、戦争で壊滅したかな?デュッセルドルフから汽車で1時間ぐらい、どっちの方向やったかな……。」20年前の事となると仕事に関係ある事は覚えていても、それ以外は忘却の彼方となるようだ。それでも印象深いものがあったようで、「川の上を走っていた。」と言ってくれた。

1980年、始めてドイツに行くことが出来た。フランクフルトの本屋で「ドイツの地図が欲しい」と言ったら道路地図が出てきた。西ドイツ圏だけだが、ヴッパータルはデュッセルドルフの東に記されていた。こうなると行って見たい。どんな電車が走っているのか、上野動物園の懸垂電車を一回り大きくしたものだと言うことは文献で知ったが、どんな地形でどんな川の上に線路があるのか、電車の内部はどうなっているのか、知りたいことで一杯であった。

2003年、鹿島さんに連れられ、吉川さんを誘ってのドイツ一周路面電車巡りで、やっと「空飛ぶ電車」を訪ねることが実現した。ところがトーマスクックの時刻表では、細い線がデュッセルドルフから東方向にあることはあるが、駅名も発車時刻の記載もないのである。やはり「ど」田舎らしいと心配になり、鹿島さんに「列車本数の少ない不便なところですか?」と尋ねてみた。「ヴッパータルはドルトムントからケルンへの本線筋にあり、ICではハーゲンの次の停車駅になる、ヴッパー川沿いに細長い町です。ちなみにタル(tal)とは谷又は谷底のことですな。沖中さんの見つけたコース、デュッセルドルフから行くようにしましょう。」と、老人の願いに応えてくださった。

その日は2003620日、朝815分頃デュッセルドルフを客車編成で出発。農村風景の中を走ること約45分、鹿島さんは「1駅手前で降りて西端の終点から乗ってヴッパータル市内に入りましょう……。」とおっしゃった。1駅手前(駅名不明)で降りて駅前広場の正面を左折、十字路に出ると「空飛ぶ電車」のレールが空中左右に横たわっていた。暫くすると右(西)から左に2車体1組の懸垂電車が軽い音と共に横切った。次いでカメラを構えていると左から右へ、有難いことに地上の交差点ではバスが渡ってくれた。西端フォルヴィンケル駅へは街路からエレベーターで上がる。終端の奥は車庫を兼ね、本線は手前でループになっていた。以下、写真をご覧下さい。

空飛ぶ電車Hbfで下車、DBHbfへは徒歩で約3分。IC3のビュッフェで、生中を乾杯!ケルン経由でボンに向かったのでありました。

 

道路に出たらバスの上に電車がやってきた。

道路に出たらバスの上に電車がやってきた。

西の終点駅の乗り場は右側
西の終点駅の乗り場は右側
終点の奥は車庫。右端は旧型の動態保蝌・?
終点の奥は車庫。右端は旧型の動態保存車
車内:右側は扉、通路、立蟶・?左側に1箱2人掛け12脚の座蟶・?
車内:右側は扉、通路、立席。左側に1箱2人掛け12脚の座席。
街路の上を走る
街路の上を走る
川の荳・?乗り場にはエレベーターで上る
川の中の乗り場にはエレベーターで上る
ソンボルネル通りから東は川の上
ソンボルネル通りから東は川の上
両端リブ付き車輪と主電動機、ブレー繧・?電制と油圧
両端リブ付き車輪と主電動機、ブレーキは電制と油圧
路線の荳・?あたりのDB・Hbf至近駅で下車
路線の中央あたりのDB・Hbf至近駅で下車

快速観光電車 京急デハ230型

米手作市さん、ご指名に預り有難うございます。総本家さんから先日「琴電100年の歩み」の編集が終わったとの便りがありました。1年近く取組んでおられたCan Booksが、間もなく店頭に並ぶ事になりお慶び申し上げます。皆さんぜひ「立ち読み」お願いします。迷図作家さんがお取り上げ下さいました京浜急行電鉄デハ230型が、最後に活躍した電鉄線を紹介した書籍が同時期に刊行されるとは、なにか因縁めいたものがあるのでしょうか。

さて老人はデハ230型を始めての東京電車見物の時に乗っております。先日、横浜市電の展覧会で横浜に行く時も、都営地下鉄「泉岳寺」初発の快急、2100系先頭クロス(着席は限定4人)で59年前の京浜突進電車デハ230型のことを思い出しておりました。窓の高さ、これは関西で匹敵するものは奈良電クハボ600と南海1900号ぐらいのものと思います。運転席が独立せずに低い囲いで、自動扉の開閉を運転士がしていたこと、中間に連結していたのがモーター無しの「トンボ電車」であったこと、外部塗色が米手作市さんご指摘の強烈なものであったこと、東京の郊外電車は非貫通の両運が多いことを気付かせる電車であったこと、などなど。

先の東急3450型が50両であったことを知ったのは高校進学後で、京浜230型の55両も同時に知りました。その時、東急は4線に配置され目立ちませんでしたが、京浜の方は吉谷さん流に言えば「せんぐりせんぐりやってくる」電車の印象を持って帰京しました。

迷図作家さんご指摘の琴電志度線の海岸沿いの急カーブ、老人もお気に入りのポイントですが、昨年GWに「ぶんしゅう」さんを引張って行ったのですが、防波堤の上方に無粋な鉄板が追加され、さっぱりでした。16,7年前の盆休みに急カーブのところで撮影したのがあった筈と探しましたが出てきません。どなたかにプレゼントしたようです。代わりに10年ばかり前の工事中が出て参りました。ぶんしゅうさんは房前-原間の築堤沿いで撮影となりました。

屋島東方・31+32 貫通扉なし

屋島東方・31+32 貫通扉なし

房前ー琴電志度間を行く30+29、貫通扉あり
房前ー琴電志度間を行く30+29、貫通扉あり
塩屋ー房前間の海岸沿い急カーブは工事荳
塩屋ー房前間の海岸沿い急カーブは工事中

特別展:横浜にチンチン電車が走った時代

2月14日夜、都庁地下のトンカツ屋に5人のクローバー会関東支部会員がお集まり下さり、老人と共に新年会が開催されました。話題は関東一円の鉄道に及びましたが、関西人としてうらやましいのはJR東日本が種々の動力車を動員して企画臨時列車を走らせていることでした。電車ファンの端くれの老人は、あの185系特急車7連が関西国電快速塗り分けで現れた時、「やったなぁ」と思ったものです。それが今春のダイヤ改正でもう1本増えるとか。今度はスカ色だと噂されているそうです。

15日はみなとみらい線:日本大通り駅下車3番出口0分(これは?)、横浜都市発展記念館で開催中の横浜「路面電車」物語-市電が廃止されて40年-【横浜にチンチン電車が走った時代】を拝観に行って参りました。3番出口につなげる建物の隣が発展記念館で、少し戸惑いました。平日であり会場は閑散としていましたが、それが幸いして90分たっぷり横浜の歴史の一端を知ることが出来ました。関東大震災、世界大戦による空襲と、2回の火災による壊滅が遭ったのにも係らず、よくぞこれだけの写真が集まったものと感動を覚えながらの一時でした。戦後の記録は高名な長谷川弘和先生提供品が中心でした。JTB Can Books「横浜市電が走った街 今昔」が老人の京都市電の半年後に発刊されましたが、その内容が京都と比べ横浜が豊かであるので恥じ入った思い出があります。その原本を今回拝見しているのだと心に言い聞かせながら、ポン友と言って下さった吉川文夫さんを偲ぶ一時ともなりました。実はみなとみらい線開業の頃、吉川さんに連れられこの界隈に来ていたのです。宿泊していたホテルから電話しましたら、「みなとみらい線に初乗りに行きませんか」と誘われたのです。「お身体大丈夫ですか、喜んでお供します」となり、横浜駅西口で奥様からバトンタッチとなり、向った展覧会会場は今回と同じビルであった様に思います。その内容が何だったか、思い出せません。鉄道関係であったことは確かです。

他府県人の入場料は300円です。でも値打ちがあります。会期は41日迄ですが、行くなら33日以降に行くのがベストです。4階でコーナー展・都市シリーズ「京都」~日本の路面電車発祥の地~(仮)が重なります。開館時間は930430、休館日は毎週月曜日(祝日の場合は次の日)となっています。

 

アルミカーについてのつぶやき

暫くおとなしくしていた。その間、福島電鉄、連接車やアルミカーと、参入したい話題が続発したが投稿出来なかった。アルミカーについては、澤村君とこんな会話を交わしたことがある。京阪5000系の事だが、「台枠もアルミと言う話を耳にしたが、本当か?」と尋ねた。暫くして「台枠、正面の工作共にアルミニュームです。」との返事を貰った。続けて「でないと座席昇降装置、付加された4扉分の装置類を含め、T車で自重25頓(補機積載車)の数値をクリアすることなど不可能です。正面の形状、庇があるのはアルミ板工作上から考え出されたことで、意匠上の理由だけではないのです。」と教えられた。前代未聞の座席昇降装置付き5扉車の設計について京阪車両部と川重設計部は、アルミニューム構体製作について知恵を絞り切った事であろう。5000系の竣工は197012月だから、DRFC1967年生の澤村君は入社前で、入社後の彼に老人は質問をぶつけたようだ。

ダブルデッカー試作が宮下社長に認められた頃、「次は5000系の更新です。」と言いだした。第1編成が終わったころ「台枠、大丈夫だったか?」と尋ねてみた。「川重の専門屋が後20年は大丈夫と言ってくれましたのでヤレヤレです。」と晴れやかな顔をしていた。この後、6000系をはじめ新造車は全てアルミカーが続くのだから、当事者は気になって当然の事である。玄人の澤村君と素人で野次馬精神旺盛な老人の間で、京阪5000系について2人が特別に話題にした事であった。

車両構造について、どのように、何を基準として分類すればよいのだろうか。鉄道車両の車体構成材進歩の道筋を追ってみると木材、木材と鋼鉄材の混用、鋼鉄材、金属材等の過程を辿っている。鋼鉄は金属材だが、20世紀前半は金属材の中でも独立した存在であったが、20世紀中期から他の金属材と混用されるようになった。その中でアルミニュームが車両の軽量化で注目を浴びるようになり、今日を迎えている。

車両構造上、最も重要視されているのは台枠である。木造建築で言えば土台である。これの良し悪しが出来栄えに、寿命に大きく影響する。さて栃尾鉄道のモハ210号はどんな構造材と仕上げ材でもって製作されたのだろうか。山陽電鉄のアルミカーは、台枠を始め構造材はすべてアルミニュームだと社員さんから聞いたことがある。日本では戦時体制下、ドイツからアルミ合金であるジュラルミンを輸入して軍用航空機に使用しようとしたが、工作技術伴なわず断念したと兄から聞かされたことがある。それが戦後、鋼板代わりに使用され「ジュラ電」登場となったようだ。

栃尾鉄道はどのようなルートでアルミニューム板を入手したのか、それを車体のどの部材として使用したのか、日本最初のアルミ製電車として相応しい条件を備えていたのか、謎の残る話題である。老人は1959年、東北旅行の帰途に栃尾電鉄に立ち寄っているが、長岡-悠久山間往復を夕方しただけで車庫には寄らず仕舞いであった。こんな先進的な車両があるなら長岡でステーションホテルするのであったと、今になって悔いている。こんな事を思い付いた。新潟、富山県は大河による水力発電国である。阿賀野川水域では忌まわしい産業公害の加害者として昭和電工の名が出てくる。同社は戦前期にアルミニューム精錬に成功したようだ。富山では黒部川、庄川の下流域でアルミ精錬、加工業者の名が認められる。アルミ精錬、加工には莫大な電力を必要とするが、新潟では昭和電工が製品販路開発のため県下の企業である栃尾電鉄に、試験使用を委託したとしたら出来すぎる話となるかな? 想像することは当っても外れても楽しい。

さて近鉄名古屋線の6531号の写真を1枚見付け出した。ご要望にお応えできるかどうか……。他の車両も高橋弘さんにプリントしてもらったが、どなたかにプレゼントしたので手許にない。再プリント待ちにさせて下さい。ありがたい事にNEOPAN SSはしっかり残っている。

 

近鉄名古屋線クハ6531号、1958.11.03

近鉄名古屋線クハ6531号、1958.11.03