旅は道連れ世はクルマ

 若い頃は一人旅がほとんどで、須磨の大人と淡路島に渡った事など稀有の事だった。社会人となり、DRFC仲間と「鉄旅行」をする機会があった。1977年1月に津軽鉄道、南部縦貫鉄道を訪ねた時は斜陽館に泊り、ストーブ列車運休の腹いせは芦野公園での雪合戦となった。こうした旅は「鉄」が欠けても後世に語り継がれるものとなっている。

今回の主役は「ぶんしゅう」氏で、老人は突然「先日の企画乗った」と言って、道連れにして欲しいと頼んだ。あつかましくも3ケ所に行きたいと注文をつけた。①琴電仏生山車庫の「松下さん」に一枚の写真を届けたい。②高架駅となった高知駅が見たい。③善通寺の姉夫婦と会いたい。いずれも1954年8月(高1)の一人旅に関係することであり、そして琴電、琴参、土電、伊予鉄の車庫めぐりが始まった。伊予鉄は先に須磨の大人の写真で車両説明をしたので、今後触れない。残る3線、琴参は富山勤務時代の1963(三八豪雪)年9月15日が最終日となった。その翌年秋に高知出張のおり早朝に善通寺で下車し車庫へ赴き、留置車1両毎に別れを告げた。この話は「関西の鉄道」で紹介したが、いずれ琴参の思い出話は書き残しておこうと思う。

さて今回の注文①だが、2005年秋に高知へ行った帰途に仏生山車庫に立ち寄った。検車庫(西側)内に120号車が整備を終え留置されていた。最初の四国行は京都21時発、夜行普通列車四国連絡宇野行きで早朝高松駅に到着した。仮駅であった高松桟橋駅で車庫の所在駅を聞き出し、ひとまず瓦町駅待合室で仮眠をしている。目覚めて構内で志度線、長尾線、留置線で車両撮影の後、仏生山車庫に行った。車庫長さんに車両のあらましを聞き、最初に撮ったのが120号。陽は西に回り足回りもバッチリで、老人お気に入りの1景である。この時の話を「松下さん」にしたところ、くしくも検車庫内にあった120号を庫外に、それも撮影した位置に異動してもらった。そのお礼に半世紀前の姿をプリントして持って来ると約束をした。2007年GWに行く筈が果せず、晩秋に体調不良となり一人旅にドクターストップがかかった。それが今回、ぶんしゅう氏に道連れとしていただき実現したのである。また松下さんから120号が動態保存対象車になっている事も伺っていた。

次いで②、TMS38号を今も所持している方、池田さんの四国めぐりの稿をご一読いただきたい。四国山脈越えの土讃線では蒸気機関車のトンネル内煙害防止のため後押し運転しており、そのため先頭車となるオハフ61はタイフォンを装備している、との話が出てくる。老人はこれに興味をもち、善通寺から早朝1番列車で高知に向った。途中C58が後部に回ることなしで高知着となり、機関士に質問してみた。「前年、土佐山田→新改間でやっていたが、重油併焼装置をつけることで中止になった。」との答が返ってきた。何度も降り立った高知駅が高架化されると聞き、「土電(とでんではなくとさでんと発音する)の乗降場を引き入れエスカレーターでホームと直結する。」との情報がもたらされた。ホンマかいな?と思っていたら、憶測によるものだと土電の方に知らされた。でも2005年は未だ躯体工事中の真っ盛りで全体像が掴めなかった。それを今回、土電乗降場と天井の高いコンコースを見届けて高知駅見学は終わった。1954年8月の駅前には都電スタイルの205号(蛍橋行)が停車していた。後部に控えている7型は蛍橋行の後を追い桟橋行となる。

そして③、琴参54号は1927年製の路面電車スタイルだが、床高1,000粍の高床車である。扉を開けると3段ステップで客室床面となる。車輪径は858粍、50馬力×2、自重17.5屯。路面区間はシリーズ運転。郊外に出て専用軌道になるとパラレル運転となり、轟音と共に疾走していた。

今回ぶんしゅう氏は、おしゃべりを道連れにしてへきへきしていたに違いない。その昔、老人を道連れにした旦那は「何でも良いから喋ってくれ、横で居眠りされたら今畜生!となる。」と言っていた。世はクルマ時代、有料高速道路1,000円の恩恵に浴し、燃料費込みで5日間1人当たり11,281円の交通費となった。これではクルマ族は鉄道離れして、利用者が減少する筈だ。

①-1 これが老人お気に入りの1景なり

①-1 これが老人お気に入りの1景なり

①-2 3000型は台車以外に窓上R無し迚・?1000型と異なる
①-2 3000型は台車以外に窓上R無し等が1000型と異なる
①-3 角型5000型の貫通扉は扇風機代用になる片引扉
①-3 角型5000型の貫通扉は扇風機代用になる片引扉
①-4 閑散期の急行は500号1両
①-4 閑散期の急行は500号1両
②都電そっくりの土電が高知駅前に
②都電そっくりの土電が高知駅前に
③四国螯・?の南側の街路を走る50型
③四国学院の南側の街路を走る50型

旅は道連れ世はクルマ」への2件のフィードバック

  1. 今回はぶんしゅう7号にご乗車いたただきましてありがとうございました。
    「おしゃべりを道連れにしてへきへきしていたに違いない。」、とんでもない。むしろ、電車についての知識がなき者をご同行いただき感謝いたしております。いろいろとご案内をいただきましてありがとうございます。改めて四国は北陸同様に電車全盛時代があったことを知りました。
    もう2つお約束しております紀州鉱山と中国大連・長春に残る日車製路面電車の旅もご予定をお願い申し上げます。どちらについてもスタンバイいたしております。

  2. いつもながら貴重な画像を有難うございます。

    琴電の120号のオリジナルスタイルは本当に美しいですね。貫通扉が引戸というのも琴電の特徴の一つでした。
    琴参の50形は琴電の60形とスタイルが似ています。こちらは昭和40年代の初めまで残っていました。

    紀州鉱山に行かれるとのことですが、鉱山が盛業中の頃の画像が紹介されているHPを紹介します。名大鉄研OBの友人A.O氏の後輩の方で「(http://tsushima-keibendo.a.la9.jp/)「津島軽便堂」というHPです。この方は名鉄を定年退職され、現在「名鉄資料館」に勤務されておられます。他にも珍しい専用線やローカル鉄道、樽見線のC11等の画像が満載ですので、その方面に興味をお持ちの方は必見です。

    余談ですが、ご本人からのメールで、湯口先輩のことを「雲の上の人」と思っていたところ、「デジ青」の投稿を拝見して、すっかり親しみを感じた等と言われておりました。

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