その昔のものが総本家さんの所に保管されていました。残念ながら5001+5002はないとの事。そのうち富士写真店さんに探してもらいましょう。ヘッドマークは古いほうが精悍ですね。何しろ梅田・三宮間25分で走ったのです。それも正真正銘のノンストップ特急だったのです。元町までが27分。この頃の阪急特急はまだ三宮の手前、春日野道あたりを走っていたのですが、残念ながら阪神は地下線のため置き去りにした阪急を見ることは不可能でした。この301形(3011系とも言う)のシートが沈み込むようなクッションで、これも忘れられない思い出です。国電の急行電車はこの頃、阪神間何分で走っていたのでしょうか?モハ52、80系共に旧性能車時代ですが、私鉄には負けていなかったように思います。
乙訓の老人様
やっぱり、撮ってはる人は、ちゃ~んと撮ってはりますネ。
1枚目の横長ヘッドマーク付写真は、ほんまにカッコええと思います。
2枚目もまた、構図のええ写真です。250W時代を先取りしたような大形ヘッドライトがようマッチしてます。(ただし、これが何ワットやったんかは勉強不足ですけど。)
この車は『阪神電車』が生まれ変わる転機を作った言うても過言ではありません。
15メートル以下の小型車ばっかりやった『阪神』に、19メートルで幅も40センチも広い『大型車』を、ホームを削った上に在来車のドアとの隙間埋めステップを付けてまで導入したのは、ほんまに思い切った事やったと思います。
その後の阪神が今在るように、その頃既に近鉄との相互乗入れを考えてたんでしょう。
ええ写真見せていただき、ありがとうございました。
乙訓の老人様
懐かしい写真を有難うございます。そこで、更にお願いがあります。旧型車の800、900、1100や出屋敷からの海岸線などの写真はいかがでしょうか。
戦前3-4歳の頃、神戸の徳井町に住み、阪神国道電車と馴染がありました。神戸の空襲で、国道線の架線がすっかり垂れ下がっていたのを覚えています。
国道電車は、廃止まで長らく、電車に変化なかったのでカラー写真もあります。
写真の無いのが、本線や海岸線です。戦後は1946-1952年まで尼崎市西難波町に住み、出屋敷から阪神電車によく乗ったものです。父親の発電所へは海岸線で、神戸の叔母宅へは、先頭車”床屋”の扉にかじりつき、岩屋から地下に入る時の匂いを今も忘れません。水練学校や高校野球は甲子園でした。出屋敷から小児運賃片道3円でした。往復6円、弁当持ちで、ロハの外野席で高校野球に何度通ったことか。1952年神戸に引っ越したもので、その後も阪神の写真はほとんど撮らずでした。コメントがすっかり回顧談になりました。
tsurukame様
西難波や出屋敷など、国鉄の立花ー甲子園口間に住んでいた小生にとっては、良く耳にした地名で、思わず懐かしさが込上げて来ました。
それに、甲子園の高校野球や(浜)甲子園海水浴場もよく行きました。
夏の海水浴では上甲子園から網電車に乗ったのを覚えていますし、国道線から甲子園線に乗入れる金魚鉢の201形が路面電車なのに2両連結だったのが珍しくて、見入っていた思い出があります。
ところで、自慢にはなりませんが阪神電車については不勉強で、昭和30年代の終り頃になってから急に国道線の金魚鉢や本線の小型車を記録しなきゃ・・・と、俄かに思いついて野田の近くで数枚撮ったのみでした。
その中に辛うじて1枚『喫茶店』の881形、882がありましたが、これは小生にとっては貴重な1枚です。
河 昭一郎様
立花-甲子園口間にお住まいだったのですか。今もそうですか?
公のページを使い二人の話になりそうです、多くの読者の皆様すみません。
私は1967年、16年間住んだ神戸の東須磨から、再び尼崎市武庫之荘に戻りました。その後約20年は千葉県柏市に転居、1995年子供を残して、夫婦二人だけが尼崎市南塚口に帰りました。この時、今は須磨においでの湯口先輩と同じ町内、同じ丁番地でした。
現住地は阪急塚口駅に徒歩10分、立花駅に徒歩25分です。早朝にJRを使用する時はいつも立花を使います。昨14日も切符を買いに行き、来週20日から大井川鉄道行きは、早朝6時前ですから立花から出発です。
阪神国道電車の西大島、武庫川大橋、上甲子園、甲子園三~五番町あたりの金魚鉢のカラーを近くお目にかけましょう。今日はこれで失礼します。
tsurukame様
お返事を・・・と、この掲示板を私用してしまう事を皆様お許し下さい。
小生は1963年9月に一家で東京に引っ越して来て以来、大好きな関西には帰る事の出来なかった東京帰化人です。
西大島、武庫大橋、上甲子園等々、これはまた懐かしい場所です。
実は今夏、かれこれ50年ぶりにこのルートを通りましたが、武庫大橋のレトロさがそのまま在って、改めて感慨にふけりました。
かつて武庫大橋を行く金魚鉢を撮った記憶があり、帰宅後探したのですが見当たりません。
貴殿の金魚鉢写真がアップされるのを楽しみにしております。
河 昭一郎様
私も東京帰化人です。父の横浜転勤で1965年7月にオール72系の根岸線山手駅に降り立ち、以降京都での下宿と札幌赴任を除いて神奈川、東京に住んでおります。関西人であったので中学の修学旅行は3人掛けの「きぼう」号でして、箱根、江ノ島、鎌倉、羽田空港と定番の場所でした。今やワンデイ撮り鉄コースです。国会議事堂は安保闘争の最中で見学中止でした。さて、出屋敷ですが、今年8月11日にできたばかりのビジネスホテルに泊るため下車しました。立派な高架駅になっていますが、昔はどうだったのでしょうか。翌日は武庫川に行きましたが、当時住んでいました仁川と武庫川の合流地点あたりから自転車で堤防を走り甲子園口まで国鉄の列車を撮りに行ったことがあります。大阪7時発の「うずしお」もキャッチしました。鳴尾の海まで行ったこともありますが、途中の阪急、阪神は撮っておりません。国道電車も記憶がありません。どなたもそうでしょうが今になって撮っておけばよかったと後悔しております。
乙訓の老人様
有り難うございます。やはり、阪神特急は梅田~三宮間はノンストップだったのですね。阪急よりも阪神の方がカーブが多いことや駅間距離の短いことによる追い抜き数の多さ等のハンデを克服して都市間速達連絡をしていたことがわかりました。阪急も2停車ではあったもののそのスピードは凄かったことは間違いないことだと思います。阪神特急が三宮に着くころ阪急特急は春日野道を通過は大変面白い表現ですが、春日野道と言えば阪神にも同名の駅があります。これが確か地下にあってあぶなっかしい駅であったように思います。ホーム端が極端に狭く、通過列車があると危険極まりなく、そのため風圧に耐える様に握り棒があったと記憶しておりますが如何でしょうか。今は改良されたのでしょうか。
ところでノンストップと言えば阪急京都線710が特急の主力であった頃、梅田~大宮(新京阪の京都終点で河原町までは阪急が延伸)間はノンストップでしたが駅や車掌の案内放送はどんなものだったのでしょうか。「この電車は京都行き特急でございます。(今は「です」調ですが、昔は各社「ございます」調でした。)途中の駅には停車致しません。お乗り間違いなき様ご乗車願います。」とでも言ったのでしょうか。恐らく阪神301あるいは3011の元町行き特急も三宮まで無停車であることを同じ様に言ったのでしょう。こういう特急が見られなくなって久しいですが一度は体験したかったものです。「十三を出ますと京都の大宮まで停まりません。」、「京橋を出ますと京都七条まで停まりません。」と言うアナウンスも懐かしい過去になってしまいました。