阪神電車の鋼製旧型車(その3)

阪神電車の急行運転192161日からである。この時の最新車両は301型で、藤井信夫さんは「2両連結で梅田-三宮間を56分で結ぶ急行運転を開始して」と、紹介している。301型はバンドン式連結器を装備し制御方式はGEMK総括制御器であった。急行運転開始に間に合った増備車は311321形の20両で、その後に33140両、鋼製車37120両が増備された。また、開業時の1号型の増備車10両を総括制御車に1915年に改造したことを、高間恒雄さんは阪神電車形式集・1で紹介している。後に4150号にまとめられ、1923年に連結運転可能な車体を新製して291形になった。車両構造上、連結運転に不向きであったようで、1号型時代は連結運転されていないようだ。まとめてみると、50ph車で連結運転可能な301390号と291300100両が急行にも運用された訳だ。

371形(後の601形)が登場した頃、国道拡幅がきまり、岩屋から三宮へは地下線化されることになった。それに合わせ急行用と名付けた40130両が製造された。車体寸法は先の371形同様であったがボギーセンター間距離が延長、乗降扉部床段差とホールディングステップが廃止された。これは急行停車駅の乗降設備が改良された事を物語る。そして何よりもグレードアップしたのは主電動機の出力アップで48.5kw×4となり、制動装置はAMMとなった。制御器と連結器がMKとバンドンのコンビになったのは、301330号のものを流用したのではないかと、高間さんは解説している。MKは後に東芝PC5自動進段式になった。この401形は1929年、801801830号に改番され、続いて83110両が1928年、翌年10両増備で831850号の20両となった。先の801形と車体寸法に変化はないが、「たまご」型は平凡な平妻になった。主要機器や性能は801形と同じである。

三宮地下線化開通は19336月であった。これを前に住吉-石屋川間の高架線化が完成、急行は阪神間を48分、普通58分となった。地下線対応の車両は鋼製(内装は木造でもOK)車が要求された。この時点での鋼製車60120両、80130両、83120両、鋼体化車901形が193210両、1001形は19311933年間の20両、計100両であった。残る木造車50両の鋼体化工事が完了したのは193612月、全て1101系となった。

急行用の増備851形は1936年の登場である。1933年から始まった1101系のスタイルとなり、両妻間寸法は13mから14m車体となり、窓配置は車掌台横に小窓を加えている。扉間幕板部に明り取り窓があり、貫通扉折戸のガラス窓が上下に延長され「喫茶室」とか「床屋」と言われた。そして巧みに運転台機器を覆った曲面仕切り板、おかしな運転姿勢となった601801形の運転機器配置と比べると、8517両、1937年製造の86117両は戦前製阪神の代表車と言われた。戦時体制下での増備車88130両の明り取り窓はなく、85186188154両の走行用機器は、共通化されていた。

神戸市内高架線、地下線化で線路条件は一段と向上した。それを期してスピードアップと増発が実現した。特急が設定され阪神間35分の韋駄天走りとなったのである。この時の急行は45分、普通55分の所要時分となった。特急、急行は12分毎、普通は6分毎となり、“待たずに乗れる阪神電車”はここに誕生したのである。そして19346月、特急、普通共に6分毎に、急行を廃止してしまった。この時の途中停車駅は野田、尼崎、西宮、甲子園、芦屋、御影で、元町延長は19363月であった。

この時期、車両がどのように運用されていたかは老人の年令では知る由もない。高間さんの形式図集・1では、851形が登場の頃までは1101シリーズが3連で走る特急が紹介されている。初期の急行では6013連の姿もある。これからみると急行系と普通系は混用されていたようだ。それが明確に分離したのは戦後になってからであろうと思われる。また、601801831形の新造時はブルー1色であったという話だ。酒井福三翁からは阪神電車の話なると、ブルー1色の話がよく出てくる。それほどに1924年生まれのポン友は魅了されたようだ。

レールロード社・“阪神電車形式図集”の助けを借りて、くどくど書いたものだ。高間恒雄さん有難う。DRFC現役時代には、京阪と共に拘ってきた。お後はthurkameさんにバトンタッチしよう。

25年前の特急編成が急行で最後のお努め!

25年前の特急編成が急行で最後のお努め!

高潮対逍・?工前の地平時代の尼崎駅
高潮対策施工前の地平時代の尼崎駅
今は川の築堤が高くなった伝法線との併走区間
今は川の築堤が高くなった伝法線との併走区間
甲蜷・?博覧会宣伝車は全て2扉で黄色だった
甲子園博覧会宣伝車は全て2扉で黄色だった
鳴尾西方、電車後方の家屋は震災でやられた
鳴尾西方、電車後方の家屋は震災でやられた
定番の甲蜷・?上り方は、午後にホームの端から
定番の甲子園上り方は、午後にホームの端から
折畳内開扉にはへばりついて 於 野田
折畳内開扉にはへばりついて 於 野田

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください