半世紀前の淡路交通(3)

電化に合わせ南海電鉄から、運輸省規格形のモハ63型20両割当見返り供出車両として、5両の木造電動車が入線した。南海からは後に2両増車された。次いで阪神電鉄の鋼製廃車体を2両購入。自社宇山車庫で手持ち部品を取付け、電動車とした。以下、奥野師匠に教えられた事を交え述べる。

*モハニ1001・入線1948.01.23→クハ101・制御車化1953.10:1961.06.20廃車。元加太電鉄モ30の旧番号を持つ。車体は南海電化時(1907.8.21)の新造車(1907.07日車)で、電1形10両のうち3号車が昭和初期に鋼体化名義車となり、抜け殻を加太電鉄に売却したものであった。加太電鉄は1942.03.14に南海鉄道に併合されたので、南海電鉄から譲渡されたことになる。車体は【10722】で紹介された軌道線101形に似た面構えの正面3窓で、台車は加藤BW型、電動機はWH101‐1(37kw×4)が加太時代。淡路では台車BL・27GE‐1と電動機は×2になっていた。譲受時価格は1,181,000円、1950年再評価で600,000円、制御車化で400,000円。阪神中古車体の再生後に廃車。

*モハニ1002・入線は前と同じ、鋼体化1955.01.10。元加太電鉄モ31。これも南海時代の1937年に鋼体化名義車になったもので、原車は製造1909.07・天野であった。これが前窓5、関西タマゴ型の最初の電車であった。台車BL27E‐1と電動機はモハ30と同型で×4となっていた。鋼体化は台枠再用で内装は木造、台車をBWタイプ、電動機をTDK‐30に、出力72㏋×4に強化している。購入時価格245,000円は鋼体化後、再評価で4,125,000円となった。1958.09.18にドアエンジン取付、1960.02.01貫通路設置、幌を取り付けた。更に台車をDT10、電動機はMT‐4・に取替、クハ112とMTc編成を組んだ姿を見ている。この届けは翌年1961.07.05らしいが、田舎ではよくある話、気にしない。

*モハニ1003・入線は前と同じ、簡易鋼体化1959.06.15。元加太電鉄モ32である。この電車の来歴は先の1002号と同じ、鋼体化は屋根を残し柱や外板を鋼製とした。台車BL27GE1、出力37kw×4、制御器・制動装置MK15・AMJと、淡路標準方式になった。

*モハニ1004・入線は前と同じ:1961.02.20廃車。次の1005号と共に南海での車歴は同じ。電3形1921年川崎造船所製造とある。その後1940年に改造を受けモユニ525,526となる。これが迷図作家紹介の木造4扉車であった。そして1944年6月開業の多奈川線専用となり、沿線に建設された川崎造船潜水艦工場に向かう産業戦士専用車として無座席車となった。終戦後、この2両は加太線に配置されていたとか。これが縁で紀伊水道を渡った。台車BL77E2、電動機の出力37kw×4、定員90人は1001~1003と同じが座席定員(60)の記載なし。阪神中古車の再生後に廃車。

*モハニ1005・入線は前と同じ、鋼体化1961.05.25。来歴は1004号と同じで車体新造の鋼体化車。淡路唯一のクロスシート車。訪問時に確認できず、後に京都鉄道趣味同好会誌”急電”で概要を知った。ここでは大阪通信員撮影のカラー写真で紹介する。台車DT10、電動機TDK30・53kw×2、制御器はPC型、制動装置はAMJとなっていたが、後年変更があったようだ。

*モハ1010、1011・入線1956.08.24。1010→鋼体化1957.06.05、モハ1011→鋼体化1958.03.20。この2両は入線後に車体新造で鋼体化された。原車は前面5窓タマゴ型の電8形132(1924.10・梅鉢鉄工)号と電5形120(1921.10・川崎造船)号の2両であった。その後、改番を経てモハ1025、1027となり共に加太線用となり、本線新車投入に伴う玉突きで淡路島へ送られた。台車BL・MCB2、電動機GE-218(52kw)×4、制御器は日立PR200、制動装置はAMJ、定員90(52)人となっていた。車体製造は昭和車両工業所と名乗る今も知らないところである。譲受価格は1,025,000円、鋼体化後の再評価で5,654,000円になっていた。

*モハ609、610・竣功1960.06。木造車101、1004号追放のため、阪神電鉄で廃車(1960.02.05)になった車体2ケを購入、宇山工場で手持ち台車と電装品で再生した。この2両、阪神時代とパンタを見れば向きを変えている。台車は609にBWタイプ、610はBL・27GE1をあてがい、電動機はTDK30・53kw×2の出力。単車走行可能である。老人は1954年秋、この2両を伝法大橋で撮影している。その2両と再会出来て感激であった。評価額は不明。

*モニ500・入線1950.07.28→鋼体化1952.10.10。元国電モヤ4003である。鋼体化までの期間が少ないところをみると、相当酷い状態でやってきたものと思える。元モハ1だけに電装機器は国鉄の標準品で送られて来ており、その後の標準化に役立ったと思われる。ただ連結器は間に合わずで、そのくだりは須磨の爺やの薀蓄をお読み下さい。入線時評価額は957,681円と記録されていた。

淡路交通にはその後、2回乗ることが出来た。1961年秋と1966年初夏に「鳴門観潮」のためであった。

1966年の時に外部塗色が変わっているのに気がついた。1960年訪問の時は窓下濃チョコレート、窓上淡クリームであったとの記憶が残っている。準特急氏から「新歓」の帰途に訪ねたと便りがあった。それが紹介されることに期待を寄せている。大阪通信員さんの思い出はいかが?

DRFC現役時代、須磨と行を共にすることは殆どなかった。しかし生中の時だけは別で、この日も15時頃の南海汽船で「深日港」に上陸、愛用していた東福寺口経由、ミュンヘンで大ジョッキを煽りながら島の鉄道について益々の隆盛を祈念した筈あった。

モハ1002

    モハ1002

モハ1003
モハ1003
モハ1005
モハ1005
モハ1010+1011
モハ1010+1011
モハ609
モハ609
モハ610
モハ610
モニ500
モニ500

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