半世紀前の淡路交通(5)


洲本駅で発車待ちのモハ二2006+クハ111

乙訓の長老より3回に亘り淡路交通の車両について詳細かつ解かり易く解説いただいた。鋼体化改造のように大きく手を加えた場合、改造費は資本的支出とみなされ、現在簿価に加算された再評価価格で減価償却が行われることが判る。また、(4)の準特急様が書き込みされた、昭和40年度新入生歓迎旅行のコース、見学先等、企画された方のセンスの良さは、さすがDRFCであると思った。長老の解説を少しだけ補足させていただきたいと思う。

モハ二1003
、廃線時まで在籍し、半鋼製に改造されていたが南海のタマゴ型の原形をよく残していた。(40-6-6 宇山)

 

モハ609+モハ610
阪神から来たモハ609と610は淡路交通の付番方式ではモハ1012、1013となるべきところ、車体に609、610の切抜番号がしっかり貼り付けられていたので、それを活かしたとのことであった。長老が撮影されたパンタ側の写真は非常に珍しい。(40-6-6 賀集)

 

モニ500
長老の解説の通り元国鉄の配給車モヤ4004で、事業用車が譲渡された例は非常に珍しい。長老が撮影された時と比較すると台車が振替えられているが、モハ二1005が鋼体化された時に振替えられたものと思われる。(40-6-6 宇山)

 

モハ1010+モハ1011
昭和41年10月1日廃止後、当時輸送力増強を進めていた水間鉄道に譲渡され、同社のモハ362、363として再起した。使用期間は短く、昭和46年11月、南海電鉄が1500Ⅴ昇圧により不要となった1200形導入による車種統一で廃車となった。

 

 


上/淡路交通時代(40-6-6 宇山) 中/貝塚駅に進入するモハ362+モハ363、下/モハ363
 (45-5-24)

鉄道廃止後はバス専業となり、昭和60年6月8日の大鳴門橋開通により淡路~徳島間、平成10年4月5日の明石海峡大橋開通により翌日の6日より淡路~大阪・神戸間の高速バスの運行を開始した。島内のローカルバスはマイカーの増加や過疎化により乗客の減少が続いているが、淡路~阪神間の高速バスは好調のようで株主配当を行っている。他社と比較すると車両の代替が早く6~10年で実施している。バスの寿命は通常15年前後であるが、6~8年目に再生工事(鉄道車両の更新修繕に相当)を行い、更に4~5年後に再々生工事が行われるが、淡路交通の場合は再生工事を行わずに廃車している。車齢が新しいため他社で再起することが多く、関東では東野交通、松本電鉄、ホテルグリーンプラザ上越の送迎車で見られた。(これらは偶然見たもので、探せば他にもあるかも知れない)

東野交通
平成6年に購入した「栃木22う733」と「栃木22う736」の2両が在籍した。2両共60年式P-LV314Mで、前車は宇都宮営業所西原車庫の所属で宇都宮~真岡間等で、後車は真岡営業所益子車庫所属で宇都宮~益子間等で使用されていた。宇都宮市内で初めて見た時「なんで淡路島のバスがここで走ってるんやろ」と不思議に思った。(H6-9-11 西原車庫)

 

松本電鉄
平成6年に老朽車の代替として60年式P-LV314M、平成9年に2年式U-LV324Mを購入し、松本地区で使用されていた。(H9-8-10 松本駅前)

 
60年式P-LV314M

 
2年式U-LV324M

グリーンプラザ上越
上越国際スキー場の中にあるリゾートホテルで、61年式P-LV314Mが1両在籍し、越後湯沢駅~ホテル間の送迎バスとして使用されていた。(H10-3-15 越後湯沢駅前)

半世紀前の淡路交通(5)」への1件のフィードバック

  1. 驚きました。長老様の「半世紀前の淡路交通」は(4)で打ち止めと思っていましたが、さらに続き、それも淡路の車両が水間に譲渡されたとはビックリしました。南海の1200が行ったのは知っておりましたが、その前に淡路の車両が水間に来てたとは今日まで全く知りませんでした。全車両が島でスクラップされたものと思っていました。小生は数年前に始めて水間を訪問しましたが、東急の7000が関西に居るのに不思議な感じがしました。水間と言えば今東光さんが水間寺の住職か何かやっていましたね。またまた古い話で恐縮です。

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