伊予は良いとこ、湯も電車も
イヤされる
伊予鉄道古町車庫は器用な工場で、四国では一番の細工をする工場だと思っている。これには須磨の大人も多分賛同してくれるであろう。図らずも老人も須磨と同じ年に伊予鉄道を訪ねている。1955年8月、前年暮れに母を天国に送り、高校生であった老人は寂しさを癒すために伊予へ向った。善通寺を午後10時頃出発、多度津から夜行列車で西へ向ったのだが満員で、今治までデッキで立ちん坊となった。松山に着くや待合室で暫くぐっすり寝てしまった。目が覚めたのが何時だったか覚えはないが、南堀端廻りで道後温泉へ、そして城北線・古町経由で高浜へ行きその後、三津浜から船で宇品へ渡った。従って古町車庫で「今日は、京都から来たのですが・・・・・・」と名乗り上げはない。
そして2年後、1957年9月、氷屋のアルバイトを終えるや4度目の宇高連絡船の世話になり四国へ渡った。今度は琴参電車で丸亀へ。同じ筋の夜行列車としたが、夏休み後のお蔭で松山まで座席にありつき、ぐっすり寝る事ができた。バイトの稼ぎでポケットも膨らんでおり、先ず道後温泉に浸かりに行った。その後、古町車庫訪問となり、伊予の電車のあらましを知る事が出来た。今回、大人が吃驚するほど出てきたものが車号順にご高覧に供するとしてくれたので、それに従うことにする。
*1号:明治44年、東京天野工場製造
松山中心に、周辺部に勃興した軽便を集約した伊予鉄道は、好調な成績を上げていたが日露戦争後、松山電軌に殴りこまれた。慌てた伊予鉄は高浜-古町-城北経由-道後-一番丁(現城北線より北寄りルート)を改軌・電化して対抗した。営業開始は明治44年8月8日であった。松山電軌は遅れること24日、9月1日であった。この時、伊予鉄が導入した電車が1~6号であった。前面3枚窓の上部は弧を描いており、鉄道線タイプながらもオープンデッキのモニター屋根の4輪車であった。写真は戦前に軌道線用にステップ改造後、戦後の昭和30年頃に屋根をシングルアーチ化した姿である。この伊予鉄最初の電車6両のうち1、3~5の4両は戦災に遭い、この1は6を改番したものである。昭和35年に廃車となった。
*2号:1号と同じ
屋根は昭和33年廃車になるまでモニタールーフそのまま、へそライトは小屋根に上げられた。正面中央窓左下端に少し見えている伊予鉄名物、丸ハンドル型の手用ブレーキ装置である。京都のN電をはじめ大概の明治の電車は、運転台左にある鶴首形のLハンドルがブレーキ装置の相場であったのに、伊予は一味違った。
*3~5号:大正10年、汽車会社東京支店製造
元を糺せば金沢電軌80形96~98。戦中、呉に徴収され80~82となったものが戦後解除となり昭和22年に貰われて来た。戦災で20両中9両を失った松山では、まさに干天に慈雨となった。昭和29年に休車となり、いち早く古町車庫東留置線に枕を並べていた。これら3両の屋根のスタイルをレィルロードタイプとアメリカでは云い、モニタールーフやダブルルーフとは言わない。昭和31年廃車。
*6、7号:元大阪市電の木造4輪車の車体
大阪市電は大正~昭和初期の路線網拡大期に明治の木造4輪車の車体を近代化改造し、閑散路線用とした。元呉払い下げ車の整備をした広瀬車両が、自社にあった元大阪市電更新車体を使い、伊予鉄戦災車3、4号の台車を利用して仕上げたのがこの2両であった。昭和32年には既に休車状態であった。 昭和33,34年廃車。
*8号:既に仙台市電、秋保電鉄で述べたので省略。昭和31年廃車
*9~14号:大正12年、自社古町工場製造
伊予鉄は松電と経路が少し異なり、高浜、三津浜の松山の玄関口である港と城下町と道後温泉を繋なげるものであった。松電も三津港と松山市内中心部を結んだため、両社は苛烈な競争を繰り広げた。結果は資本力に勝る伊予鉄に軍杯は上がり、松電の古町付近から南堀端に向かう現在の城南線ルートは改軌されることになった。その時に増備されたのが旧7~16号の10両である。松電が開業時に新造した広軌車両1~10号は処分され、その行方は謎に包まれている。
伊予鉄は戦後昭和22年初頭に改番をしているようで、最初の自社電車を1、2号としているが、3~8号の付番は転入車とし、その後を自社増備車としている。その増備車7~16号の10両のうち戦災車は9~11,15の4両で,7→9,8→10,16→11の改番で穴埋めをしている。写真の9号,14号は原型で、13号は昭和28年から始まった車体更新後の姿。このグループは全車シングルルーフとなった。昭和37、39年廃車。
*15~18号:昭和22、23年、オガタ正機製造
蒲鉾電車第1陣であった。熊本電鉄で見られた完全切妻ではなく、前頭部は少し丸くなっていた。従って蒲鉾形と言って63スタイルとは区別していた。戦災車9~11、15の復旧車で、旧番号を引き継いでいる。先の9~14号同様、同時期に車体更新をしており車体のスタイルは1号と同じ。蒲鉾車体製造は徳島のオガタ正機だとか。
*19~21号:大正15年、自社古町工場製造
自社製造増備車第2陣で、第1陣と同型の旧17~20号の4両となった。戦災車は20の1両だけ。17→20、18→21と改番された。この3両も車体更新され1号同スタイルとなった。20,21は昭和38年廃車、19は先の15~18と共に昭和40年廃車。
*22~24号:昭和24年、オガタ正機製造
蒲鉾電車第2陣。第1陣同様、昭和31、32年に車体更新を受けている。戦災車1、5、20の復旧車で、旧番号を引き継いでいる。昭和37、38年廃車。
一味違った伊予鉄の丸ハンドル型手用ブレーキ装置だが、床面に対して約30度の角度の丸ハンドルに握り玉が付いており、最初はこれでくるくるまわす。ブレーキが効き始めたら運転手はハンドルの正面に位置を変え、足で歯止め操作と共にハンドルの輪を握りしめ、両脚をふんばり、ぐいと力を入れ停車させた。N電の鶴首型と異なり、腹を打つことなく安全であると思い、しげしげと眺めたものである。伊予鉄オリジナル車20両全てがこうした装置であったと思う。
1957年の訪問時、古町車庫内ウロウロしていたら若者に声をかけられた。藤田照明さんと云い、同じ年であった。京都鉄道趣味同好会に入会してもらい、しばらく文通が続いた。1967年、向日町に転居後、プツンと切れた。
1992年夏に古町車庫訪問の時、社員の方に尋ねたら健在であることがわかった。
今回、和歌山の「蒲鉾型電車」の姿のみの紹介にしておく。