1954年3月高校生東京へ

高校2年から3年になる春休みの1954年3月、中学時代の同級生(高校は分かれた)と2人で東京を目指した。大学生相手の下宿(当時のこととて賄い付き)をしていた親戚が、春休みなら手が空くから何泊でもOKといってくれていた。相棒は荒物屋の息子で、中学生から高校生・浪人まで、年末はずっと彼の店でアルバイトさせてもらっていた。小遣いがなく買えなかったTMS(ピク発売まではこれが唯一の鉄道雑誌だった)は彼から毎月借り、図面をせっせとフリーハンドで写し取っていたものであった。

当然夜行列車利用、北陸・信越本線、東海道・関西・奈良線経由という、最も単純な「一筆書き」ルートなのだが、北陸本線の確か杉津だったか新保だったかで土砂崩れがあって不通。夜行列車は臨時に高山本線経由での運行で、始発の大阪駅まで並びに行った。ホームへの誘導までは順調だったが、編成に17メートル車オハ31が混ざっていたため折角の行列が大混乱し、結局座席は1人分しか確保できず、交代で座る羽目に。

キ607 富山

ヤ41 富山 これはヤ40と共に除雪列車と交信する「無線車」で 勿論真空管による無線基地=右側に高いアンテナが建っており 要は建物代わりである 妻面に電源コンセントがある

睡眠不足の目をこすりながら富山着。随分以前にご高覧に供した富山港線の木製社型電車の大方はこの時の撮影である。富山地方鉄道の電車には当時として珍しい5桁ナンバーがあり、末尾2桁が番号、頭の3桁ないし2桁は馬力数だとは聞いていた。この流儀は子会社の加越能鉄道のディーゼルカーにも適用されていた。


富山地方鉄道モハ12512 125がモーター馬力を表すんだそうな

富山市内線デ3515 富山駅前 木製車で窓下段ガラスにはまだ継ぎ目がある

富山から北陸・信越線夜行経由上野行に乗車。当時の時刻表で見ると富山15時37分発上野終着5時00分の522レだったのであろう。本来米原8時16分始発列車だが、上記北陸本線不通のため米原-富山間は運休で、富山始発であったかと記憶する。今度は間違いなく2人共座れた。

記憶はすっかり薄れてしまったが、ネガに小山で撮った数枚があるので、高崎で下車し、5時31分発快速「おおとね」で小山7時54分着、その後上野に向かったと思われる。どうせなら日本ニッケル鉄道(→上武鉄道)や東武熊谷線を覗いておけばよかったものを、と今頃悔やんでも致し方ない。


水戸線811レC5054 小山 客車7両は全部木製車である この時点C50は京都駅はじめほぼ入換用で本務機は珍しかった

C5777牽引の快速「おおとね」高崎発小山経由上野行

入換機2386

上野では先ずは便所に。そこでカルチャーショックというか、当時の首都の裏口を垣間見る事になった。「個室」の天井は世界中吹きぬけが常識だが、そこに厳重な金網が張ってあった。すなわち、懸命に用足し中棚の荷物への注意が散漫になるのを「隣室」で察知し、それを吊り上げて盗む「タコ釣り」防止網だったのである。

上野で乗車券を買い直し、また夜行で小海線、身延線を経由して東京に戻り、数日滞在する計画だったのだが、相棒がここから一人で帰ると言い出した。実は用心金として親から特別給付されたン千円を、祖母の発案で腹巻に入れていたのを、個室での用足し中に「奈落」に落とし、完全に意気阻喪してしまったのであった。当方は左様な心遣いは一切なし=ほぼ完全な自由放任ではあった=にアルバイトで稼いで旅をするなら勝手にしたらいい。三度のメシは親が食わすが他は知らん、という家庭だったから、羨ましくもあった。

致し方なく以後一人旅となって上野23時00発直江津行327レに乗車し、憧れの小海線に乗車することになる。

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