下関にある火の山ユースホステル、これが記念すべき第一号ユースでした。時は昭和42年3月、ウラ若き高校2年生にとってドキドキの一泊でした。
2週間に及ぶ九州一周旅行の最初の宿泊地で、当日は新大阪から急行「つくし」に乗り、糸崎区でC59・C62を写し、広島から夜行で初めての九州入り、若松・門司区で写したあと下関に戻り、まだ走っていた山陽電軌で御裳川(みもすそがわ)まで行き、山手にある火の山ユースホステルへ向かいました。
公営のユースで、設備・食事は申し分なし。さすがに高校生の一人旅にとっては、ユース名物のミーティングに参加する勇気もなく、ベッドの中で小さくなっていました。屋上から見ると、関門海峡を行き来する船舶の光跡が美しく、三脚で夜間撮影したことは覚えていますが、この頃は、国鉄型にしか興味がなく、乗車した山陽電軌の写真は全く写していないのが悔やまれます。検索すると、火の山ユースホステルはまだ営業を続けていることが分かりました。
▲直流電化の西端駅、下関はさまざまな列車が交錯する結節点として賑わっていた。午前7時、クハ181のトップナンバー車を先頭にした「第一しおじ」が、多数の見送りを受け、新大阪へ向けて発車するところ。東海道新幹線の開業で、151系が大挙して山陽本線に移り、一時はその181系がED73に牽かれて交流区間の博多まで乗入れしていたが、その後、交直両用の481系ができて181系乗入れは中止されている。下関を始終点とする特急は「しおじ」2往復だけにはなっていたが、客車列車は、必ず機関車の交代があり、下関の比重はまだ重いものがあった。
▲当時の下関には、こんな旧型国電も発着していた。下関発宇部線経由の小郡行き2958M、クモハ12024+クモハ41083+クハ16418という、宇部新川電車区の17mロングシート車・20mクロスシート車の混成編成だ。山陽本線を直通せず、宇部地域の中心駅である宇部新川を経由する列車で、現在でこそ、このような設定はないが、最近まで、同様の経由の列車は九州内から発着する421系電車などで残っていた。
▲山陽本線からC59・C62などの大形蒸機は消えてから久しいが、下関ではまだ蒸機が見られた。それは、山陰本線の客車列車を牽く長門区のD51で、とくにラッシュ時はまだD51の牽く客車列車が幅を利かせていた。下関発長門市行き842レ、D51692〔長〕。左は久留米発下関行き236M、クハ421-77ほか。