「富士」を送る (1)

特急「富士・はやぶさ」が3月14日のJRダイヤ改正で姿を消します。東京駅から発着する特急寝台はすべて消えてしまうことになり、毎度のことながら激パの様相を呈しているようです。
今まで冷ややかな眼で見ていた特派員も、さすがに終わりが近づくと、居ても立ってもいられず、上京の機会があるとカメラ持参で行くようになりました。しかし、行くたびにダイヤが乱れてカラ振りばっかり。ついに18きっぷ初日に、これも定期運用がなくなる「ながら」に乗って東田子の浦でやっと最後の姿を捉えることができました。

あと10日余りの「富士はやぶさ」が東田子の浦を通過

「富士・はやぶさ」のなかでも「富士」は、「櫻」とともに最初の愛称名であり、まさに日本を代表する特急として格別の思いがあります。「さくら」は九州新幹線で復活することになりましたが、「富士」の名は地域性もあって、再び復活することはないのでしょうか。

「富士」「櫻」は、昭和4年に一般公募によって付けられた初めての愛称で、同年9月のダイヤ改正で、「富士」は東京~下関間の1・2等特急、「櫻」は東京~下関間の3等特急として走り始め、まもなく最後尾にヘッドマークも付けられます。その後、関門トンネルの開通によって「富士」は、長崎まで延長されるものの、太平洋戦争の勃発により、ほかの特急「燕」「鴎」とともに「富士」「櫻」の名は昭和19年に消えます。
戦後の特急復活は昭和24年の「へいわ」から始まります。その一年後には「へいわ」は「つばめ」に改称、続いて「さくら」が昭和26年に臨時特急で、「かもめ」も昭和28年から山陽本線の特急としてそれぞれ復活、戦前の特急愛称のうち、3列車は復活しますが、「富士」だけはその名を表しません。日本を代表する愛称であったため、それに相応しい列車が現れるまでは使用を控えたというのは有名な話です。

ようやく「富士」の名が表れるのは、昭和36年10月、“サンロクトオ”の特急増発のときです。すでに走っていた、こだま型151系の増備によって、東京~神戸~宇野間に新設された電車特急が「第1富士」「第2富士」となります。
写真は、特派員が山科でとらえた唯一のマシな電車特急「富士」です。時は昭和39年9月30日、東海道新幹線の開業を翌日に控えた、東海道本線電車特急の最後の日なのです。当時、特派員はまだ中学3年生、平日だったため、午後3時ごろ学校から帰り、それから京津線に乗って御陵で降り、築堤へ駆け上がって次々に来る本日最終の優等列車をオリンパスペンEで撮りまくりました。

最後の日の151系「富士」。明日からは新幹線が開業し電車特急はすべて東海道線から撤退する

今なら、恐ろしい数が押し寄せてくるはずの最終日にも関わらず、大カーブには誰一人として居ません。天下の名勝、山科大カーブを独り占めしてじっくり最終日をかみ締めたのでした。
井原実さんが、この「富士」に連結されていたクロ151の一等特別席であるパーラーカーに乗るために、アルバイトで溜めた資金を大枚はたいて神戸から東京まで乗り通したことが旧掲示板に記されています。写真の最後部がそのクロ151です。