窓から写した駅・列車 -3- 

中国地方の交換駅

昭和40年代初頭の中国地方、山陽本線は昭和39年に全線電化したものの、電気機関車の不足から、一部では蒸機列車がまだ残っていましたが、この時期、C62などの大型蒸機の働き場所は、呉線へ移って行きます。初めて呉線を訪れたのは、昭和41年3月、高校2年の時でした。

 

syIMG_0016夜行鈍行に乗って、早朝の広島に着き、駅で出入りする列車を撮ったあと、広島8時24分発の呉線の客車列車で糸崎へ向かった。途中の忠海で停車、通過列車を待つ。やって来たのは東京発広島行き急行「安芸」、そして牽引機は待望のC59だった。C62はその前の広島でも撮ったが、C59は初めてだ。C62は、まだ電化後の山陽本線でも見られたし、北海道や常磐線でも見られた。しかし、このC59こそ、呉線でしか見られない、最後の3両だった。一瞬の通過だったが、C62とは対照的な優美な、日本の蒸気機関車の完成形を見るような優美なスタイルが、一瞬で見て取れた。

当会でも、準特急さんをはじめ、乙訓老人さん、米手作市さんと言った錚々たる方がたが、本欄で蒸機の中ではC59がいちばん好きと仰っている。とくに戦後型の船底テンダーがお気に入りのようだ。しかし、私がそれを理解するには、少しだけ年齢が若かった。写真ではよく分からないが、次位には三軸ボギーのカニ38を連結している。「安芸」に通常連結されていた、側面が総シャッターになった試作車だった(昭和41年3月)。

syIMG_0027呉線へはその後も年に一回は必ず行っていた。その多くは、九州旅行の行き掛けに寄った。この時も、尾道のユースに泊まったあと、呉線の安登で走行中を撮ってから九州へ向かう計画だった。風早、という風雅な名前の駅で、C62の牽く624列車と交換した。何気ない写真だが、ホームに立つ赤ん坊を背負った母親の着た“ねんねこ”も、もうすっかり見かけなくなった。背後の民家と柵も何もないような構造も、以前はよく見られたが、さすがに今は見られない(昭和43年3月)