今回は。昨2023年5月に亡くなられた吉田耕司さんのネガから、札幌市で走っていた路面ディーゼル車を見ていただきます。吉田さんは、DRFC現役時代には、各地を旅行され多くの鉄道写真を残されました。このたび、ご遺族から米手さん経由でネガをお預かりしデータ化しました。なかでも昭和40年に北海道へ行かれた際に、札幌市交通局の鉄北線を走っていたディーゼル車を撮られていて、その一部は現在発売の「鉄道ピクトリアル」6月号「札幌都市圏の鉄道輸送」にも、ご遺族の了解を得て掲載することができました。日本では唯一の路面ディーゼル車を今回は見ていきます。▲札幌市の北部を走る鉄北線は、順次延長されて、昭和34年に北二十七条、昭和38年に麻生町、そして昭和39年に新琴似駅前まで延長された。北二十七条以北は、人家もまばらで、コスト節減のため非電化で開業した。すでに昭和33年から路面ディーゼル車の製造・増備が進められており、鉄北線延長後は同線に集中して使用された。
▲札幌旧駅を背景に、路面電車と行き交う路面ディーゼル車、鉄北線は札幌駅前から分岐し、駅の西で国鉄線を越えて、北海道大学前を通って行った。▲昭和33年にD1000形1両が製造されて、昭和34年にD1010形3両、昭和35年にD1020形3両が、同タイプで増備された。床下に120馬力のエンジンを搭載して、片側の台車の2軸を駆動した。 ▲鉄北線は北二十四条までは電化していて、2系統の市電が発着していた、以降の2.5kmが未電化で、ディーゼル車の走る、新琴似駅前~すすきの7系統のみとなった。▲吉田さんが行ったのは昭和40年3月16日で、ちょうど雪解けの頃、路面はご覧のような様相だった。床下機器に泥が入るなどのトラブルが多発したことだろう。▲車内から見た路面の様子も撮られていた。泥だらけの残雪が道路端に続き、人家はほとんど見られなかった。▲▲車内の様子、車掌も乗務していた。
▲鉄北線の延長に伴い、昭和38、39年に増備されたのがD1030形7両、D1040形2両で、この頃に新製された連接車A820形などと同じ顔付きになった。その後、沿線の宅地化が一気に進むと、ディーゼル車では輸送力が行き詰まり、変電所を新設して、昭和42年までに全線が電化した。ディーゼル車はその後も走り続けたが、昭和47年までにすべて姿を消した。▲単線で突っ込み式の終端になっていて、ここが新琴似駅前のようだ。湯口徹著「日本の内燃動車」によると、車両の制作費は、電車950万円に対し、DCなら1000万円と少し高いが、施設費が安く、複線1kmあたりの初年度投資額は2600万円余り有利だとのこと。軌道の内燃動車は、1942年の中勢鉄道(三重県)以来で、札幌市が16年ぶりの復活となる。今後、日本で軌道のディーゼル車は実現しそうにないが、ドイツでは、現在でも市内電車と鉄道線を直通する路面ディーゼル車が活躍しているそうだ。▲新琴似駅前にはバスターミナルが設けられて、軌道・バスの乗り継ぎターミナルとなり、札幌市のバス&ライドの先駆となった。写真のバスは、現在、札幌市交通資料館に保存されている三菱ローザ。▲実は私も一枚だけ札幌駅前で路面ディーゼルを撮っていた。市電とは違うディーゼルの音を聞き、慌ててカメラを構えた。ところが、ちょうど電車と顔を揃えたところで、そのビューゲルが、あたかもディーゼル車から突き出ているように見えて、できた写真はどう見ても電車だった(昭和44年9月)。
吉田耕司さんは私が浪人を終えて1回生として入会した時の4回生でDRFC時代のお付き合いは1年間と短いものでありましたが負けず嫌いの印象が残っております。最後にお会いしたのは伊賀鉄道のイベントでした。私も総本家さんと同じく一応札幌市のディーゼルカーは撮るには撮っていますが、やはり札幌ならではの泥だらけの未電化区間や雪化粧した姿を撮りたかったと思います。1966年9月5日札幌駅前通りを南下して大通り付近で見たD1012です。
準特急様
さっそくの写真コメント、ありがとうございます。吉田さんの写真は断片的には知っていましたが、今回、ネガをお預かりして、その全貌を知りました。決して多作ではないですが、吉田さんらしい視点を感じました。準特急さんが撮られたのは、札幌駅前の南行きの電停ですね。背後の建物は百貨店の五番館で、当時、札幌駅前では唯一のデパートでした。札幌駅とともに付近のランドマークになっていました。私も札幌駅前で一枚だけ撮ったカラーに、五番館が写り込んでいました。
デジ青バックナンバーを検索していますと、inubuseさんの札幌市交通資料館訪問の記事がありました。拝見しますと、私の撮影したD1041号が現在でも同館で保存中であることが分かりました。ビューゲルの出たディーゼル車の写真ですが、それなりの記録となりました。
https://drfc-ob.com/wp/archives/85002
総本家青信号特派員様
五番館はレンガづくりで駅に近い好立地の百貨店でした。しかし、百貨店としては小さすぎて後に西武となり閉店したと聞いております。もう一つの老舗百貨店丸井今井とは仕事上の付き合いがありました。札幌の市電はヨーロッパ調で人気がありました。当時C62や炭鉱に残る鉄道などを訪問したファンは札幌駅前の市電も必ず撮っているはずです。鉄道なら何でもござれの総本家さんの作品もよく拝見させていただきました。地下鉄の自衛隊前には1年間住んでいましたが、高架下の展示場へはあまり足を運んでいません。古いバスも展示されていたと思います。添付写真は1969年3月18日の8時45分の札幌駅前です。
準特急様
全盛期の札幌市電札幌駅前の写真、ありがとうございます。そうでした。準特急さんは、住まれたこともあるほどの札幌通でした。「自衛隊前」と言う聞きなれない地下鉄駅を調べたところ、くだんの交通資料館の下車駅だったのですね。“何でもござれ”は大事だと思います。たった一枚の写真でも、他人の写真であろうと、それが呼び水になるよう、この精神を忘れずやって行きます。
準特急さま
吉田さんがこういう写真を残しておられたとはつゆしりませんでした。京阪の話しかしていなかったからですね。小生もSL末期に数回渡道していますが、「皆さん必ず撮られる」はずの市電は一枚も撮っていません。終焉期のSL撮影が目的だったこともあり、また2月下旬~3月上旬頃の厳冬期で雪の日も多かったためかもしれません。また路面DCが昭和47年まで残っていたなら撮れるチャンスはあったのにと、今思うと残念なことをしたとの後悔が残ります。目的の車両にしか目がいかない小生の癖のせいでした。皆様のように何でも撮っておくことの大切さを今更ながら思っています。
総本家青信号特派員さま
旧札幌駅や西側のこ線橋、懐かしいことばかりです。写真を撮られた南行停留所で、18時頃の吹雪のなかでK中さんN村さんと連接車に乗りたくて40分も待ち続けたことがありました。なぜそこまで連接車に拘ったのか、今ではもう思い出せませんが、整理員の方から「おたくらどこ行かはんの」と訝られたものでした。西側こ線橋近くのユース「札幌ハウス?」(だったかな)には在道中によくお世話になりました。また夜行列車に乗る前に駅前の手回し磁石式公衆電話から、数日先のユースの予約を10円玉を握りしめてかけたのも懐かしい想い出です。吉田さまのご冥福をお祈りします。
1900生様 雪が降りしきる停留所で待ちましたね。あの日ではなく、2月27日夕張鉄道から野幌経由で札幌に戻った夕刻に、すすき野方面?に歩きながらD1012を撮っていました。暗かったのか、足元が悪かったのかボケボケの写真が残っていました。
D1042の間違いでした。
1900生さま
われわれの現役時代の札幌の思い出、ありがとうございます。北海道を旅して、札幌へ来ると、大都会の雰囲気を肌で感じたものでした。その第一は、やはり駅前から満員の市電が次つぎ発車して行くシーンを見た時でした。大都会=路面電車の時代でした。
1900生様
吉田先輩の思い出で負けん気が強いと失礼を申し上げましたが、京阪電鉄に行かれた方は皆さんそうでした。私と同学年のT本さんも、お亡くなりになったS村さんも、そして1900生さん自身も強い方でした。このような思い出を語ることができる方もデジ青上では少なくなってきました。札幌市電の連接車と言えば特にローレル賞を受賞したA830形が有名でした。札幌市電の路線縮小、廃止と大型車両が欲しいという当時の名鉄美濃町線の要求が一致して1976(昭和51)年にその一部は北国から美濃の国に渡り活躍しました。添付写真は2005(平成17)年3月6日美濃町線上芥見-下芥見間付近の関行き876+875です。固定窓を改造したり冷房装置を付けたりして札幌時代とは面影が変化しております。この電車なら撮られた方も多いと思います。発表してください。
1900生様
札幌ハウスや西側跨線橋の話も懐かしく思います。そこでしつこくもう1枚。びわこ号ではありませんが、連接車は横から見ないと特徴が出ませんね。
吉田耕司様のお名前はデジ青で拝見しただけですので、出る幕はないと考えていました。鉄道趣味者の遺品は膨大な量に及び、遺族の方のご苦労は大変でしょう。長年にわたって収集された書籍や資料、撮りためたフイルムなどは同じ趣味を持つ者には宝の山でも、興味のない人には始末に負えません。少し前のこと、鉄道趣味の中古品を扱う店で見たのは、故人が残した大量の鉄道模型の山でした。フイルムは処分されたと聞きました。貴重な写真を公開していただいた総本家様に、感謝いたします。
吉田様が撮影された昭和40年の札幌、しかも非電化区間の風景は驚きの連続です。雪解けの未舗装路は、電車や車両はもちろん、歩行者にとっても困難なことだったでしょう。水溜りだらけの道を歩くときに、クルマがはね上げる水しぶきが体にかかるのを避けるため、傘をかざしたのを思い出します。ずいぶん遠い日のことです。
さて、今回は写真の出番はないと思いましたが、準特急様が助け舟を出してくださいました。美濃町線なら撮っています。 連接車が真横から撮れる津保川の鉄橋で、2005年2月に出会ったモ870形です。札幌から来たスマートな電車は好きな車両でした。写真を撮るだけで、乗る機会に恵まれなかったのが心残りです。
吉田耕司様のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
紫の1863様
写真・コメント、ありがとうございます。路面ディーゼル車の記録は、ほかでも見たことがありますが、吉田さんのような、車内から見た、雪解けの頃の路面の様子は初めて見て、私も衝撃を受けました。こんな劣悪な軌道を、よく走ったものと思います。車両だけの写真は誰が撮っても同じです。ついでに撮ったような、スナップ写真にこそ、撮影者の持ち味や個性が発揮されるものですね。
津保川の見事なモ870形も楽しませてもらいました。私もここで撮ったことはありますが、モ870形はついに撮れずじまいでした。
西村雅幸さま
さすが後日とはいえ路面ディーゼル車を撮っておられましたか。あの当時も駅前に来ていたのかもしれませんが、我々はなぜ連接車に拘っていたのでしょうかねえ。今思えばディーゼル車の方が貴重だったのに。定山渓鉄道も札幌まで行きながら残念なことをしました。相当SLに気をとられていたようですね。まあC62重連もありましたし無理もありませんが。色々悔いは残りますが、楽しく夢のような旅行でしたね。
総本家青信号特派員さま
想い出話に華を添えて戴き有難うございました。ユースを泊り歩いていたため野菜類に飢えて(当時冬の北海道では野菜は貴重品でユースで出ることは殆ど無かった)いて、5~6日に一度は札幌に戻り、都会の薫りに触れると共に野菜サラダを食べていました。駅前で連接車を40分も待った時も、狸小路あたりのレストランでサラダを食べに行こうとしてでした。
準特急さま
気が強いなんて、他の方はいざ知らず、小生はクラブBOXでの準特急さまとの阪急×京阪論争でいつも喝破され、泣きながら帰ったように気の弱い男でしたよ。スカーレット連接車の写真を有難うございました。あの連接車が岐阜に来ていたとは。写真は見たことがありますが、てっきり新車だと思っていました。
元札幌市の名鉄870型の夏の室内写真が見つかりました。
冷房改造前です。1995年撮影。
せっかく冷房を積んだのに10年も使用せずに岐阜は惜しいことをしたものだと思います。