散歩道で見つけました3

藤田さんは呉線にも足を伸ばされています。
ただ、あまり歩き回る方では無いようで写真は駅周りで撮られた物が多いです。
これらは呉線広駅で撮った写真です。

当時の呉線は山陽線より旅客大型蒸機が多かった

西村さんの地元ですから解説はお任せしますが、通勤列車がC59、C62などが牽く贅沢な物でした。C59大好き!の準特急さんなど垂涎の的でしょうな。

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呉線全線開業80周年記念イベントなど

先に記念入場券や記念切手発行の事前PR記事をご紹介しましたが、3連休の初日11月21日に 記念イベントが開催されました。まずは翌22日の中国新聞記事からご紹介します。

平成27年11月22日 中国新聞朝刊

平成27年11月22日 中国新聞朝刊

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同 呉・東広島版

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窓から写した駅・列車 -3- 

中国地方の交換駅

昭和40年代初頭の中国地方、山陽本線は昭和39年に全線電化したものの、電気機関車の不足から、一部では蒸機列車がまだ残っていましたが、この時期、C62などの大型蒸機の働き場所は、呉線へ移って行きます。初めて呉線を訪れたのは、昭和41年3月、高校2年の時でした。

 

syIMG_0016夜行鈍行に乗って、早朝の広島に着き、駅で出入りする列車を撮ったあと、広島8時24分発の呉線の客車列車で糸崎へ向かった。途中の忠海で停車、通過列車を待つ。やって来たのは東京発広島行き急行「安芸」、そして牽引機は待望のC59だった。C62はその前の広島でも撮ったが、C59は初めてだ。C62は、まだ電化後の山陽本線でも見られたし、北海道や常磐線でも見られた。しかし、このC59こそ、呉線でしか見られない、最後の3両だった。一瞬の通過だったが、C62とは対照的な優美な、日本の蒸気機関車の完成形を見るような優美なスタイルが、一瞬で見て取れた。

当会でも、準特急さんをはじめ、乙訓老人さん、米手作市さんと言った錚々たる方がたが、本欄で蒸機の中ではC59がいちばん好きと仰っている。とくに戦後型の船底テンダーがお気に入りのようだ。しかし、私がそれを理解するには、少しだけ年齢が若かった。写真ではよく分からないが、次位には三軸ボギーのカニ38を連結している。「安芸」に通常連結されていた、側面が総シャッターになった試作車だった(昭和41年3月)。

syIMG_0027呉線へはその後も年に一回は必ず行っていた。その多くは、九州旅行の行き掛けに寄った。この時も、尾道のユースに泊まったあと、呉線の安登で走行中を撮ってから九州へ向かう計画だった。風早、という風雅な名前の駅で、C62の牽く624列車と交換した。何気ない写真だが、ホームに立つ赤ん坊を背負った母親の着た“ねんねこ”も、もうすっかり見かけなくなった。背後の民家と柵も何もないような構造も、以前はよく見られたが、さすがに今は見られない(昭和43年3月)

 

呉線急行-音戸、ななうら、安芸など

呉線区間列車に続き、呉線通しの急行・普通・貨物列車です。
1966年5月3日の夜は坂駅でステーションホテル。翌5月4日。空がまだ明けやらぬ内から、坂駅で撮影開始。先ず音戸が通過。
▼(左)下り301レ急行『音戸』、機C6215【広転】 5:34頃。(右)上り622レ     12728
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少し明るくなってきて、622レの出発。
▼上り622レ、5:36発糸崎行き、機C6214【糸】                   12730
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呉線-蒸機牽引区間列車

呉線の蒸気機関車牽引の写真は、これまでに湯口先輩、青信号特派員さん、その他沢山の方が投稿されています。モノクロやカラーで美しい瀬戸内の風景も同時に見せて戴きました。筆者も人並みに、呉線を訪れていましたが、海岸線を行く画像は二番煎じ、出涸らし茶ですので、少し変わった画像を紹介しましょう。夕刻から早朝にかけ多数運転された、広島-広間(糸崎-竹原、竹原-広島間も含む)の、蒸機牽引区間列車です。

1966年当時区間列車が、広島→広間(上り)の5本、広→広島間(下り、内2本は広→宇品間)の5本がありました。この他、糸崎→竹原、竹原→広島間にも各1本がありました。これらは通勤・通学列車でしょう。早朝と夕刻の運転です。1960年代高度経済成長期時代の呉、海田市、広島、宇品など工業地域への通勤列車でしょう。この他に広島←→糸崎間の通し運転の蒸機列車やDC、区間列車のDCを含めると、たいそうな列車本数の呉線でした。

この内、夕刻の広駅折り返し列車については、広駅にターンテーブルが無い為、上りもしくは下りのいずれかで大型蒸機のバック運転が見られました。呉駅に回送、方向転換の時間的・ダイア上の余裕が無かったためです。蒸機はC59、C62、D51でした。残念ながらC59のバック運転の写真が撮れていませんが。

また、夜間の列車は正位運転で広駅に向かい、到着後機関車を呉駅にバック運転で回送、呉駅のターンテーブルで方向転換し、翌朝再びバック運転で広駅へ。ここで客車を連結、正位で広島に向かうという、手の込んだ方式でした。

▼上り客926レ、広行き、坂駅に到着。機C6218【広島(運)】、1966.05.03    C2710C2710 続きを読む

天然色写真で巡る40年前の九州 (2)

電化前の呉線

昭和44年3月7日、九州へ向けて出発した。大学1年から2年にかけての春休みで、例によって均一周遊券を目いっぱい使って九州を駆け巡り、次第に姿を消そうとする蒸機を撮りまくろうという目論見である。
九州は高校生時代に2回行って、ほとんどの機関区を巡り、形式写真を撮影をしているので、今回は、駅間の撮影地を採り入れた旅となった。
と言ってもいきなり目的地へ向かうことはしない。当時は“行きがけの駄賃”がいくらでもあった。今回は、電化間近の呉線へ行くことにし、夜行列車で西下、糸崎で下車、区で夜間撮影ののち、早朝の呉線安芸幸崎に着いた。
呉線は地図では海岸沿いを走っているが、実際行くとなかなか海沿いは見つからない。そんななかで、安芸幸崎~須波間は海岸にへばりつくように走っている。なかでもちょうど中間地点付近は、ミカン山になっていて、高低も自由に変えられ、背後には波穏やかな瀬戸内海を入れることができる。地図で見ると、江若の模型作りで名高い西村雅幸さんの自宅は、ここから山ひとつ越えたところのようだ。
山陽本線が完全電化後も、呉線にはC59、C62が残り、大型蒸機の競演が見られた。山陽本線のセノハチの勾配を回避するため、沿線人口の多い呉線経由の優等列車も多かった。東京~広島間の「安芸」はその代表的列車で、この年からは、急行としては異例のヘッドマーク付きの蒸機牽引となった。しかし、昭和45年10月完成を目指して電化工事が始まり、この区間でもポールの建植が始まった。やってきたのは、3両だけ残ったC59の牽く京都発鳥栖行の1043荷物列車であった。
このカラーを撮影後、三脚の撤収中にカメラの取付けネジをうっかり落としてしまった。周りをいくら探しても見つからない。このネジがないと三脚は、単なる伸縮する3本の棒になってしまう。結局、初日からして、無用の長物をずっと持ち歩くことになり、いささか気の重いスタートとなった。

C59164の牽く荷物列車
 
C59164の牽く荷物列車