天然色写真で巡る40年前の九州 (2)

電化前の呉線

昭和44年3月7日、九州へ向けて出発した。大学1年から2年にかけての春休みで、例によって均一周遊券を目いっぱい使って九州を駆け巡り、次第に姿を消そうとする蒸機を撮りまくろうという目論見である。
九州は高校生時代に2回行って、ほとんどの機関区を巡り、形式写真を撮影をしているので、今回は、駅間の撮影地を採り入れた旅となった。
と言ってもいきなり目的地へ向かうことはしない。当時は“行きがけの駄賃”がいくらでもあった。今回は、電化間近の呉線へ行くことにし、夜行列車で西下、糸崎で下車、区で夜間撮影ののち、早朝の呉線安芸幸崎に着いた。
呉線は地図では海岸沿いを走っているが、実際行くとなかなか海沿いは見つからない。そんななかで、安芸幸崎~須波間は海岸にへばりつくように走っている。なかでもちょうど中間地点付近は、ミカン山になっていて、高低も自由に変えられ、背後には波穏やかな瀬戸内海を入れることができる。地図で見ると、江若の模型作りで名高い西村雅幸さんの自宅は、ここから山ひとつ越えたところのようだ。
山陽本線が完全電化後も、呉線にはC59、C62が残り、大型蒸機の競演が見られた。山陽本線のセノハチの勾配を回避するため、沿線人口の多い呉線経由の優等列車も多かった。東京~広島間の「安芸」はその代表的列車で、この年からは、急行としては異例のヘッドマーク付きの蒸機牽引となった。しかし、昭和45年10月完成を目指して電化工事が始まり、この区間でもポールの建植が始まった。やってきたのは、3両だけ残ったC59の牽く京都発鳥栖行の1043荷物列車であった。
このカラーを撮影後、三脚の撤収中にカメラの取付けネジをうっかり落としてしまった。周りをいくら探しても見つからない。このネジがないと三脚は、単なる伸縮する3本の棒になってしまう。結局、初日からして、無用の長物をずっと持ち歩くことになり、いささか気の重いスタートとなった。

C59164の牽く荷物列車
 
C59164の牽く荷物列車

天然色写真で巡る40年前の九州 (2)」への1件のフィードバック

  1. 呉線に優等列車が走っていたのは電化のあと山陽新幹線が出来るまでの
    5年間。
    その後の33年間に(沿線で)生まれた子供がもう人の親になるほど年月が
    経ちました。
    鉄道は血管のように良く出来た社会システムだとしたら、新幹線以降の
    ひとは口惜しいだろうな、と思います。

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