呉線-蒸機牽引区間列車

呉線の蒸気機関車牽引の写真は、これまでに湯口先輩、青信号特派員さん、その他沢山の方が投稿されています。モノクロやカラーで美しい瀬戸内の風景も同時に見せて戴きました。筆者も人並みに、呉線を訪れていましたが、海岸線を行く画像は二番煎じ、出涸らし茶ですので、少し変わった画像を紹介しましょう。夕刻から早朝にかけ多数運転された、広島-広間(糸崎-竹原、竹原-広島間も含む)の、蒸機牽引区間列車です。

1966年当時区間列車が、広島→広間(上り)の5本、広→広島間(下り、内2本は広→宇品間)の5本がありました。この他、糸崎→竹原、竹原→広島間にも各1本がありました。これらは通勤・通学列車でしょう。早朝と夕刻の運転です。1960年代高度経済成長期時代の呉、海田市、広島、宇品など工業地域への通勤列車でしょう。この他に広島←→糸崎間の通し運転の蒸機列車やDC、区間列車のDCを含めると、たいそうな列車本数の呉線でした。

この内、夕刻の広駅折り返し列車については、広駅にターンテーブルが無い為、上りもしくは下りのいずれかで大型蒸機のバック運転が見られました。呉駅に回送、方向転換の時間的・ダイア上の余裕が無かったためです。蒸機はC59、C62、D51でした。残念ながらC59のバック運転の写真が撮れていませんが。

また、夜間の列車は正位運転で広駅に向かい、到着後機関車を呉駅にバック運転で回送、呉駅のターンテーブルで方向転換し、翌朝再びバック運転で広駅へ。ここで客車を連結、正位で広島に向かうという、手の込んだ方式でした。

▼上り客926レ、広行き、坂駅に到着。機C6218【広島(運)】、1966.05.03    C2710C2710
▼同上、17:46、坂駅を出発、広に向かう。 夕闇が迫り、画像が赤味。         C2711
ただこの日、このC6218は回送・転換されずに、広駅に翌朝まで駐機していたものと推察されます。C2711

▼下り客929レ、広島行き、坂駅に到着。機D51755【糸】、1966.5.3     1271212712

▼同上、18:06、坂駅を出発、広島に向かう。この列車は上り922レの折り返し。
上りは正位で、下りがバック運転。                        1271312713

▼広島-呉、糸崎-竹原、竹原-広島間の蒸機牽引区間列車と、蒸機の運用(一部想定を含む) 区間列車

1966.05.03の日について、整理すると、(数字は列車番号)
(当日夕刻)922→929 下りがバック運転、  924→931 撮影せずに詳細不明。
広駅で方向転換できずに、往復のどちらかがバック運転となる。

(当日夜間)                             (翌朝)
926→バック運転で広に、呉駅に回送せずに翌朝まで駐機→925
928→呉駅に6993で回送、方向転換→翌朝6990で広駅に回送→927
930→呉駅に6995で回送、方向転換→翌朝6992で広駅に回送→921
この他に
(深夜)糸崎→625→竹原、(翌朝)竹原→923→広島
これらが常時の運用形態か、当日のみかは不明です。

夏の早朝、広駅に並ぶ大型蒸機の様子は壮観だろうと、撮影と計画したのですが、実現できずでした。

坂駅で宿泊(ステーションホテル)したので、夜間も撮影できました。
▼上り客930レ広行き、機D51518【糸】、20:17。左は貨623レの緩急車。   1272012720▼翌朝の921レ、昨夜930レの折り返し機D51518【糸】が牽引。坂-小屋浦間  1290612906▼翌朝の925レ、昨夕の926の折り返し機C6218【広運】                             C2713C2713

▼下り927レ、昨夜の928レの折り返し機C59161【糸】が牽引。同上区間。   C2714
線路沿いには、電化に備えて新しいポールが立ち始めており撮影の邪魔になり始めてい
ました。C2714

▼当時の呉線ダイアグラムです。見易いように編集しています。
ダイアグラム

三種類もの大型蒸機が次々に、長めの客車列車を引っ張り、行き来する姿が美しい海岸風景に溶け込んで、それはそれは楽しいものでした。
次回、坂駅での夜間と早朝の糸崎-広島間の通し運転列車、海岸での写真などを、お目にかけます。

呉線-蒸機牽引区間列車」への2件のフィードバック

  1. tsurukameさま
    呉線の写真の数々、愉しませてもらいました。朝、夕方、晩と、さまざまな時間帯に撮っておられるんですね。また、機関車の運用についても、意外な事実を知りました。ありがとうございました。
    私もよく呉線へ行きましたが、朝は、本数の稼げる広島~広間で、通勤列車を撮っていました。ただ、tsurukameさんも果たせなかった広駅の蒸機の並びは、私も撮れていません。これは、広島駅でステーションして一番列車で行っても、間に合わなかったからだと思います。
    もっぱら、撮影地ガイドに紹介された小屋浦へ行きました。ここは、“クサイ”(我々世代の隠語で、風景が良くない)撮影地の代表とまで言われましたが、いま、当時の写真を見返すと、全然クサクありません。沿線の家並みも、おとなしい日本家屋で、いまのような、ド派手な店舗は全くありませんでした。いい時代でした。

  2. 準特急氏が出塁したので送りバント役となろう。老人は1963年9月大阪転勤となり、なるや中四国地区担当者となった。と言っても大阪支店で業務担当であったから、両地区代理店お伺いと言う仕事であった。広島に直行するときは夜行準急「ななうら」の2等車とした。当時車中泊に2000円の手当てが出たからである。呉線は幼児から母親の田舎へ行くときは夜行で向うのが常であったからおなじみだった。山陽線では眠っているのだが、糸崎で機関車取替えで目覚め、それから目はバッチり、夜明けとなり瀬戸内が目に入ると海を見る。軍艦が見えるからである。車掌は三原を出るとガラリを海側は下げに来るが、スハ32は窓幅狭く母に少し上げて貰い目はランランである。巡回する車掌も幼児がガラリを少し上げていても見逃してくれる。こんな事を思い出しながら広に到着。到着ホームから浜寄りに旅客列車が並んでいる。これにはびっくりした。
    手元にある時刻表(1969年12月号)では広発921レ6:13発、925レ6:43発、927レ7:00発の3列車が仕立てられ蒸気を吹き上げていたのである。当方の「ななうら」は5:59発で、呉離合列車があるから直ぐ発車であった。こちらは2等車であり編成前部であったから、ホームにどれだけの乗客が921レを待っていたのか分からない。
    この待機列車3本並ぶ姿を撮影した御仁がいるのだ。今は消息不明となった1962年度Ⅰ君で、元気な頃に急行「ななうら」で広島に向う途中に気付いて撮影したと言っていた。彼以外の方も撮影されたようで、確かピクトリアルのコンテストで入賞されたように思う。誰か思い出せませんか。
    老人の広島出張は1966年春に終わったが、「ななうら」→「音戸」で2等車(スロ)のスタイルを変えなかった。

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