終活というのではないけれど、資料を整理していると“こんなものが!”と言うものが見つかります。その一つが「駅弁包装紙」です。熱心に集めていたのではありませんが、それでもある程度はたまっていました。捨てるのは忍びないのでスキャンしてファイルしました。
特派員氏が夏枯れで投稿が少ない、とお嘆きのようなので、得意のつなぎ記事で楽しんで頂きます。
例によってコメントは書いていないので、いつ買ったのかは分かるものもあり、無い物もありです。
皆様の思い出を聞かせてください。
終活というのではないけれど、資料を整理していると“こんなものが!”と言うものが見つかります。その一つが「駅弁包装紙」です。熱心に集めていたのではありませんが、それでもある程度はたまっていました。捨てるのは忍びないのでスキャンしてファイルしました。
特派員氏が夏枯れで投稿が少ない、とお嘆きのようなので、得意のつなぎ記事で楽しんで頂きます。
例によってコメントは書いていないので、いつ買ったのかは分かるものもあり、無い物もありです。
皆様の思い出を聞かせてください。
米手作市様
「つなぎ記事」とはご謙遜を!私も積極的には集めていませんでしたが、旅の思い出として10数枚保管してあります。昔の時刻表には駅名の横に弁当販売(立ち売り)がある駅であることを示す「弁」マークや、電報を取り扱う駅を示す「電」マークがあり、欄外には弁当の種類や値段まで書かれていて、時刻表を眺めるだけでも、楽しかったものです。今回ご紹介頂いたのは鳥取のかに寿し(昭和42年1月、150円)、大宮の盆栽すし(昭和42年2月、150円)、三原/糸崎のたこめし(150円)、綾部の弁当(昭和42年7月、200円)の4種類ですね。なお綾部の包み紙に「国際観光年」とあることから昭和42年としました。年月日に記載がない三原/糸崎のたこめしも多分同時期なのではないでしょうか。このような包み紙は当時の物価や世相が反映されていて、貴重な史料になります。綾部の包み紙に書かれているように、弁当ガラは腰掛の下に置くのが暗黙のルールでしたね。長距離夜行列車に乗ると、終着駅近くでは、座席の下はゴミだらけでした。また夜行列車でよく座席の下に新聞紙を敷いて床の上に寝転んだこともありますが、座席の下はきれいではなかったような記憶があります。
三原/糸崎の「たこめし」をご紹介頂き、ありがとうございます。この弁当屋さん「浜吉」は現在も盛業中で、さすがにプラットホームでは売っていませんが、福山駅、三原駅、広島駅構内売店と広島空港売店で今も「たこめし」を買うことができます。但し1150円ですから、55年前に比べると6~7倍になっていることがわかります。
この浜吉さんは現在も糸崎駅前に工場があり、地元では有名なお弁当屋さんです。そのルーツは山陽鉄道時代に遡ります。元々は尾道にあった旅館兼料理店の「天画楼」で、「濱吉」という商号は創業者の濱中吉助の名前に由来します。山陽鉄道は明治25年に尾道を経由して糸崎までが開通しますが、平地の少ない尾道市街地に鉄道を通すということで反対運動も盛んになり、鉄道用地買収に難航します。そんな中で濱中吉助氏は、将来のために鉄道は絶対必要と反対者を説得する側に立ち、活動されます。そしてその協力と功労を認められて、尾道駅での立ち売り販売を許されます。山陽鉄道が西進し、徳山まで開通した明治30年に拠点を尾道から糸崎に移して事業拡大を図ってゆきます。
食堂車や寝台車をいち早く導入し、瀬戸内海航路との競争もあって、旅客サービスの面で秀でていた山陽鉄道は、駅弁の予約注文制度も設けていました。例えば下り急行列車が三石を通過する頃に車掌が弁当の予約を受け付け、岡山でその情報を鉄道電信で糸崎に伝え、列車が糸崎に着くとその弁当が予約客に届けられるという仕組みです。全列車が停車する糸崎駅の浜吉は、姫路の「まねき」、岡山の「三芳野」と共に、山陽路の弁当を一手に引き受けていた老舗です。
また一般乗客だけではなく、日清、日露に始まる戦争時には、広島や呉に向かう軍用列車への弁当供給も手掛け、繁忙を極めます。浜吉社長は糸崎町や三原市の名士で、市会議員をされていたこともあります。また糸崎駅に隣接する三菱重工三原製作所(私の現役時代は5000人)内の社員食堂も浜吉の従業員によって運営されていました。私も長い間毎日お世話になっていました。残念ながらもう往時の勢いはありませんが、そんな長い歴史を誇る弁当屋さんとして「空弁」なども含めて、これからも弁当文化を継承して頂きたいと願う次第です。
最近は旅行する機会も少なくなったので駅弁を買うことも少なくなりました。新幹線のホームで買う弁当も駅弁ですがあまり印象に残っていません。最近とはいえないのですが、木次線ツアーで新見駅発の列車が集合だったので新見駅で駅弁でも買ってと思っていたのですが駅弁がなく町でやっと探して弁当を買ったことがありました。駅弁が少なくなったことを痛感しました。米原駅でよく買う井筒屋の「湖北のおはなし」は唐草模様の風呂敷のような不織布が包装紙で気にいっています。ところで三原/糸崎駅の「たこめし」の包装紙の絵はユニークだと思いました。タコが疲れて蛸壺にしがみついて寝ているように感じました。他のたこ飯の包装紙を調べましたがこんなユニークな絵はありませんでした。なんでこの絵を包装紙に使ったのか知りたいものです。
今日は祇園祭りの後まつり、夜には我が家のそばを神輿が通ります。
京都駅の萩の屋は、駅弁の掛け紙に鉾をあしらっておりました。7月限定のデザインかと思いきや、購入日は昭和47年1月4日です。この頃の駅弁は300円で、昭和42年から2倍になっています。DISCOVER⇒JAPANのロゴに当時を懐かしく思い出します。
三原/糸崎駅の「たこめし」がありました。昭和50年1月、京都のデパートで駅弁大会が催された時に買ったものです。蛸壺にしがみつくタコ君は、どですかでん様がおっしゃるように、疲れて眠っているように見えますねえ。
さて、400円のシールが貼ってあります。一枚はがすと300円、もう一枚はがすと200円。京都までの輸送費を上乗せしたのでしょうか。
私も、駅弁掛紙をストックしています。昨年、実家の遺品整理で父の収集したものを入れて100枚ほどになりました。三原・糸崎駅の「たこめし」もありました。1995年、平成7年4月のもので、値段は600円でした。イラストのタコは1863さんの写真とかわらず、酔っ払いのオッサンのようでした。
時代が最近になりますが、もう少し元気なタコのイラストをご紹介しましょう。西明石駅の「ひっぱりだこ飯」です。明石海峡大橋開通記念とありますから、1998年、平成10年の調製のようです。
駅弁の「掛け紙」はコレクションしておりませんが、三原の「たこめし」は50年前の美味しかった記憶が残っています。そして勘秀峰さんの「ひっぱりだこ飯」に反応してしまいました。これは神戸勤務時代によく食べました。炊き込みご飯に蛸と穴子の煮物が蛸壺を模した陶器に入っています。「掛け紙」のデザインは今も勘秀峰さんの画像と変わりなく明石海峡大橋開通記念の文字もそのままです。現在の価格は1,250円。京都駅でも買えますよ!
老人の甥さん、ありがとうございます。もう一度掛紙を見たら、裏面にも印刷がありました。甥さんの写真の解説にどうぞ。明石海峡大橋開通記念として売り出された駅弁だったのですね。改めてメモを見ると、平成24(2012)年8月17日に食べたものだと言うことが分かりました。
明石名物の「蛸」なのですが、近年の不漁で、昨年から県外産の蛸を使用しているそうです。
中国地方の話題が懐かしい筆者様の思い出になりますか。我が家には今はなき福山駅駅弁業者だった鞆甚の鯛めしの容器が、住む人の居なくなった九州の実家の掃除中に出て来たので、10年ほど前に大阪まで持ち帰ってきました。
鞆甚は2003年1月に自己破産を申請して、長い歴史と思い出から消えました。その後は三原の浜吉が代わったようです。
https://kfm.sakura.ne.jp/ekiben/board/200301b.htm
容器の上の参考書はカラーブックス「駅弁旅行」昭和42年刊、45年増刷で、私たちが大阪からキハ82系特急「みどり」で母の実家がある広島に向かう途中、福山駅で容器に惹かれて買ったのは、昭和39−40年頃のことかと推測します。
K.Hさん、ありましたよ~鞆甚の「鯛寿司」の掛紙です。これは父のコレクションで昭和61(1981)年6月15日調製分です。福山といえば鞆甚が有名でしたが、駅弁会社の経営は苦しくなっているところが多いようですね。福山にはゼミ仲間の女性がおり、3月の私の写真展に来てくれました。
あと、大宮駅の「盆栽すし」にも反応しました。国鉄の工場がある大宮は鉄道の聖地であると同時に、大宮盆栽村がある園芸やガーデニングの聖地なのです。駅から2キロほど北東にあり、旧大宮市の代表的な施設です。
関東在住時に勤めていた板橋の会社の工場が東北線の久喜、東武線の加須にあり、大宮駅を良く利用しました。平成の初めの頃は、在来線のあさま号が活躍していました。ホームにはまだ駅弁の立ち売りの姿があり、この季節ならではの「冷凍みかん」を販売しているボックスもありました。
大宮駅の掛紙は所有していませんので、次の新幹線停車駅小山の「鳥めし 三色弁当(鳥又)」を紹介します。平成12(2000)年9月購入で、金糸たまごと鳥のそぼろが美味しいかざりけのない駅弁でした。
盆栽ずしには痛い思い出があるのです。
DRFCのK君と大宮の有名駅弁・盆栽ずしを買ったまではよかったのですが、手を滑らせて落とし植木鉢が割れてしまいました。モッタイナイのでフタに寿司を載せてユースホステルまで持って行き、部屋で一人さみしく食べたのを思い出します。当時、部室では、盆栽をたたき割って地植えにして食べた!とはやし立てられたものです。
これですね
こんなきれいな状態は知りません。
探すのに時間がかかりましたが、「濱吉(はまきち)」の絵葉書セットがありました。通信面の仕切線が1/3で、明治40年4月~大正7年3月頃のもので、国有化後の発行です。表紙と絵葉書が6枚のセットで、右側の穴に綴じ紐で結んでありました。ノベルティには見えませんので濱吉の何かの記念品か販売していたものではないかと思います。濱吉は山陽鉄道時代には徳山-門司間の連絡船内で飲食物を販売したり、下関駅に旅館の支店を開店させたり、山陽鉄道に食い込んでかなり手を広げていたようです。画像左上の糸崎駅構内濱吉待合所の屋根角の看板には「鐵道旅館濱吉待合所」と書かれています。
絵葉書セットの表紙です。ところで、三原駅新幹線乗り換え口の巨大なタコさんは今も健在でしょうか。
井原実様
返信が遅れてしまいました。「濱吉」の絵葉書セットに驚かされました。初めて見るもので、非常に貴重なものです。多分、今の「浜吉」にも残っていないのではないかと思われます。入手された経緯や6枚セットの残りにはどんな写真があるのかなどをお教え頂きたく、別途貴君にお手紙を差し上げますので、よろしくお願いします。