ぼんやりとしか覚えていない映画に写っていた鉄道

 新聞にちょっと気になる本が載っていた。その本は「あの映画に、この鉄道」という題名である。出版社はあの「キネマ旬報社」である。最近では柄本佑、安藤サクラご夫妻がキネマ旬報ベストテンで主演賞を受賞したということで話題となった。キネマ旬報の映画賞はアカデミー賞を越えて世界最古クラスである。この本の著者は川本三郎氏で、この本のあとがきに次のように書かれている。「日本映画に登場した映画の数々を紹介している。映画も好きだが、鉄道の旅も好きな人間なのでこんな本が生まれた。  類書は少ないと思う。というのは、一般に映画好きの鉄道ファンは少ないし、鉄道好きの映画ファンもあまりいないから。本書が両者の架け橋になればいいと思っている。」

 子供の頃に見た映画で時々ぼんやりと思い出す映画がある。数十年も前であるが、映画の話を父親としていると見せたくなかったが仕方なしに見せてしまって困ったと言っていた。二本立ての映画で、二本目の映画だったらしい。ぼんやりと覚えているのは最初のタイトル画面がアニメーションで、ちょうどピンクパンサーのタイトルのようなシャレた感じだったと思う。当然、子供だから食いついてしまったので、映画館を出るわけにもいかなかったらしい。そしてさらに映画の場面に出てきたのは見慣れた河内の風景、今の藤井寺市、柏原市あたりであったと思う。題名は「河内なんとか」だったような・・・。あとで調べてみると「河内風土記おいろけ説法」という映画であったようだ。当然、題名からして親としては見せたくないのは当たり前である。ところで見慣れた河内の風景とは鉄橋を電車が渡っているものであったと思っている。私としては近鉄道明寺線の大和川橋梁であると思っているのだが、いまだに再び見る機会がないので確認ができていない。どうも時々リバイバル上映を行っているらしい。どこかで上映することがあれば見てみたいものである。

 近鉄道明寺線は近鉄で最古の路線である。正確には南大阪線の道明寺ー古市間も含めて明治31年(1898年)3月24日に河陽鉄道として営業開始をした。そして同年の4月14日に富田林までを営業を開始した。開業はしたが経営難であったので、資金を集めて河南鉄道という新会社を設立して譲渡した。ということは道明寺線の大和川橋梁は近鉄最古の鉄道施設となる。道明寺線は親類のところに行くときによく利用するのであるが、写真はあまり撮っていない。今回、初めての撮影となった。柏原で乗り換えである。乗換時間が長ければ柏原南口まで歩いてもよかったのであるが、すぐに道明寺行の電車が来た。ちょっとだけであるが柏原南口まで乗ることにした。うまい具合に駅で写真が撮れるのである。

 駅を出て堤防の方へ行く。国道25号線を跨ぐ橋梁の橋台は両側を石積み、本体はレンガ造りである。120年近く経っているとは思えない。しかも、下の写真のように焼き過ぎて黒くなったレンガと普通の赤いレンガをうまく組み合わせて多彩色の装飾的なレンガ積みをポリクロミーという。桜井線でもこのようなレンガ積みの橋台がよく見かけられる。

堤防から見ると、この柏原南口はごらんのように築堤上に作られた小さな無人駅である。

信号の左側の倉庫のような建物の前の道は古い地図で見ると東高野街道

 この柏原南口駅から近鉄大阪線安堂駅まで500mほどである。ちなみに柏原駅へは700mの距離があり、安堂駅の方が近い。近鉄大阪線への乗り換えには便利な駅なのである。この駅の乗降客は近鉄のHPによると735人(調査日平成27年11月10日)である。ところで柏原南口駅は河陽鉄道として開業した時にはなかった。河南鉄道の時、明治44年(1911年)に大和橋という停留場として開業した。そして大正13年(1924年)6月に柏原南口に改称して、今の場所に移設した。湯口先輩の「日本の蒸気動車(下)」によると、蒸機列車の時は2時間毎の運行であったが、利用者の利便性を考えて蒸気動車にすると1時間毎の運行となるとして蒸気動車の導入となったのである。その後、乗客が増えたので2両の蒸気動車を導入した。この時に大和橋停留場を設けたとある。しかし、今の柏原南口ではなく、大和川を渡った対岸のところで、場所は大和川付け替え記念碑の南側にあった。

大和川付け替え起点の碑 ここから元の大和川は河内平野を北北西の方へ流れていた。今のように堺方面へ付け替えた。時は元禄から宝永に改元された頃である。そして、わずか8カ月で竣工したという。

 大和川も淀川と同じく付け替えられた。もともと、河内平野は縄文時代は海で、そこに土砂が堆積して平野ができたのであるが、江戸時代は洪水に悩まされていた。そこで今のように柏原あたりからまっすぐに大阪湾へ流れるように付け替えられた。そのことが説明板に詳しく書かれている。

 さて大和橋停留所であるが、下の写真で道路を跨いで南側にあるコンクリートの法面辺りということである。車が走っている道は東高野街道である。

 

遠くに二上山を望む。向うにある歩道専用橋は新大和橋。この橋の少し上流が大和川と石川の合流点。このあたりに万葉集に出てくる河内大橋があったと言われているが定かでない。

 再び、柏原南口へ。柏原南口で数人のお客さんが降りる。時々道明寺線に乗っていると、数人の乗降客がいる。0人の時はあまり見かけない。この時も近くの小学生が校外学習なのだろうか、多くの子どもたちがホームにいた。しかし柏原行には乗らなかった。折り返しの道明寺行に乗るようだ。

ふたりの乗客が階段を下りてくる。電車は柏原に向かって築堤を下りて行った。

 柏原南口駅から柏原駅の間にも立派なレンガ積み橋台が2か所ある。

120年以上たったとは思えないぐらい、美しいレンガ積みの橋台である。

 さて映画「河内風土記おいろけ説法」のぼんやりと思い浮かんでくるシーンはというと

シネマスコープであるので、こんな感じだと思うのだが・・・どなたかご存じではなかろうか。

ぼんやりとしか覚えていない映画に写っていた鉄道」への9件のフィードバック

  1. 存じません!が、小生幼少の砌、この柏原南口駅下の大和川で水浴びをした記憶があります。といっても、うすボンヤリとした記憶にしか過ぎませんが、駅や鉄橋の風景に懐かしさを感じました。当時母方の実家が柏原駅近くに在ったため、おそらくお盆に里帰りをしていた時に連れていってもらったようです。柏原から電車に乗り、わずか1㎞もない南口で降りたのでしょう。ついでながらもう少し南の富田林近くに玉手山遊園があって、何度か遊びに連れてもらった記憶もありますが、のちの帰省時に乗った関西線のD51の牽く客レやキハ17のローカルほどに記憶が鮮明ではないので、多分4~5歳頃のことではなかったかと思われます。

  2. 調べたら、この映画は昭和36年作品で、森繁久弥、山茶花究などが出た今東光『河内風土記』の映画化作品だそうです。続編もあったそうでそれなりに人気があったと思われますが時代とはいえ差別用語が多く、いま再上映や再放送はできないようで、DVD化もされていません。因みにこの本は私も新聞の書評を見て購入しました。

  3. その映画のことは存じ上げませんでしたが、同じ今東光原作「悪名」の大映映画でも近鉄の旧型車両(大阪線?)が映っていましたが、形式は忘れてしまいました。主演は勝新と田宮二郎でしたね。添付は6411の頃の柏原南口(1981年)です。

  4. その映画のことは存じ上げませんでした。同じ今東光原作「悪名」の大映映画でも近鉄の旧型車両(大阪線?)が映っていましたが、形式は忘れてしまいました。主演は勝新と田宮二郎でしたね。添付は6411の頃の柏原南口(1981年)です。

  5. この本、購入しました。映画評論家の川本さんがよくこれだけ、日本映画の鉄道シーンを集めたなあ!と驚きました。
    私にとっての日本映画の鉄道シーンは山田洋次監督の「家族」です。山陽本線の急行、新幹線、東北本線の夜行、青函連絡船など盛り沢山です。

  6.  1900生さんは大和川鉄橋の下あたりで水浴びをされたとは!1900生さんのイメージでは京、枚方という感じですが河内も関係あるのですね。まあ、枚方も北河内ですが。ところで玉手山遊園地へはよく行きました。道明寺(コメントには富田林近くと書かれていますが道明寺と勘違いされているのではありませんか。)から玉手橋という吊り橋(これは最初の吊り橋として登録有形文化財)を渡って遊園地に行きました。遊具といっても入口近くにあるだけで、長い滑り台を滑るのが楽しみでした。この遊園地は調べてみると1908年(明治41年)に河南鉄道が開園したそうです。
     ところで米手さんこの映画は2011年7月に東京で旧作邦画を上映する映画館で「宝塚映画製作所黄金の日々」と題した映画祭で上映されたようです。
     ブギブギさん、「悪名」に近鉄電車が写っていたのですか。これは見ないといけませんね。「悪名」の撮影は世界的にも有名な宮川一夫さんです。どんなカメラワークか興味があります。
     デカンショまつり号さん、この本を読んでいると沼尻鉄道がでてくる映画があるようで、これはぜひ見たいと思っているのですが・・・ところで「東京物語」も冒頭で尾道の山陽本線を走る蒸機牽引の貨物列車が写ったり、夜行列車の乗車を待っているところや吹田の操車場が写ったりしてなかなか楽しめます。小津監督は鉄道好きだったのではないかとつい思ってしまいます。

    • どですかでんさまも玉手山遊園へ行かれておりましたか。
      遊園の場所ですが、なにぶん幼少の砌だったため、遠くに感じたのかもしれないことと、父方の親戚が富田林にあったことから、母の実家へ帰省した際によく「富田林」の名を聞いていたので、混同した可能性は十分ありますね。
      余談ながら河南鉄道の名が出てきたので思いだしましたが、母の話では二番目の姉が大軌に買収される前に専務をしていた男性に嫁いだとかで、妹たち(母など)が遊びに行くと、ご馳走を振舞われたりそれはもう下へも置かぬもてなしを受けたそうです。今なら考えられないことですが、小なりとはいえ、地元の鉄道会社役員は当時は羽振りが良かったのでしょう。さらに余談かつ私事ですが、後年小生の弟が近鉄に就職ましたが、その時にはレールで繋がった不思議な因縁を感じたものでした。

      • 1900生さんのコメントを読んでビックリしました。お母さまのお姉さんが河南鉄道の専務さんをされていた方に嫁がれていたとは。河南鉄道の蒸気動車の写真が発見されたという記事を切り抜いていたことを思い出し、探したところありました。写真も載っています。この写真は湯口先輩の「日本の蒸気動車(下)」に載っている河南鉄道ろは2と同じです。記事によると藤井寺市舟橋在住の松永薫さん宅から見つかったとあります。松永薫さんは富田林、羽曳野で小・中学校の校長をされていて、また松永白洲として書道家としても活躍されたということです。現在、松永白洲さんの長男の方が記念館を開設されています。この松永白洲さんの祖父松永長三郎さんが初代の河南鉄道支配人をされていました。ところで新聞記事には「松永さんの祖父、長二郎さんが河南鉄道の専務をしていた関係でこの写真が保存されていたらしい。」とあります。記事の長二郎さんは間違いで長三郎さんではないかと思います。1900生さんのお母さまのお姉さんが嫁がれた先はこの松永長三郎さんなのでしょうか。または河南鉄道二代目以降の専務さんのところに嫁がれたのでしょうか。とにかく、1900生さんは近鉄道明寺線と数珠つなぎとなっているようですね。とにかく、ややこしいので頭の中を整理して一度「松永白洲記念館」を訪ねたいと思っています。保管されている鉄道史料に詳しい方がおられるようです。写真は新聞記事ですが、毎日新聞だとわかるのですが日付がわかりません。しかし「万国博帰りにどうぞ」という見出しがあることから1970年の記事であることがわかります。

  7. この本の77~78ページに日本硫黄沼尻鉄道の記載があります。
    1955年の久松静児監督の「続 警察日記」と1966年の若杉光夫監督の「太陽が大好き」という映画だそうです。「太陽が大好き」の主演は、新人の太田雅子(のちの梶芽衣子)と恋人役が浜田光夫だそうです。
    「河内風土記おいろけ説法」と「悪名」は取り上げられていませんでした。

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