やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑲

人吉機関区 (1)

《区名板》シリーズの象徴のような機関区です。「人」の文字から、「蒸機は、もっとも人間に近い機械」の常套句を思い出し、何とも暗示的です。しかも実際に区名板を見ると、通常は鉄板にペンキ書きに対して、人吉区のものは、大部分が砲金製の特注で、しかも、書体は、隅丸ゴシックの国鉄書体ではなく、楷書体であり、その品格が、より強く感じられます。この砲金製は、鹿児島工場へ入場の際に取付けられたもので、近隣の鹿児島、吉松、宮崎でも見られますが、「人」だけに、そのインパクトは他区の比ではありません。金文字の「人」を付けた蒸機の顔ぶれも、肥薩線という特徴ある線形に適した、手入れの行き届いた、独自の蒸機ばかりでした。

人吉駅で発車を待つ589レ 牽くのは「人」のD51 545 人吉のD51は、重装備の蒸機の代表でもあった。昭和45年9月 

D51

スイッチバック、ループ線のある山岳線区、人吉~吉松の矢岳越えの専用機関車として、集煙装置、重油タンクが付いた重装備のD51だった。ほかにも八代~人吉の川線区間で貨物も牽いていた。  ▲磨き込まれた、ナンバープレートと同じ砲金製の区名板

人吉機関区で整備を受けるD51 170 煉瓦造りの給水塔、木造の矩形庫は、いまも残っている。 昭和45年9月矢岳越えを終えて吉松に到着の843レ D51 170+オハフ61+貨車 同機は昭和26年から人吉に配置されていた。昭和47年の矢岳越えの蒸機さよなら列車も牽いた。昭和45年9月

高校生の時、このD51 170の牽く混合873レに乗って、雨の降る人吉~吉松の山線を初めて通った。雄大な風景を見て、大いに感激したものだった。昭和42年3月スイッチバックして、大畑駅に入線したD51 545の牽く589レ 客車はW屋根のスハフ3244 同機は昭和26年に人吉に来た。昭和47年には集煙装置を取り外し直方区へ転属した。昭和45年9月

雨の日のタブレット授受、砲金製、楷書体の区名板が、雨に濡れて輝く

 

 

 

 

 

人吉区のD51は、川線区間の八代~人吉でも貨物を牽き、球磨川を何度も渡って行った。D51 572 鎌瀬~瀬戸石 昭和45年9月夜行鈍行1121レを牽いて吉松に到着 牽引のD51 572は、昭和25年から人吉区に配置され、昭和47年に休廃車となった。昭和45年9月球磨川に沿う大坂間~一勝地を行く4589レ 牽くD51 587は、長野から昭和45年に転属した経歴があり、集煙装置は、形態の異なる長野工場式を取り付けている。昭和45年9月吉松を発車、いきなりの上り勾配に掛かる842レ D51 687が本務機を務める。左は吉都線、同機は昭和47年の矢岳越えの蒸機さよなら列車を、D51170とともに牽いた。昭和44年3月上掲の842レの後補機を務めるD51 890 客車は1両でも、貨車がこれだけ連結されているから、ローカル線でも貨物の旺盛な需要があったことが分かる。昭和44年3月人吉区のD51は、鹿児島工場で取り付けられた敦賀式集煙装置の改良型を装備している。ボイラー上には重油タンクを載せ、ランボード上にも、補助重油タンクを載せている。D51 890 吉松 昭和44年3月球磨川沿いの瀬戸石駅を通過するD51 1151の牽く貨物。同機は、新製直後の昭和20年から人吉で活躍し、人吉の主のような蒸機だった。昭和46年12月吉松機関区でD51 1151の形式写真 人吉区のD51は昭和45年には10両が配置されていたが、その重装備ゆえか、転属、転入が少なかったのが特徴であり、この機のように30年近く在籍して、一生を終えた蒸機もいた。昭和42年3月

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑲」への3件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    人吉で真っ先に思い浮かぶのは、山岳重装備に身を固めたD51が矢岳越えに挑む姿です。鉄道誌の素晴らしい作品を見ては、現地を訪問する日を夢見ていましたが、中学生の私にとってあまりにも遠いところでした。
    八代―人吉の川線にD51が走っていたとは、これまで全く知りませんでした。この区間はC57の印象が強く、D51の画像を見たことがありません。昭和45年10月改正のダイヤでは2往復が運転されていましたが、4589列車だけが撮影可能時間帯に走っていたのですね。
    戦時形のD51 1151は、かまぼこ型ドームの前部が独特の形状をしており、集煙装置後方の整流版?と共に興味を引きます。

    • 紫の1863様
      続けてのコメント、ありがとうございます。蒸機時代の矢岳越えは、ホント素晴らしいものでした。今回は、駅、機関区に限定したものにしましたが、いつか、本欄でも矢岳越えの思い出を載せたいと思っています。
      川線区間の貨物は、私もダイヤを見返しますと、昼間は4589レのみD51牽引でした。当時の肥薩線は、単線区間もあって増発の難しかった鹿児島本線のバイパス的な役目もあって、とくに貨物はかなりの量がありました。早朝、夜間にも、相当数の貨物があり、D51もさらに活躍していたと思います。昨日、肥薩線川線区間がたいへんなことになりました。貨物はとうに無くなり、旅客も観光客しか乗らず、地元客はほぼゼロに近い川線の現実を見ると、これから川線はどうなるのか、不謹慎ながらも思ってしまいます。

  2. ネット情報によると、戸畑駅に砲金製の区名板が展示されています。写真は、そこからの転載ですが、書体や色にもいろいろな差があることが分かります。

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