なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈7〉

“抜海現地闘争”を総括する

北海道シリーズも、西村さんから私鉄の紹介をしていただき、さらに幅の広い「昭和の北海道」となりました。また「ていね」が脱線してマシ35に突っ込んだ結果、コメントの嵐で、“デジ青”ならでのコミュニケーションとなりました。私も先を急ぎます。「区名板で見る北海道の蒸機」(26)~(28)でも述べましたが、抜海での現地闘争の様子を偲ぶカラーも出て来ました。記述や写真内容に重複する箇所もありますが、再掲載します。宗谷本線南稚内~抜海は、駅間距離が12キロ近くあって、ちょうど中間付近に日本海沿いを走る区間がある。もちろん歩くよりほかに手段はなく、この最北の地が“抜海現地闘争”の結集地に選ばれた(以下、昭和44年9月)。

 

日本海側を見ると、利尻・礼文島を真正面に望むことができる。手前の広場に「利尻富士」の標柱も建つ絶好の場所、ここが最終の結集地となり、DRFCメンバー10人がバンザイ三唱して、勝利を祝したのは、北海道で一番の思い出だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時は昭和44年9月、本学でも春から闘争の嵐が吹き荒れて、キャンパスは全学封鎖が続いていました。前期試験も一切なく、自動的に延長された夏休みを利用し、当会では北海道各地で“現地闘争”を行い、圧倒的勝利を得ようと決議、その舞台となったのが常紋、抜海でした。食糧の入手もできない人跡未踏の地、闘争の場として格好の地です。

まず常紋で行うことになり、往きの夜行「大雪」車内の記念写真で見ると、13人が参加していました。食糧も底をつき、夜行連続による睡眠不足、さらに小雨のなか、亡霊伝説のあるトンネルをくぐると言う、心身ともに苛酷な環境を闘い抜いたのです。その数日後、再び札幌駅に集結したメンバーは10人に減っていました。早くも3人が脱落、うち一人は、商標名「ワラクロ屋」さんだったと、50年ぶりに自己批判されていました。夜行「利尻」に乗って、南稚内に到着、重いキスリングを担いで、線路端を黙々と歩いて、最終地へ向かいます。ここでも空腹、睡魔が襲い、夢遊病者のように歩くという、“死の彷徨”が待っていたのです。一見どこでも撮影できそうだが、一帯は背丈以上の熊笹に覆われていて撮影適地が見つからない。ただ注意深く見ると、細い獣道があって、丘の上に到達することもできた。稚内の市街地が遠望できて、南稚内を発車した列車がとらえられる。

反対方向、稚内方面行きの貨物列車を9600が牽く。貨車の後半分が冷蔵車であることから、稚内が北方漁業の拠点として賑わっていたことが分かる。DCの普通列車は、さすがに寒冷地だけに、キハ22オンリーの編成。

もっとも戦闘的な4人だけが保線小屋に泊まり込み、翌日の朝に写した「利尻2号」の経緯については、前記(28)に記したとおりで、私一人が造反してしまった悔いはいまも残るが、朝のギラリが残せたのもカラーならでは。それから2年半後の昭和47年3月に再び訪れた時は、一人だけだった。この頃には、世間の紛争も終末期を迎えていて、10人で勝利した現地闘争を懐かしく思い出しながら歩いたのだった。

 

 なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈7〉」への8件のフィードバック

  1. 昭和44年9月7日、札幌から「利尻」に乗った時、車内で5名くらいだったと思いますが、DRFCメンバーに会い、皆さん抜海に行くと言われていました。
    私一人、幌延で降りて、上り列車で問寒別に向かいました。
    旭川からの牽引機は、C5516でした。

    • 藤本様
      コメント、ありがとうございます。「利尻」に乗った時は、藤本さんもおられたのですね、失礼しました。同時期にDRFCから10数人が渡道していたことは、それだけ魅力的な鉄道・列車があった証左だと思います。さて、問寒別、交換可能駅で、私もこの駅で窓から交換列車を写したものです。たしか駅前から簡易軌道が出ていましたね。いまは交換設備も撤去され、棒線駅になっているようです。

  2. 総本家青信号特派員様
    この頃の貨物列車は、良いですね~
    稚内行きの列車も、冷蔵車を沢山繋いでいますね。
    恐らく、空車回送で荷受けに向かっているのでと思います。
    稚内からの貨物列車は、本数は少ないモノの、急送品指定列車や、急送品継送図に組み込まれていますものね。
    気になって、昭和43/10の貨物時刻表を見たら。。。

    稚内11:00発396レ
    音威子府行きですが、札幌市場まで継送指定列車が規定されています。札幌市場は明朝4:50に着きます

    稚内15:00発1354レ
    直通の急送品用列車で、翌17:00に五稜郭終着

    案外早いのですね!
    これに、魚やホタテを満載して、運んでいたのでしょうね。
    この列車の写真は無いかな???

    • 廣瀬さま
      撮ってますよ。たくさん撮ってます。実は先の「区名板」の時に紹介しよう思ってスキャンもしていましたが、あまりにしつこいのも嫌がられるかと思って、自重していました。廣瀬さんの言葉で勇気百倍、載せるようにします。今から写真展の最終日の受付に行きますので、しばらくお待ちください。

  3. 利尻富士が望める地点は遠かったですね。タクシーには無縁の貧乏学生にとって、歩くよりほかに手段がありませんでした。南稚内から抜海を目指して歩いたのですが、リュックの重さと空腹に耐えかね、総本家様が撮影された丘の上からC55が牽く324列車を撮ると、元来た道を引き返しました。航空写真を見ると市街地を抜けた最初のカーブのようですが、地図も持たず、当てずっぽうで歩くには遠く感じられました。
    食料を調達し、再度抜海側から挑んだのですが、キロポスト249まで歩いたところで精魂尽きました。もう少し先まで歩いていたら、利尻富士が望める地点に到達できたのですが、当時は自分がどこにいるのか分かりませんでした。
    稚内には多くの冷蔵車が留置されていて、異様なニオイに包まれてました。いまでも稚内と聞くと、アノ時のニオイを思い出します。
    廣瀬様のコメントに反応し、上りの貨物を探したのですが、冷蔵車の姿はありませんでした。もっとも私は昭和49年に渡道してますので、事情は違っていたかもしれません。稚内10時58分発の1396列車は4両の有蓋車とヨ・ワフ各一両で、稚内発14時54分発の376列車は下沼ですれ違ったはずですが、撮影しておりません。
    多分、総本家様が撮影された下り貨物と同じ列車だと思うのですが、稚内着12時32分の1391列車の編成は9600の次位にヨ4611、配給車代用のワ12000、その後にはワム23000・ワム60000・ワラ1などの有蓋車が7両、さらに10両ほどの冷蔵車が続いていました。この冷蔵車は空車返送だったのですね。

    • 紫の1863さま
      抜海の思い出、ありがとうございます。改めて地図を見ると、利尻富士が見える地点は、抜海からのほうが少し近いようですが、食糧調達もあって、私はいつも南稚内から歩きました。海岸沿いの道道を沿岸バスも走っていたと思いますが、本数も少なく、歩くよりほかはありませんでした。保線小屋に泊まった日は、夕食などで、南稚内~利尻富士展望台を2往復以上したと思います。貨物列車の編成まで記憶されていて感心しました。あとで、貨物だけ載せるようにします。

  4. 札幌で逃亡した脱落者の一人であるこんな私が言うのも変なのですが、モノクロからカラーに変わると、熊笹に覆われた原野の風景がより鮮明になりますね。
    10名のDRFCメンバーが万歳三唱した、利尻富士の標柱が立つこの聖地と言うべき場所には、一度ぐらい行きたかったのですが・・・
    グーグルの航空写真を見ると、並行する道道106号から熊笹の細い道をヒグマに注意しながら数百メートルたどれば、何とか近づけそうです。
    来年の秋に道北に行く予定なので、出来ればチャレンジしてみようと思います。

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