やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ㉖

旭川区 C55  ①

やっと最終テーマの旭川区のC55に着きました。わらくろ屋さんから、“ぜひやってくれ”とリクエストがあってから数ヵ月が経ちました。やはり、C55そのものの魅力、走っている宗谷本線の魅力も加わって、私も渡道のたびに行きました。なかでも、“抜海現地闘争”と称して、DRFCメンバー約10人で南稚内~抜海の中間地点まで行き、「利尻富士」の標柱の立つ海沿いの絶景地でバンザイ三唱したのは、DRFC時代の最大の思い出となりました。計4回の渡道で旭川区C55を撮っていますのでソコソコの点数があり、機号別に紹介します。

宗谷本線のC55と言えば、真っ先に浮かぶのが夜行急行「利尻」の牽引だ。下り稚内行きで迎える朝の車窓も格別だが、上り札幌行きが漆黒の宗谷本線を走り続けるのも、蒸機の良さをしみじみ感じさせてくれる。停車駅では、ほとんど列車交換があるため、たっぷり停車時間があって、夜間撮影にぴったりだ。眠い眼をこすりながら、三脚を抱えて夜のホームを右往左往したものだ。幌延 C55 43(昭和44年9月)

昭和初期の時代、亜幹線の旅客機が不足し、C51の後継機として新形式のC54が製造されますが、空転の多発などの欠陥があり、17両で打ち切られました。そのあとに設計されたのがC55で、昭和10年から製造され、以下のように三次形までの62両が製造されました。C55 63以降もボックス動輪にするなど一部を変更して増備の計画でしたが、別形式にすることになり、C57が生まれることになります。

1935年(一次形): 1~ 19  19両

1936年(二次形): 20~40  21両  流線形

1937年(三次形): 41~62  22両

C55 1

第一号機のC551は新製以来、ずっと北海道で働いてきた。私にとっては室蘭区の時代が印象深く、本欄でも「室蘭区C55」で何点か紹介した。旭川区に転属したのは、昭和43年10月改正のときで、宗谷本線で撮ったのは、「抜海現地闘争」で撮った、稚内発小樽行き322レを牽く、この一枚だけだった。昭和46年に国鉄百年の映画撮影で梅小路に貸し出され、そのまま居ついて、梅小路蒸気機関車館の保存機となった。南稚内~抜海 (昭和44年9月)

C55 16

深川にて、小樽発名寄行き331レを牽くC55 16  この時点で函館本線の電化は滝川まで。以北の旭川までは電化工事が終わり、翌月の昭和44年10月改正で電化が完成する。331レはここでD51が前に付き、重連になった。(昭和44年9月)下り「利尻2号」にDRFCメンバーともに乗り込み、南稚内に到着した。1両目に乗っていたらホームが無い。本来なら収まるはずだが、夏季のため増結していたのだった。われわれは、リュックを担いだまま、つぎつぎ線路に飛び降ると、後方監視をして発車を待つC55 16の機関士の姿があった。南稚内 (昭和44年9月、以下同じ)

そのあと、われわれは改札も回らず、勝手に構外へ行って「利尻2号」の発車をとらえた。集団になると、つい無軌条ぶりを発揮してしまう。勝手な思い込みかもしれないが、国鉄にも“内地から、わざわざ来てくれた学生さん”という気持ちがあった時代だった。

日曹炭坑専用線が出ている豊富で、夕方の仁木発稚内行き321レをとらえる。サロベツ原野がずっと広がる、駅近くの牧草地で馬が一頭、草を食んでいた。C55 16

C55 43

その「抜海現地闘争」、夜は選び抜かれた精鋭4人が、沿線の保線小屋に泊まり込むと言う過激な行動に及んだ。内部は枕木が積んであって多少固いが、完全水平のベッドとなり、寝袋でぐっすり寝ることができた。夜明けとともに快く目覚めて、6時20分頃通過の「利尻2号」を狙うために飛び出す。空は快晴、利尻もよく見える。ところが歩けど歩けど、熊笹に邪魔されて撮影地が見つからない。あとの三人、Tさん、Sさん、I君はどんどん先に歩いて行く。自分として、その先に良い撮影地があるか確信が持てず、少し前の場所で妥協しようと、一人だけ翻って元に戻り始めた。ところが、持っていたダイヤが一時間目ダイヤで正確な時刻が分からず、予想外に早く「利尻2号」が通過、なんとも中途半端な場所で撮影となった。あとで三人に写真を見せてもらうと、実にきれいなカーブで「利尻」が完璧にとらえられている。なぜ、あの時に三人に反旗を掲げて、自分勝手なことをしたのか、今でも悔やんでいる。

トップの上り「利尻2号」が21時50分に幌延に到着、10分停車を利用して夜間撮影、絞り8,60秒とノートに書いてあった。C55 43停車時間を使って、乗務員は各部の点検に余念が無い。懐中電灯の光跡を40秒露出でとらえた。音威子府

 

 やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ㉖」への14件のフィードバック

  1. C55という流麗なパシフィックを、私の年代では撮ることが困難に近かったので、最近の友人で鉄道の好きな方のよく行かれる抜海で撮られているのは、羨ましく思います。
    仮に私がもう少し早く生まれていても、昭和40年代において豊岡と、九州の筑豊と南九州、あとは北海道の旭川以北に限られたと思います。
    また、動態保存機があれば、C55の美しい活躍シーンがもっと見られるのにと、以前から感じています。写真は行橋区の据え置きボイラが引き出されて、廃車解体に小倉工に向かう所です。

    • コメント、ありがとうございます。KHさんより早く生まれた私ですが、近くの豊岡、和田山はC57に代わっていました。C55を撮ろうと思えば、北海道か九州になり、なかなか容易に行けないところも、C55への憧れを増幅させていたと思います。たしかにC55の動態保存はゼロですね。梅小路に来たC551は、最初から静態保存でした。やはり、あのスポーク動輪が回転するのは魅力的で、動くところが見たかった思いがあります。

  2. 総本家さん、とうとう北の果て抜海までやって来ましたね。ありがとうございます。
    その抜海現地闘争ですが、当時4回生の私がなぜ参加しなかったのか思い出せないのですが、今でも残念に思っていて悔やまれます。
    宗谷本線と言えばC55の夜行急行利尻になりますね。懐かしい写真をありがとうございました。抜海駅はJR北海道の今年のリストラから、かろうじて外れましたが廃止が近づいていることに変わりはありません。
    コロナが落ち着いたら、来年の秋頃には抜海駅など宗谷本線の気になる駅巡りを中心に、天北線や深名線などの廃線跡を見に1週間ほど行ってみたいと思っています。

    • ワラクロ屋さま
      いつも見ていただいて、ありがとうございます。やっと約束を果たせてホッとしています。抜海現地闘争その前に、常紋でも現地闘争を決行しました。札幌から乗車した「石北」で撮った写真には、ワラクロ屋さんはじめ計11人が写っていました。そのあと抜海へ向かい、「利尻富士」の標柱の前の記念写真は8人になっていました。と言うことは、3人が脱落(?)、当時の用語では日和ったということでしょうか。

      • 総本家さん、そうなんです。札幌から石北に乗車して、常紋現地闘争に参加したのは確かに覚えているんですが、そこから日和ってなぜ逃亡したのか解りません。抜海に行かなかった私を含めた3人は、当時の言葉で言えば厳しく総括されないといけませんね。

        • 登録商標「わらくろや」さま
          いえいえ、私は逃亡された3人は、われわれの闘争では物足りず、さらに過激な闘争へと走っていかれたと理解しています。決して総括はしませんので、ありのままをお話ください。

  3. この話題になんとしても食らい付きたいのですが、C55がありません。そこで苦肉の策でファウルチップぐらいのカスッタものをご覧に入れるので“参加”を認めてください。
    急行「利尻」に連結されていたマロネロ38です。札幌で撮りました。

    • 米手さま
      写真、ありがとうございます。私が写した「利尻」は、もうオロハネ10でした。C55はもっと後年まで残りましたが、米手さんのマロネロのほうが、ずっと貴重です。謙遜なさらずに堂々と参加してください。でも、人口数万人の稚内へ向かう夜行にも、マロネロがあった時代、それだけ需要があったのですね。

    • マロネロ38の現役時代、やはり感動いたします。
      私たちの卒業後に先輩諸氏の稀少客車の写真に反応した後輩が、写真をカメラで複写して、客車のアルバム集を作ったことがあります。私は先輩らを訪ねてネガから起こした方が良いと、口を挟んだだけですが、今の時代に、ネガをスキャンしてデジタル化と補正をかけて、こういった消えて行った稀少な客車の写真アーカイブを作れないものかと、特に近年思います。

    • 米手さん、私が見たこともないマロネロ38の貴重なレア物の写真、これはファールチップではなく見事なビッグフライでしょう。
      急行利尻はその後C55からDD51に、やがて客車も14系に変わり、その次はキハ40系改造のキハ400+キハ480とスハネフ14の併結という変なことになって行きますが、やっぱりマロネロ38の時代は良かったんでしょうね。

  4. ワラクロ屋様
    ご無沙汰しております。是非道北の廃線跡探訪記をデジ青に連載してください。待ってます。もう8年も前になってしまいましたが、抜海駅の様子を添付しておきます。

    • 西村さんお久しぶりです。
      サロベツ原野に佇む木造駅舎の抜海駅いいですね。
      来年秋に予定している道北の旅のリポート、是非お届けできるように頑張ってみます。

  5. 青信号特派員さん、K.H.生さん、そして「わらくろや」(正式な登録商標はカタカナではなくひらがなです)社長さん
    過分なお褒めにあずかりまして汗顔の至りです。
    当時、大阪特派員先輩の感化を受けまして以前にも増して旧客に没頭している時期でした。「ゆのくにのスハ43を守る会」会長M田憲三さんと渡道して、真っ先に駆けつけたのが札サツにいたマロネロ38の撮影でした。あいにく光線が悪く気に入らない写真ですが、私にとって最初で最後のマロネロです。こんな機会でもなければ、もう、日の目を見なかったかも知れないマロネロ、ご覧いただけて幸せでしょう。

    • 米手さま
      進駐軍由来の優等合造車は、ほかにもマイネロフ37や京都鉄博展示のマイロネフ38もありましたが、「ロネ+ロ」は、この形式だけでしたね。妻面も見せた形式写真は貴重ですし、当時、狩勝やC62目当ての渡道は多かったものの、マロネロ目当ては、極めて少数だったと思います。

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