昭和の電車 改訂版(208)ー京阪電鉄京津線80型ー

前回の投稿時には1900生さんが「ここだけのナイショ話」を書いてくださっています。

また、湯口先輩の投稿もありましたのでリンクを致します。
京津線80型

昭和の電車 改訂版(208)ー京阪電鉄京津線80型ー」への8件のフィードバック

  1. 京津線80型にはお世話になりました。昭和30年から40年代にかけて京都に行くときは最寄りの上関寺から乗車、三条で乗り換え四条に行くのがいつものコースでした。上関寺は急行が停まらなかったので乗るのは各停で、最初は50型、70型も混じっていて、スマートな80型が来るとやった!と思ったものです。当時はまだポールで、旧型車は乗車中にポールが外れたことを経験しましたが、さすが80型ではずれたのは記憶がありません。昭和40年代半ばになると、上関寺駅も廃止、80型の各停が早朝以外は四宮止まりとなり昼間浜大津で見られることがなくなってしまいました。その後転居に伴い京津線を利用することそのものがなくなってしまいました。平成9年の東西線開通80型廃車の折には三条から山科まで沿線を歩いて撮影したのが最後の思い出です。まだまだ使えたであろう80型の引き取り手がなかったのは残念でした。

    • 三条から山科まで、峠を越えてよく歩かれましたね。80型への送別の気持ちが解ります。私はN電が廃止される直前、天神さんの前から京都駅まで歩きました。これは他にも歩かれた方も少なからずあるでしょう。

      • 大阪通信員様
        N電の廃止の折にやはり歩かれましたか。三条から山科はそんなに遠くなくて1時間程で歩けます。沿線歩きながら撮ると、思いがけないところで発見がありますね。

  2. 私の在校時と京都に居たのは1979ー88年の8年半、最初は蹴上から歩いて帰れる永観堂に下宿していたので、大阪や遠くに旅行の際は、いつも京津線でスタートでした。
    また、春の新歓コンパで慣れない酒に潰れた新入会員のうち、帰宅出来なくなった子を預って、蹴上まで乗せて家まで夜中の南禅寺境内を歩かせながら、泊めてやったものです。
    三条零時丁度発の終電の80系は何度利用したことでしょう。懐かしい想い出です。

  3. 京津線の最終日は当時河原町と烏丸の間で勤務していたので昼休憩時にちょっとと終業後に撮影しました。当時は車が多く撮影しづらかったと記憶しています。満足のいく撮影ができず結局終電が三条を出るまで撮影して帰ったように思います。あれからもすでに20年以上が経過したのですね。歳をとる訳ですね。

  4. 今日9月8日の朝日新聞デジタルで82号が、高島市で保存されていると取り上げられていました。写真は1982年の三条です。

    • 私もこの記事見ました。2011年の錦織車庫での京阪感謝祭の折には中に入ることもでき、きれいな状態で保存されていたのですが、10年たつと劣化が進むのですね。個人の力ではなかなか難しいようですが、何とかならないものでしょうか。

  5. 私も朝日新聞デジタルで見ました。写真で見ましたが、レールの上に乗っかって、塗装の一部は剥がれていますがまだ状態はひどくない少しは安心しました。しかし管理する人がいないようです。写真は急勾配を三条に向かって下っていくパンタ化された80形単行です。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください