追悼・乙訓の老人 ここはどこ?わたしはだれ?

早いもので、乙訓の長老様が還らぬ旅に立たれてひと月になります。
パソコンの前に座ってもキーボードに指が届かない日が続きました。
目の前には長老様から預かった写真の山があります。奥様から「放っておくと捨ててしまうので全て任せるので持って帰って欲しい」と言われた写真です。そのうち長老様と思い出話をしながらゆっくりと整理すればいいや、と思今となっては今となっては悔やまれてしかたがありません。
会員の皆様も同じと見えて新規投稿も少なければコメントもしめりがちです。

こんなことでは「デジ青」ファンの皆様に申し訳なく、長老様が楽しみにしていた「デジ青」にも申し訳が立ちません。そこで気持ちを切り替えて写真整理に取りかかりました。長老様に聞いても「しらん、撮ったおぼえもないわ」と言われた写真から掲載しますので、例によってデジ青探偵団の皆様に「車両の特定」「撮影場所」「撮影時期」を教えて頂きたいのです。

おおいにツッコミ頂いて盛り上げてもらい、以前の賑やかさを取り戻して天国の長老様に笑ってもらえたらうれしいと思いますので宜しくお願い致します。

同志社号発車式で檄を飛ばす長老様

⇩①どこかの保存車両です。
《個人保存の野上電鉄モハ27 元阪神の小型車時代に作られた700型》

⇩②長老様は吉川文夫様と親交があり、多くの写真を保管されています。これから三枚は吉川さんの撮られたものです。
《小田急1900形 クハ1953 右奥に見えているのが江ノ島線上りで小田原本線を跨いでいる所》

 

⇩③これも吉川文夫氏の撮影とのみ書かれています。
《弘南鉄道の木造客車改造クハニ1263・1264の2両が在籍》

⇩④B6でしょうか、関東地方の鉄道の様な気がします。以上三点が吉川文夫氏の作品でした。
《B6でなく1-B-1のA8系で西武の4号機。省形式400。またはダブスの3号機。上武鉄道。1962年2月18日》

⇩⑤路面電車が町中の暗渠の上を渡るところです。
《長崎電軌 正覚寺下停留場→2018年に崇福寺停留場と改称。》

⇩⑥保存車両です。
《下津井電鉄クハ5 気動車カハ5を電化時にクハにしたもの》

⇩⑦これも保存車両ですがタンク機関車です。
《若鷹号 鷹取工場の実習機(阿波鉄道7号、コッペルが原型)》

⇩⑧写真からのスキャン画像ですから画質の悪さはお許しください。《昇圧前の近鉄奈良線系モ400型の4連》

⇩⑨単線の向こうにも後続の車両が見えます。
《福島交通軌道線モハ1119》

長老様の写真は、無作為に箱に詰めたものですから整理がしづらいのです。
また、同じ写真が大きさを変えたりカットをしたりで何枚も重複したものもあります。従って以前に掲載した写真が出ることもあるかと思いますが、そこは長老様に免じて大目に見て下さい。今日はここまで。

 

追悼・乙訓の老人 ここはどこ?わたしはだれ?」への27件のフィードバック

  1. ⑧は昇圧前の近鉄奈良線系モ400型の4連ですね。車番は先頭から410+424+423+409または405でしょう。場所ですが、画面右下に別の線の架線柱(京阪の伏見地区によく見られる。)があることから、京都線の澱川橋梁の少し京都寄り、京阪宇治線をオーバークロスする辺り(従って右下の架線柱は京阪本線)かと思います。

  2. ① 個人保存の野上電鉄モハ27
    ② 小田急1900形 クハ1953
    ③ 弘南鉄道
    ④ 西武鉄道
    ⑤ 長崎電軌 正覚寺下停留場→2018年に崇福寺停留場と改称
    ⑥ 下津井電鉄クハ5 気動車カハ5を電化時にクハにしたもの
    ⑦ 若鷹号 鷹取工場の実習機(阿波鉄道7号、コッペルが原型)
    ⑧ 近鉄モ410
    ⑨ 福島交通軌道線 長岡田町あたりでしょうか?

  3. ②は小田急の相模大野工場なのか検車区なのか定かではありませんが、その北側あたりです。右奥に見えているのが江ノ島線上りで小田原本線を跨いでいる所で現在もこのイメージです。吉川さんは一度だけお会いしたことがありますが、吉川さんの友人が私が同志社出身だと紹介してくれたところ「あそこは京阪(ファンが多いということか)や」と言われおそらくピクに沖中さんが中心となり京阪のことを連載されたことが頭にあったのでしょうかその言葉が印象に残っています。吉川さんは当時から鉄道友の会の要職にあり、著書も多い方でしたが、丁寧で温厚な感じでした。

  4. 写真をクリックしても拡大されませんね?
    どうしてかな?
    それはさておき、まほろばの鉄趣味住人さん、ありがとうございます。
    乙訓の老人の甥さんの答えと同じですからこれが正解でしょう。
    その他の写真はもう少し答えが出そろってから判定したいと思います。

    • 米手さま
      クリックしても拡大されない件ですが、「メディアライブラリー」の右下「添付ファイルの表示設定」の「リンク先」が、「なし」になっていませんか。これを「メディアファイル」にしてやると、写真のクリック時に拡大表示されるはずです。

  5. ①の野上電鉄モハ27だけはすぐにわかりましたが、あとはお手上げでした。③は電車らしからぬスタイルで、ダブルルーフにトラス棒までついているではありませんか!この手の車輌は大好きです。拡大して番号を読むと『クハニ1264』のようですが、鉄道会社の見当もつきませんでした。長老の甥御様が早々と答えを投稿され、これは助かったと早速弘南鉄道を当たって見ました。ところが、弘南鉄道の資料が我が家に無く、ウィキペディアを見ても当該車両は出てきません。万事休すです。一縷の望みをかけて「私鉄車輌めぐり」を探してみますと、数行の解説と写真が載っていました。
    ③の正体は昭和2年の開業時に梅鉢工場で製造された、木製客車だったのです。昭和35年5月時点でクハニ1263・1264の2両が在籍し、弘南線で電動車とコンビを組んだMT編成で運用されていました。当初はホロハフ1・2を名乗り、ホハフ1・2、クハ1263・1264と改番を重ね、昭和33年7月よりクハニ1263・1264になったと同書にあります。手荷物の荷重は2トンで、座席はロングシートでした。車体は濃緑色だそうです。撮影場所は弘前駅、撮影の時期は昭和33年7月以降と思われます。
    私鉄に興味を持って日が浅く、弘南鉄道といえば阪和電鉄の車輌がいたことくらいしか浮かんできません。開業当時は蒸気機関車が客車を引いていたことなど、今回初めて知りました。その客車が紆余曲折の末に電車に改造されていたとは、地方の私鉄は奥が深いですね。楽しませていただきました。ありがとうございます。

  6. 1の野上モハ27は、元阪神の小型車時代に作られた700型の生き残りで、晩年に雨樋が無粋な太枠になったので、改造前の写真を貼ります。
    4の蒸気機関車は説明が少ないので、補足。B6でなく1-B-1のA8系で西武の4号機だと思います。省形式400。英国ナスミスウイルソン社製で製造初年は1886年という文字通りの古典機。西武に来たのは1914年頃で、前身のひとつ川越鉄道に入線し、大戦を挟んで1957年頃まで使われました。
    長命機の持つ強運で、その後西武化学系の上武鉄道に移り、さらに昭和40年頃まで文字通り奇跡の明治の陸蒸気として現役の活躍を続けました。引退後は時代が好転して、ユネスコ村で保存し、現在も西武鉄道が保管しています。写真に西武の貨車が写っていますが、57年までの撮影なら西武時代。西武化学の関係で、上武時代に西武所有の貨車を牽いてもおかしくないので、最晩年の可能性もあります。

  7. 2の小田急1900型は、戦後の規格型電車の一統で、小田急復旧の立役者のひとり。クハ1953はさらに焼け電の台枠を叩き直して作った再生車両ですので、背景に写り込んだ新築の公団風の4階建てRCアパートと共に、戦後昭和の風景として、非常に印象的な時代を切り取った良い写真だと思います。
    3の弘南鉄道の木造客車改造クハは、車両不足と燃料事情の悪い戦後間もない頃の弘南鉄道の電化で、開業当時の木造ボギー客車をTcに仕立て上げました。クハニ1263、4の2両が存在していました。これでもれっきとした昭和生まれです。運転台のみスチール化の偽スチール車以下の、はりぼてぶりが最高です!
    写真は1981年訪問時に写した買収国電流れのクハニ1272ですが、この辺の貧弱な台車は、木造クハニに使われていたようなTR10系の転用かもしれません。

  8. 既に多くの皆様がコメントされておられますが、私も自分の撮影した写真で長老を偲んでみたいと思います。
    1番上から、旧下佐々駅の近くで個人の方が保存されているモハ27です。
    3年前に見学の予定を立てていたのですが、コロナ禍で延期をしています。
    現役時代のモハ27の写真が見つからず、同形のモハ26です。元阪神の700形でモハ25~27の3両在籍していました。

  9. 2枚目は、弘南鉄道、弘前駅です。
    昭和50年4月29日、ほぼ同じ場所で撮影したクハ1612先頭の5両編成です。

  10. 上の写真は、2枚目でなく3枚目です。大変失礼しました。
    4枚目の西武4号機は、平成20年9月5日、横瀬検車区一般公開時に撮影しましたが、かなり荒廃していました。

  11. 順番が前後してしまいましたが、長崎電軌305です。長老が撮影された場所の近くで、平成31年3月30日に撮影しています。

  12. 8枚目の近鉄の4両編成は、まほろばの鉄趣味住人様が書かれている通りで、410+424+423+405です。
    昭和40年5月4日、同じ編成を西大寺~尼ヶ辻間で405側から撮影しています。

  13. 最後の福島交通モハ1119は、昭和43年9月4日に撮影しています。場所は、多分、長岡分岐点でったと思います。

  14. ④は昭和37年2月18日の撮影ですか? それなら上武鉄道ですね。廃車は昭和40年7月31日ですので、整合性が取れます。
    この機関車はいくつもの鉄道会社を渡り歩き、何度も改番されました。英国のダブス社で1891年に製造され、JR関西線の前身となる大阪鉄道に納入されて6を名乗ります。その後は関西鉄道57⇒鉄道省57⇒鉄道省220⇒多摩鉄道A1⇒西武鉄道A1⇒西武鉄道3⇒日本ニツケル鉄道8⇒上武鉄道8⇒上武鉄道3と遍歴を重ね、1965(昭和40)年に廃車になりました。廃車後は西武に戻され、昭和鉄道高等学校に保存されました。上武鉄道3号機だった時期は廃車前の数か月と言われておりますので、撮影時は8号機だったと考えられます。
    機関車に続く無蓋車は、K.H.生様がお書きの通り西武の車輌に酷似してますが、それもそのはずで元は西武の車輌でした。トム506-510の5両が上武鉄道(この頃は日本ニツケル鉄道でした)に譲渡され、2両目は『トム507』と読めます。
    上武鉄道8号機の画像がRMライブラリー第41巻28ページに掲載されております。添付の画像は同書から複写させていただきました。

  15. 準会員の不銹鋼號です。
    吉川さんが撮影された小田急のクハ1953号は昭和31年に1900形2両編成化用に川崎車両で新製されたもので、国電台枠利用ではありません。1900形3両編成時代の国電台枠利用初代サハ1953号は同年制御車化されクハ1956号になりました。昭和36年から37年に1900形4両編成化でこれらクハ1951~1960号は付随車化されサハ1951~1960号になっていますから、クハ1953号は5~6年くらいしか在籍していません。沿線ファンとして一言書かせていただきました。
    準特急さんがおっしゃるように、吉川文夫さんは私鉄の権威でしたが、とても温厚な方で、私も大変お世話になりました。世田谷線300形試運転の際に上町で撮影されていたのが印象に残っています。

    • 不銹鋼號さん
      ありがとうございます。
      実はお恥ずかしいことを白状しますが、写真の裏に吉川文雄さんの自書で〈1953 35.1.24 相模大野〉とありました。1953年と言えば昭和28年、吉川さんの誤記入と判断してキャプションに記載しませんでした。1953は年ではなく車番!電車オンチとはこんなもんです。お許しください。

      • 撮影年月日が判り安心しました。ありがとうございます。竣功時は貫通口脇の手摺がなかったようですので、昭和35年くらいだと推定はしていました。この時期、1900形は4両編成で運用されることが多く、クハ1950形は編成の中間に入ってしまい、記録が少ないのです。

        なお吉川さんは吉川文夫さんです。

        • ご指摘ありがとうございます。
          すべて訂正致しました。
          吉川文夫氏のお名前はもとより存じ上げていましたが、雑に変換をしたことによる失敗でした。
          以後、気をつけます。

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