“ナメクジ”に 魅せられる  (6)

貨物列車を牽く“ナメクジ”

本シリーズも最後となりました。今回は、“ナメクジ”が本領を発揮した貨物列車を牽くシーンです。旅客を牽いた前回と比べて、さすがに多くの写真を撮っていました。いまの動態D51は旅客ばかり牽いていますが、やはり、D51は貨物を牽く機関車だったと改めて思います。その中の“ナメクジ”ですが、全国分布は、前回に記したとおり、東北・北海道に多く見られました。機構上、集煙装置を取り付けられないことと、第一動輪の軸重が少し軽く、勾配区間ではあまり好まれなかったようですが、それでも、全国的に“ナメクジ”の牽く貨物列車が見られました。最終回に当たり、改めて“ナメクジ”と標準型の差異を並べて見た。左:D51 61[尻] 初期グループの半流線形、1~85、91~100の95両がいた。右:D51 164[戸] 給水温メ器を煙突前に置いた、“デゴイチ”の代名詞、日本の蒸機の代表的スタイル。これ以外に戦時タイプの1001~1161の161両がある。両者を比べると、“ナメクジ”は煙室端面にRがあるが、標準型は角型、煙室扉の取っ手は、“ナメクジ”は両側の2個、標準型は片側1個。

室蘭本線で石炭列車を牽くD51 11[岩] 室蘭本線はほぼ平坦で、D51単機で、重いセキ車を50両近く牽いていた。現在、札幌市内の公園に保存展示されていることが井原さんからレポートされている(社台~白老、昭和43年9月)。

室蘭本線の同区間で、一般の貨物を牽くD51 15[岩] 煙室端面が角形に改造されているのと、ナンバープレートがやや傾いているようにも見える。労使対立が激しくなったころで、アジビラを剥がした跡が見られる(社台~白老、昭和43年9月)。珍しく形式入りのナンバープレートを付けたD51 35[磐]磐越西線で貨物を牽く。主灯がシールドビームのうえに、副灯の位置がずいぶん離れている。同機はこのあと青森区へ転属し廃車となった(日出谷~豊実、昭和44年8月)。筑豊本線で石炭車を牽くD51 42[若] 好調なカマだったようで、よく出会ったし、本欄でも紫の1863さんから拓本を取っているなどの情報を寄せられていた。九州の石炭車は、セ、セムなどの二軸だが、その代わり、優に50両は牽いていた(折尾~中間、昭和44年3月)。今は無き羽幌線で石炭車を牽くD51 62[深] 羽幌線沿線にも小規模な炭鉱があって、石炭列車が運転されていた。木曽福島区の時代に長工式デフに改造されている(大椴、昭和44年9月)。“笹川流れ”を行くD51 75[酒] 勾配区間の少ない羽越本線沿いの秋田、酒田、坂町の各区には、“ナメクジ”が多く配置されていた。現在、同機は上越市の公園で保存展示されている(今川~越後寒川、昭和44年9月)。こちらも形式入りのプレートを付けたD51 94[出] 整備の行き届いた九州のなかで、貴重な形式入りは、ピカイチの“ナメクジ”だった(鹿児島本線上伊集院~薩摩松元、昭和44年3月)。“ナメクジ”最終ナンバーのD51 100[横] 昭和13年3月の製造で、以後、東北の各地を転々とし、昭和46年7月、横手区で廃車となった、東北ゆかりの最終“ナメクジ”だった。86~90の5両は“ナメクジ”ではなく、標準型になっている。“ナメクジ”の欠点(煙室上部がドームで覆われていて保守点検が不便、第一動輪の軸重が足りず、空転しやすく牽引張力も不安)などにより、“ナメクジ”の製造と並行しながら、改良型が試作されたことによる(羽越本線新屋、昭和44年9月)。

 “ナメクジ”に 魅せられる  (6)」への21件のフィードバック

  1. 紫のD51 42です。
    筑豊本線で撮影されたD51 42の晴れ姿に、感激しております。延々と続く石炭車は、確かに50両ほどありそうですね。
    鉄道模型に手を染めていたことは、写真展会場でバラしてしまいましたが、D51 42も持っております。16年前に購入した、16番の音が出る模型です。付属のナンバーに「42」が含まれていて迷わず付けましたが、やはり自分が写した番号には愛着があります。さて、問題は引かせる貨車の方です。そのころ石炭車の完成品がなく、ありあわせの客車などを牽かせて満足してましたが、数年後に九州のメーカーから安価なプラ製品が発売されました。ところがいつもの日本橋の量販店では手に入らず、何軒も探し回ってようやく10両セットを一箱だけ買えました。50両とはいかないまでも、せめて30両は引かせたいところですが贅沢は言えません。
    総本家様の記事に刺激を受け、数年ぶりにD51 42を箱から取出しました。10両のセラでは物足りませんが、汽笛を鳴らし、しゅっぽしゅっぽと走る様を眺めているのは至福の時間です。

  2. 紫のD5142さま
    はい、鉄道模型で、衝撃の告白を、写真展会場で聞かせてもらいました。当会でも、N集めに執念を燃やす会員がいることは知っていますが、せいぜい3桁の後半です。まさかの4桁突破、改めて、偉大な紫さんにひれ伏しましたよ。D5142、いちばん嫌われる「42」ではありますが、よく見かけました。筑豊の“ナメクジ”では、D5110がいて、こちらは、終生九州で暮らし、走行距離が格段に長く、いまも保存展示されていますが、末期によく見たのは、D5142のほうでした。

    • 中間駅に進入する下り列車ですね。古枕木の線路柵と、「日本盛」の看板が決め手になりました。総本家様らしい、車両を取り巻く風景を写し込まれた素晴らしい写真に、時間を忘れて見入ってしまいました。この場所は、岩堀春夫さんの写真集に反対側から撮影された写真が載っていて、酒屋と跨線橋の位置関係が良くわかります。
      鉄道模型的視点と言うのか、私は蒸機がいた頃の日常の当たり前の風景に注目してしまいます。

      • 紫の1863さま
        観察力にはいつも感心しています。中間駅の跨線橋から撮りました。“車両を取り巻く風景”とは言え、仕方なく入ってしまった、家屋や看板ですが、今となっては、いい記録になりました。お書きの岩堀さんは、先日の写真展にもお越しいただき、話をすることができました。最近、岩堀さんのブログに書かれた「鉄道写真」の位置づけについて、長く鉄道写真を撮り続けてこられた氏らしい見方だと、私も感銘を受けました。

  3. 久方ぶりに濃い蒸機の話題を楽しませて頂きました。しかし総本家青信号特派員様の新幹線並みの走りで、写真を探している間に、6回連載もアッと云う間に終着となりました。ナメクジと云えば、特別なスーパーとか、「大」が付けられたりする22、23号機のことが出ませんでしたので、投稿してみます。戦時中か戦後早くに普通型のナメクジに改装されたと云うので、もう誰も実際に見たことがある鉄道ファンは居らっしゃらないでしょう。写真では、あまりにも素晴らしい西尾克三郎氏の23号機の記録があるので、知らない蒸機ファンは居ないでしょう。しかし、これ以外には、ここに貼った国鉄(又は汽車)の公式写真くらいしかないように思います。この写真の方が先の撮影で、西尾さんの撮影では、キャブにタブレット・キャッチャーが取り付けられ、番号板が追い出され、ランボード上に移設されています。これが、またカッコ良い!

    • 宮崎様
      コメントいただき、ありがとうございます。たしかに、現役時代の蒸機を熱く語れる層がどんどん減っていますね。さて「スーパーナメクジ」、たしかにシリーズのなかで、全く触れていませんでした。戦争中に改装されていて、現役世代で当時の姿を知る人はいないと思いましたが、D51の歴史を語るうえでは、不可欠の“ナメクジ”でした。ナンバープレートがランボードに移設された、西尾さんの写真、知っています。ほかには例のない取り付けで、ホントにカッコいいです。

  4. コメントでは、写真が1枚しか貼れないので、続きとしました。さてこんな投稿では、デジ青諸兄には、御満足頂けないのは承知のうえ。実は、未知の鉄道ファン(私が知らないだけか?)が撮影した写真があるのです。残念なことに、かなりのピンボケ。しかし特徴ある形態から、スーパーナメクジに間違いはない。関中秀雄さんと云う方の撮影です。キャブにはタブレットキャッチャーが付いているようなので、番号板はランボード上の筈だが、判然とはしません。大山鳴動でピンボケ写真1枚で、恐縮ながら、この機を逃すと御紹介することも無いかと思い、貼らせて頂きました。。

    • 宮崎様
      続けての貴重な写真を、公開していただき、ありがとうございます。たしかに、“スーパーナメクジ”は、公式写真か、西尾さんの写真でしか知りません。一般の方が撮られているのは、たいへん貴重ですね。両機とも、山北、御殿場に配置されていたと聞きますが、撮影場所は、国府津でしょうか。

      • 国府津機関区の転車台は上路式に対し、写真は下路式ですので、国府津ではないと思います。当初配置の高崎(第一)機関区の転車台は、下路式ですので、高崎での撮影かとも思ったが、周囲の情景は、私が知っている高崎区とは違っているようです。でも私が知っているのは、昭和45年頃の話で、違っていても不思議はないのですが。ただ撮影した関中秀雄さんは、前橋在住の方の様なので、高崎区配属中に、撮られたものかと思っています。

        • 宮崎様
          私も昭和42年に国府津区で撮った写真があり、確認しますと、転車台はたしかに上路式でした。最初に配置された高崎区だったのでしょうね。以前から、“スーパーナメクジ”と、最初の配置の高崎一区は、私にとってもセットで刷り込まれていました。

    • 乙訓の老人の甥さま
      写真の添付、ありがとうございます。同じ時に撮られたものですね。背景の白場は、あとで修整して白にする場合と、撮影時に白の幕を立てる方法があったようです。さらに、車体にも、艶消しの特別の塗装を施して撮影する場合もあり、公式写真に並々ならぬ努力をしていた時代だったと痛感します。

  5. 総本家青信号特派員様
    改めてナメクジのことがよくわかりました。ラストナンバーは2桁最後の99と思っていましたが100だったのですね。1966.9.4鷲別区撮影の番号違いD5199[岩見沢]です。

    • 準特急様
      99号は私は撮っていませんでした。撮られた鷲別は、広い構内で、たいへん撮りやすい機関区でした。D52も休んでいて、魅力的な機関区でした。写していると、機関士の方が寄って来て、カメラ談義になりました。一人で寂しく撮影しているところへ、国鉄の現場の方から声を掛けてもらって、たいへん嬉しかったことを覚えています。

  6. 総本家青信号特派員様
    機関士の方と対話があったなんていい時代でしたね。鷲別区が広かったとのことですが平地であったような気がします。ここはD50が集結していて訪問したかった機関区でした。99号機よりもう少し写りのいい同じ66.9.4の岩見沢区からの47号機です。これは「保存蒸機とその現役時代」で触れたことがあります。

    • 早川様
      私の鷲別の思い出に気を留めていただき、ありがとうございます。鷲別区はたしかに平地にあり、複線の室蘭本線の間にある、抱き込み式の機関区だつたように思います。北海道で醜い改造が行われていなかった、良き時代です。ナメクジ両機とも、ホントに美しいですね。
      私の“ナメクジ”巡礼もいったん終わり、また新しいテーマで、デジ青チャレンジをしていきます。今後とも、よろしくお願いいたします。

  7. 私の前信に総本家様からコメント頂きましたので御礼を兼ね、もう1枚戦前の記録をご紹介します。盛岡区でD5054と並ぶ19号です。同機は昭和11年の新製後に盛岡区配属となり、最後の数年は秋田区に居たらしいが、車歴の殆どは盛岡で過したようです。撮影は何となく塗装に艶がある気がするので、昭和11~12年頃かと。配置表を見ますと、昭和13年4月時点では、両機とも盛岡区配置です。この時点では8輌配置のD50が主力で、D51は未だ4輌しか配置がありません。但しすべてがナメクジです。そんな時代にタイムマシンで行ってみたいですね。撮影者は、鈴木 茂と云う方で、名前だけしか判りません。

    • 宮崎様
      貴重な写真を次つぎに見せていただき、ありがとうございます。両機とも、輝くような美しさが伝わって来ます。盛岡には、こんな矩形庫もあったのですね。こんな時代に戻ってみたいです。それにしても、宮崎様は、いろいろな方の古写真を所蔵されていています。私も、故人所蔵の古写真を譲り受けて、一定数を持っています。昔はよく、写真の交換会があって、そこで入手したものもあると思いますが、写真のウラを見ても、一切データはなく、撮影者すらも分かりません。

  8. 大分、後出しで失礼致します。昨日、別の写真を探していたら、この写真がありました。前にコメントした折に、22号機の改装後の写真が、何処かにあった筈と思ったのだが、見つからなかったものです。撮り人知らずですが、データは付いていました。1966(昭41)年11月、東新潟。真横からでなく判然としないが、なめくじドームの後端が、何となく通常のなめくじ機と異なり、短いような気がします。気のせいでしょうか。

    • 宮崎様
      私も後出し返答で失礼します。そうですね、通常はドームの端部は斜めになっていますが、直角に近いようですね。同機は、1967年10月休車、1968年2月廃車とあり、現役最後の姿ですね。余談ですが、昨日、テレビの「〇〇鑑定団」の制作会社から回りまわって依頼があり、「D51の初期型」の写真を番組で使いたいとありました。鉄道150年のお蔭で、テレビにも「ナメクジ」が役立ちました。

    • D51 22の画像を探しているうちに遅くなってしまいました。宮崎様の写真をよく見ると、肝心の部分が汽笛で隠れてしまっています。D51 54の画像はネットで見つかり、垂直の断面で、切断面は平面です。戦時型のかまぼこドーム端面と同様の形状です。D51 23の改装後は西尾克三郎氏の「記録写真 蒸気機関車」に、昭和38年8月に撮影された姿が載っています。丸く成型されていますが、斜めではなく垂直に近いものです。
      ネットに出てくる画像は模型がほとんどで、実車はサハリンのD51-22ばかりです。SLブーム以前に廃車になっているだけに、残された写真は少ないのですね。
      デフとボイラーを繋ぐステーの形状、テンダの重油タンクも特徴的ですね。しかし、ドーム後端の形状は解明できず、ますます興味が涌いてきます。
      珍しい写真を見せていただき、ありがとうございます。

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