河 昭一郎氏から原稿を頂きましたので米手作市が代理投稿致します。
東海道新幹線上で阪急電車・大山崎ー上牧間に相当する区(間が新幹線開業前8ヶ月ほどの期間に限り『阪急京都線』だったことは興味深いことで、当時ワクワクしながら乗車体験したのが思い出されます。
国鉄と阪急は『つばめ』と『P6』のライバル同士だった?筈なのに、東海道新幹線上でこんなに仲良くなっていたのが、なんとなく変に感じたものです。
実際の「競争区間」は、ほぼ大山崎を境にして大阪側(新幹線と阪急P6)と京都側(在来東海道線つばめと阪急P6)に分かれてはいましたが。
その後のこの区間でのスピード対決は言わずもがなです。
乗車体験については『大きく揺れた』と書かれているのを何処かの鉄道誌で見たことがありますが、私の体験では乗入れの取り付け部分で揺れを感じた程度で、新幹線上では制限速度が上限60キロとなっていたこともあって、滑るような走りでした。
写真も撮りましたが、どういう訳か先頭車からのアングルでは対向車も無く真っ直ぐ伸びた道床のみしか写しておらず、また、折角乗入れ部分まで徒歩で見に行きながらもそこを上がってゆく阪急車が入っていません。
河 昭一郎様
何と貴重な写真を有り難うございます。
話には聞いていますが、これだけ具体的なシーンには感激です。
引き立ての新幹線の線路を滑るようにですか!無茶苦茶説得力を感じます。新幹線の線路はは真っ直ぐで綺麗ですね!
マルーン殿
コメント、有難うございます。
実は投稿後、何らレスポンスが無いので「ジジイの戯言になってしまったかなぁ」と、落ち込んでいた矢先でした。
それなりに評価いただき、ガゼン勇気が湧いてきた次第。
古き時代を思い出す(若き鉄ファンには少しでも役に立つ)記事「つれづれの記」と致したく思いますので、続けさせて下さい。(笑)
河 昭一郎様
新幹線上を走る阪急電車は趣味誌で知っておりましたが、それまでは阪急でいえば神宝線育ちでしたので元の新京阪である京都線は十三で眺めるだけの存在でした。河さんはレスポンスがなく落ち込んでいたとの正直告白は全く同感です。新幹線走行の阪急電車のことを現実に知っている人は段々少なくなっており、そういう意味では同年代の私としては大変申し訳なく思っております。投稿した人は内容にもよりますが、コメント、すなわち反応を早く見たいものです。早いコメントは数時間後に出てきます。嬉しいもので直ぐにお返ししたくなります。私の「お城と電車」などは城よりも電車に関する関連コメントが多いです。それでいいのです。下にありますどですかでんさんのような思い出投稿、遠い昔の710か1300等もいい思い出のコメントだと思います。
準特急殿
小生の勝手なボヤキが貴殿に「同年代の私・・・」と気を遣わせる事となり、申し訳
ありませんでした。
実は小生、「言いたいことをポンポン言う」悪い癖が有って「いい歳コイテ」反省
で~す。(笑)
河 昭一郎様
思い出しました。小学校の遠足で十三(学校が十三にあった。)から多分嵐山への遠足行ったときのことだと思います。一番の楽しみは新幹線の線路を阪急電車でお先に乗るということでした。さぞかし乗り心地はスベるように静かな落ち着いた乗り心地かなと思ったのですが・・・・ 今になって考えて見ると新しいレールなので表面が荒れていたので、あのようなゴリゴリした乗り心地だったのかな思います。乗った電車は多分河様の撮られた1300か710ではないかと思います。
どですかでん殿
コメント、有難うございます。
小生「ヨワイ80」となり、加うるにコロナ予防注射の副反応?の影響も有ってマダラボケが・・(笑)
「走り」については貴殿の仰るのが理論的には正解でしょうネ。
従って「滑る様な走り」に感じた小生の方が鈍感だったのかも。
何方か「つれづれの記(1)」に添付した次の写真で、レール状態を鑑定して頂けませんでしょうか?
どですかでん殿
思い起こせば、この工事が行われていた当時は1964年の東京オリンピックの数年前。
何度も横を通っていたのですが「フーン」というぐらいで、今から思えばもったいないことでした。阪急の河原町延長の方が興味津々でしたね。
新幹線の開通で無くなる列車の方に意識が向いていました。
河さま
準特急さんの「新幹線走行の阪急電車を知っている人は年々少なくなり‥」を読んで、あわててコメントします。私も乗りましたよ。情報ネタは、やはり新聞でした。「お先に新幹線気分」というようなタイトルで、大きく載っていて、家族で大阪へ行くいく時に乗りました。ロングシートの古臭い電車でしたから、1300か1600でしょう。「滑るように快適」と言った新聞記事が刷り込まれていたせいか、あまり揺れは感じなかった記憶がありました。