奈良の駅名研究家さんの長期連載「駅名」シリーズに対抗(?)して、もうひとつの停車場である「信号場」を採り上げます。その昔、列車に乗っていると、駅でもないところに列車が停車、訝っていると、向こうから煌々とライトを輝かせて交換列車が通過して行く‥、そんな思い出も過去のものになりました。鉄道事業法に依れば、「停車場」には、「駅」「操車場」「信号場」があり、信号場は、旅客の乗降を扱う駅ではなく「専ら列車の行き違い又は待ち合わせを行うために使用される場所をいう」と規定されています。「専ら」と書かれているように、設置理由としては、線路の分岐点に設けられたり、単線区間と複線区間、または複線区間と複々線区間の接点に設けられるものもありますが、いちばん多いのは、単線区間で列車交換のために設けられる信号場で、以前の調査では私鉄も含めて約160ヵ所程度で、旅客営業を行わないため、駅と違って、人里離れたところに設置されることが多く、駅とは別の興味深い対象なのです。
▲前述のように、駅と駅の間で線路が分岐する地点も信号場と呼ぶ。いわば分岐型信号場のひとつ四国の川奥信号場である。しかも本線格はJR四国予土線で、分岐するのは土佐くろしお鉄道中村線、しかも分岐だけでなく、列車交換も行う本来の機能も持つ。また分岐してすぐループ線となる興味深い信号場だ。写真は宇和島発窪川行きの列車の前面、右側交換するキハ32が待機している。シーサスポイントの左手前が土佐くろしお鉄道で、すぐループ線のトンネルに入る(2011年)。
▲関西大手にも信号場はある。単線時代には交換のための信号場があったが、いまは京阪寝屋川信号所や近鉄東生駒信号場のように、車庫への分岐ポイントの信号場だ。純粋に交換のための信号場は、南海加太線の紀ノ川~東松江にある梶取信号所で、朝の一部時間帯には、電車の交換が今でも行われている。京阪、南海のように「信号所」と称する民鉄もある(2013年)。
▲単線の行き違いのための信号場も、複線化されたり、列車本数の減少で交換が不要になって、廃止される例も多い。われわれ世代では、衝撃的だったのは関西本線中在家信号場の廃止だ。引上線は錆びて草叢に消え、短いホームにあった建屋も無くなった。写真の時は、閉塞境界として棒線信号場となっていたが、2019年に完全廃止され、今は引上線もなくなり、ホーム跡だけが残されている。加太から、みんなで中在家信号場まで歩き通し、信号場で休ませてもらって、さらに山越えして柘植まで歩き通した頃が懐かしい(2013年)。






総本家青信号特派員様
対抗馬扱いをいただき、誠にありがとうございます。また一つ、楽しみな連載が始まりました。目の付け所が、流石、総本家様です。私の持っている「全国鉄道地図帳」には信号場も記載されているので、一つ一つ所在を確認していく新しい楽しみができました。
総本家青信号特派員様
今回は思い出のある常磐線の信号場について投稿いたします。
1898年に「岩沼」まで全通した常磐線は、海岸沿いを走るため線路が東北本線に比べて平坦である点が蒸気機関車牽引の列車にとって有利であったため、長い間東北本線のバイパスとして機能していました。「平」(現在:「いわき」)までの複線化も早期に行われましたが、「平」以北は主たる都市もなかったので単線のままになっていました。
建設当初の一時的な信号所(場)を別にして、常磐線の信号場は2期にわたって開設されました。今年戦争が終わって80年目となりますが、終戦間際になり物資の海上輸送が困難になり、海岸には近いという弱点があったものの東北本線より輸送力が大きかった常磐線に陸上輸送が委ねられることになり、第1期として1944年(昭和19年)に単線区間でネックとなった「浪江-小高」間に「桃内信号場」、「久ノ浜-広野」間に「末続信号場」の2カ所が開設されました。この信号場は戦後まもなく1947年に末続駅に、1948年に桃内駅に昇格しました。
昭和30年代に入り東北本線の改良が進みましたが、上野口で通勤時間帯に混雑することや奥羽本線・磐越西線への直通夜行列車が多数設定されたことから仙台駅以北に直通する対北海道連絡の夜行寝台列車はなお常磐線経由が主力となり、上下の列車が多数交換する単線区間がまたも隘路となりました。この対策として1960年に「竜田-富岡」間に「金山信号場」、「亘理-岩沼」間に「逢隈信号場」、1963年に「原ノ町-鹿島」間に「高平信号場」が開設されました。
その後、「平-草野」間、「広野-木戸」間、「大野-双葉」間の部分線増もすすみ、東北新幹線の開業により夜行列車も削減されることになり、1988年に「逢隈信号場」は駅に変更され逢隈駅として開業しましたが、1993年に「金山信号場」と「高平信号場」の2カ所は廃止されました。
今も常磐線で通過するたびにその痕跡を探しますが、夏草の覆われ分かりにくくなっています。「兵どもが夢の跡」という言葉を思い出してしまいます。
快速つくばね様
常磐線の平以北の信号場の改廃事情をお聞かせいただき、ありがとうございます。私が平以北へ行ったのは、特急「ゆうづる」を牽くC62を撮るため、昭和42年に四ツ倉に降りたのが初めてでした。信号場のことなど、知る由もなく、撮影に夢中になっていましたが、撮影した四ツ倉~久ノ浜も単線で、「はつかり」をはじめ優等列車から貨物列車まで多くの列車が通り過ぎ、たしかに単線では飽和状態で、信号場の設置も頷けました。ここには、旧線時代の鞍掛山トンネルの坑口がそのまま残っていたのが印象に残っています。
総本家青信号特派員殿 新たな連載のスタート、楽しみにしています。これから紹介されてくる中には多分含まれていないだろうと想像しながら、上信電鉄の信号所をご紹介します。上信には3ヶ所信号所がありました。南高崎と根小屋間の佐野信号所、西吉井と上州新屋間の新屋信号所、千平と下仁田間の赤津信号所です。
新屋信号所を通過してゆく下仁田行きのクモハ155です。平成12年5月5日の撮影です。(コメントは続きます)
西村様
連コメ、ありがとうございます。はい、私は上信の信号所は撮っていないです。列車頻度がそれほどでもない上信で、3ヵ所も交換のための信号所が設けられているのが興味深いです。なぜか関東圏のJR・民鉄には信号場(所)が多く、関西圏は比較的少ないですね。写真は、関東圏の信号所のひとつ、江ノ電峰ヶ原(信)です。ここでは、日中、常時交換が行われています。クローバー会の撮影で行った時のもの、右手にメンバーも見えています。
(コメント続き)佐野信号所は上信と立体交差する上越新幹線の真下にあります。信号所を通過する電車を撮っていないので、信号所近くで平成14年5月6日に撮影したデキ1+デキ2+クハ301+デハ201で代用します。この撮影地点と烏川鉄橋の間に「佐野のわたし」という駅が設けられていることを初めて知りました。(コメント続く)
烏川の鉄橋は何度か撮影に行きました。まだ「佐野のわたし」ができる前で、高崎で降りて上越新幹線沿いを歩くか、川の向こうの根小屋まで乗って、鉄橋まで戻りました。かつての佐野(信)のところに、「佐野のわたし」ができたのでしょうか。撮影には便利になりました。この駅ができた時、てっきり「佐野の私」かと思っていたら、あとで「佐野の渡し」と分かりました。とんだ老人の早とちりでした。
(コメント続き)赤津信号所は「不通峡」という鏑川の断崖絶壁の上にあり、近づく道路がないため川の対岸からの写真しかありません。平成11年8月1日の撮影です。(コメントおわり)
赤津信号所は、終点の下仁田の手前にあるのですね。なぜこんな断崖絶壁の上に設けたのでしょう。開設は昭和56年とありました。
総本家青信号特派員様、
川奥信号場、懐かしいです。とは言っても、何度か通り過ぎただけで、行ったことはないのですが。現在では土佐くろしお鉄道に移管されていますので、JR四国の信号場は伊予若宮信号場(新谷・五郎~伊予大洲)の1箇所のみだったかと思います。以前は、予讃線であれば三秋信号場(向井原~高野川)、土讃線であれば大王信号場(大杉~土佐北川)などがありました。
お写真は、予土線列車同士の交換ですね。1982(昭和57)年11月15日改正でも3回しかなく、予土線列車同士の交換は皆無で貴重です。
朝に中村方からやってくる738Dと江川崎方へ行く835Dが交換しているのですが、職員さんの通勤用だったのでしょうか。
四方様
ご連絡、ありがとうございます。この時は宇和島11:32発の窪川行き4820Dに乗り、川奥(信)で4823Dと交換したものです。改めて現在の時刻表を見ると、乗車した4820Dは江川崎止まりになっていました。全般に列車本数が削減されていますが、とくに川奥(信)を含む江川崎~窪川の削減が大きく、信号場ての交換も貴重になったのですね。