「信号場」を巡る  ⑨

前回の「信号場」、窓から写しただけ、列車も後部から写しただけ、そんなテーマでも皆さんから暖かいコメントをいただき感激しています。こんな年寄りのテーマでも、地道に続けていけば報われる、そう感じてまた続けます。

篠ノ井線 桑ノ原(くわのはら)信号場

いまも現役、しかもスイッチバック式と、貴重な桑ノ原信号場。乗車した新宿発長野行き421レから、通過していく長野発甲府・名古屋行き446レを見る。スイッチバックらしく、わずかに高低差があることがわかる。446レは甲府・名古屋行きとなっているが、名古屋行きは松本から連結と時刻表の脚注にあった。平坦な松本~塩尻は2列車併結、12両以上で走ったと思われる。、DD51 37[長]+客車7両 (昭和43年2月) 

桑ノ原信号場は、昭和36年9月に開設された。同線には潮沢信号場(現・廃止)も同時開設されている。急峻な山間部を走るため、いずれも隣の姨捨と同じくスイッチバック式の配線となった。当時、篠ノ井線は全線単線、非電化であり、長野と首都圏、中京、関西へ通じており、客貨ともに急増しており、桑ノ原(信)、潮沢(信)、さらに後年には羽尾(信)と、いずれもスイッチバック式の信号場が設けられた。

私が撮影したころ、旅客はDD51化されていたものの、貨物はD51の補機を付けて力闘が続いていた。姨捨付近は、眼下に善光寺平が広がり、国鉄日本三大車窓のひとつ、その風景に引かれて、友人とスキーへ行った帰りに一人で下車した。隣の桑ノ原(信)まで歩こうとしたところ、たちまちトンネルに阻まれてしまい、トンネルの上へ直登して山を越え、桑ノ原側へ行ったことを覚えている。

連続して信号場が設けらたことは、それだけ人家も少ない希薄な地帯で、写真を撮った頃も、長野を出て、山間部を延々とDD51の力闘が続いていた印象がある。いまは、長野自動車道がすぐ近くを通っていて、クルマでいとも簡単に到達できる場所らしい。時々走るネタ列車を、撮影者が止めたとか、沿線の木を切ったとか、トラブル動画にこの場所がよく登場する。

 

 

 「信号場」を巡る  ⑨」への6件のフィードバック

  1. 恥ずかしながらワタクシ、今回の投稿を拝見するまで桑ノ原信号場の存在を知りませんでした。天候のせいもあってか、眼下に広がる善行寺平の雄大なパノラマが望めないのは残念です。しかし、このDD51 37は機関士側が旋回窓、助士側はワイパーなんですね。それに446列車、長野始発で行き先が甲府と名古屋とは驚きです。塩尻で西と東に分割され、それぞれの目的地へ向かっていたとは! このような列車があったのも知りませんでした。
    今は長野自動車道がスグ近くを通っていて、クルマでいとも簡単に到着できる場所らしいと書いておられますが、えっ、そんな近くにインターチェンジがあったんかいなと疑ってしまいました。調べると姨捨駅のすぐそばにサービスエリアとインターチェンジがあって、雄大なパノラマが望めるそうです。本数の少ない鉄道よりも、クルマのほうが確かに便利なように思います。
    ちょっと前になりますが、この区間を383系の「しなの」で通りました。稲荷山を過ぎて駅でもないところで止まり、しばらくすると後退を始めるではありませんか。まさか平成の世になってスイッチバックが存在するとは露知らず、特急を退避させるとは何事ぞと思ったことがあります。その場所こそ、桑ノ原信号場だったのですね。あのときの謎が解けました。
    添付の画像は2011年10月、「しなの」の車窓から見た善光寺平で、姨捨駅付近で写したと思います。

    • 紫の1863様
      写真とともに篠ノ井線の各駅の思い出、ありがとうございます。そうなんです。私も今回調べて初めて分かりましたが、この列車、名古屋行き、甲府行きでした。中央東線、西線の経路に忠実になぞっています。2列車併結の松本~塩尻で同列車を見たかったです。クルマに全く縁のない私にとって、こんな辺鄙な地に高速があること信じられません。ネタ列車だけ狙うニワカ鉄が、鉄道を全く使わず、いとも簡単にクルマで行ったら、トラブルが発生するのも自明の理ですね。

  2. 桑ノ原信号場、ここを通るときは頭になくパノラマ景色に目がいくところです。姨捨駅から歩かれたとのこと。4キロ以上あり大変だったと思います。いまではクマの出没にも注意が必要なところかも。昨年出版された「スイッチバック大全」で、この信号場の様子を知りました。
    姨捨駅、「駅前旅館に泊まるローカル線の旅(ちくま文庫)」に駅前旅館の思い出として、宿泊記の詳細があります。「その旅館は姨捨駅のスイッチバックのポイントの前に建っていた。二階の部屋の窓からは駅に入ってくる列車が目の前を通り、その向こうには善光寺平の広大な景色がはるか彼方まで広がっていた。」1978年のことです。その2年後位にその旅館は廃業し建物もなくなった、とのこと。駅には売店もあったようです。
    当方の姨捨駅の思い出ですが、1968(昭和43)年2月、同好会の飯山線越後鹿渡での合宿当日、前日に大阪で乗車した急行「第2ちくま(DC)」が大雪のため遅れ、停車しないはずの姨捨駅下車可の措置がとられ下車。そしてドカ雪の中、勾配を上がってくるD51重連の貨物列車や急行「第1しなの(名古屋行8両DC)」を見ることができました。当方の初めての旅行らしき旅行で、長野県で初めて下車した駅です。

    • 高田幸男さま
      姨捨の思い出をお聞かせいただき、ありがとうございます。姨捨駅に売店があったこと、私もかすかに覚えていますよ。ただ駅前に旅館があったことは、知りませんでした。二階の窓からの眺めは、加太の村田屋に匹敵するぐらいだったの絶景だったと思います。姨捨の思い出は、みんな飯山線の思い出ともつながりますね。私はまだ高校生でしたから、鹿渡館の時代ではなく、生まれて初めて飯田線沿線にスキーへ行って、その帰りに寄りました。

  3. 総本家青信号特派員さま
    桑ノ原や潮沢信号場、懐かしい名前です。桑ノ原信号場周辺は姨捨までの間を含め幾度となくウロつきました。潮沢は、前後しますが百川信号場のコメントに続き、糸魚川から大糸線で松本乗換えで、直前の改正から新設されたキハ52の2連長野行で交換停車しました。桑ノ原は飯山線のC56やキハ58を撮った帰り(行きはたいがい夜行で明け方の通過)に数回通っていますが、D51やDF50を撮ったことはありません。通うようになったのは165系や381系、EF64が目的になってからでした。後年開設された羽尾信号場も良かったですね。信号場新設は列車交換のためはもちろんですが、しなのが1時間ヘッドに運転されるなど逼迫していたため、64貨物は主に信号場で旅客列車を退避するダイヤが組まれていました。
    撮影はダイヤの関係から早朝を狙うことが多く、桑ノ原、姨捨、羽尾へは屋代や戸倉からタクシーを使うことが多かったですね。姨捨駅から桑ノ原へは私も歩きました。線路の山側に地方道があり、鉄道トンネルの上で北側に移りますが、トンネルの上はかなり迂回していて時間がかかったように思います。64貨物は当時のダイヤでは勾配を登る上りレの設定はなく、ごく偶にしか運転されない臨時を期待したものですが、下りレは重連でモーター音を高々と響かせて下っていました。
    想い出多いところをご紹介戴き感謝します。

    • 1900生さま
      姨捨、桑ノ原周辺を幾度となくウロつかれたのですか、凄いですね。私は、下車して写したのは、この時だけで、あとは数度、列車で通っただけでした。それだけに、私の姨捨、桑ノ原の記憶は、50年以上、止まったままです。それにしても、今でも、スイッチバックが連続して、しっかり活用されていること、改めて驚きました。

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