「信号場」を巡る  ⑭

九州の信号場 南霧島信号場

しばらく途絶えていましたが、デジ青に復帰します。九州にも、当時はまだ単線、非電化の区間があった鹿児島、日豊、長崎の各本線にも信号場がありました。なかでも日豊本線の宮崎以南には、門石(田野~青井岳)、楠ヶ丘(青井岳~山之口)、南霧島(霧島神宮~国分)の信号場があり、それぞれ付近は撮影地として知られていたところでした。

当時、日豊本線にも夜行鈍行、門司港~西鹿児島の521レ、522レが走っていて、何度か利用した。この日は、夜行利用ではなく、宮崎に泊まって、朝6:09に発車する521レに乗って鹿児島方面に行った時だった。編成はDF50+客車7両で、夏休みでもあり結構な利用率だった。列車は都城を過ぎ、なおも山間部を延々と走り、駅でもないところに急に停車した、これが南霧島信号場だった。昭和41年の開設で、全体がカーブした標準的な信号場で、まだ4年しか経っていないので、すべてが新しい印象だ。カーブの向こうから、タイフォンを鳴らしながらDC急行が見えた(昭和45年8月)。

通過したのは、西鹿児島発広島行き急行「青島」だった。昭和40年10月改正で、広島~別府の急行「べっぷ」が、博多~門司港・西鹿児島の急行「にちりん」と併合されて、広島・門司港~西鹿児島の急行となり、「青島」と名付けられてデビューした。下りは広島発8:20発、西鹿児島21:04、上りは西鹿児島7:25発、広島着20:35着と、ほぼ一日掛けて、700kmを走り通す長距離DC急行だった。いまは、本州、九州を通す在来線の優等列車など考えもつかないが、当時は新婚旅行をはじめ、観光客から愛用されキロ28は2両組み込んでいた。新幹線博多開業により特急「にちりん」に置き換えられて、「青島」の名は消えてしまった。

 「信号場」を巡る  ⑭」への1件のフィードバック

  1. この時代の国鉄ネタは面白いですね。そろそろ寝床へ行こうとしておりましたが、見てしまった以上は放っておけません。恥ずかしながらワタクシ、この信号場を全く知りませんでした。いろいろ調べてみるとネット上に多くの情報が見つかり、ユーチューブの動画までありました。
    霧島神宮と国分の間は12.7キロもの距離があって、霧島神宮から4.5キロ、国分からは8.2キロの位置だそうです。
    521列車の前から3両目の客車は寝台車ですね。時刻表にも記載があって、のちに急行「みやざき」に格上げされましたが、国鉄の増収狙いだと当時の私は考えておりました。急行「青島」も今では考えられない長距離を走破し、始発から終点まで乗り続ける客がいたのかしらと勘繰ってしまいます。今このような列車があったら、物好きな乗り鉄が喜ぶと思うのですが、夢物語ですね。ヘッドマークは初めて見るような気がします。「青島」には一度だけ、昭和48年8月に都城から西鹿児島まで乗りました。まさか広島からはるばるやって来た列車とは露知らず、今になって初めて知りました。いくつになっても勉強が大事と言いますが、まさにその通りです。
    話はそれますが、都城で覚えているのは売店にあった焼酎の銘柄「フェニックス」で、そんな愛称の急行列車もあったなあと思いました。急行「フェニックス」もとんでもない列車で、宮崎発西鹿児島行き、しかも小倉経由という恐ろしい経路をたどります。宮崎を7時41分に発車し、日豊本線を北上して小倉着が13時50分、鹿児島本線を経由して終着駅の西鹿児島に到着するのが20時21分。「青島」ほどではありませんが、12時間以上を走り続ける列車でした。信号場とは関係のない話で失礼しました。

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