小田急デハ1600

何度も言いますが、私は電車、特に関東の私鉄についてはそこら辺の女子供にも劣る知識です。このシリーズを拝読するに付けても奥深いものと感心していますが、この記事に即反応してデータと知識を開陳してくれる会員の皆様にさらなる感銘を受けております。

今日の話題は小田急電鉄です。この記事の中で疑問がいくつかありますので教えて下さい。

①昭和2年から一気に作った76両がブサイクだった、と書かれているがどんな顔だったのか?

②“いっそ小田急で逃げましょうか・・”などという歌謡曲があったのか?

③廃車後は各地で活躍した、とありますがどこで活躍したのか?

よろしくお願い致します。

2 thoughts on “小田急デハ1600

  1. 米手作市様

     このシリーズの相談員、指導員である乙訓の老人様、藤本哲男様は多分準備されていると思います。そこで僭越ではありますが不肖準特急がわかる範囲でお答えいたします。

    ①カラーブックス「小田急」生方良雄著によると「昭和2年4月の小田原線開業時に30両所有、うち12両は甲号車と呼ばれる101形半鋼製セミクロスシート・WC・手荷物付きの長距離電車で、残り18両は乙号車と呼ばれる1形半鋼製ロングシート3扉の近距離電車であった。引き続いて同年中に121形・151形など11両が完成したが、何れも甲号車であった。昭和4年4月、江ノ島線開通に伴い車両増備が行われ、昭和4、5両年にわたって201形15両、501形5両、551形15両が完成、所有両数76両となった。」とあります。小田急は当時小田急系であった帝都電鉄(現京王井の頭線)と共に大東急時代に1000番台の番号となり、201形も1400形になっております。私は連接車6の項で述べました様に小田急3000形8連を撮影したネガを紛失中です。その時に76両の中心であった1200形、1400形と今回のハンサム電車1600を撮っております。何を持って不細工とかハンサムというのかよくわかりませんが、1200、1400は窓が小さくて正方形に近い印象で不細工な感じがしました。2扉であることも含め阪急の900、920の感じがしました。阪急はもう少し丸みがあり、多分車内は差があったと思います。正面は食パン電車のイメージで私は好きではありません。いずれにしてもどなたか写真を披露してください。私も探しておきます。

    ②この歌は関西在住であってもDRFCの高齢の方ならご存知と思います。西条八十作詞、中山晋平作曲、歌手佐藤千夜子の「昔、恋しい銀座の柳」で始まる東京行進曲の4番に次のような歌詞があります。「シネマ見ましょか、お茶飲みましょか、いっそ小田急で逃げましょか 変わる新宿 あの武蔵野の 月もデパートの屋根に出る」
    そう、霧島昇、淡谷のり子、藤山一郎などの頃の一昔前の夏メロでよく歌われていた歌です。

    ③1600はカラーブックスでは今ならブルーリボン賞ものと絶賛されています。私は何とも言いません。クハの台車はTR11だったと思います。面白いことに関東鉄道常総線に譲渡されてキクハとなっていました。顔は電車ですが、非電化区間で不思議な感じがしました。岳南鉄道にも行ったと思います。思いますでは申し訳ないので藤本哲男様ご確認なり訂正、補足、写真掲載を御願いしたいと思います。勿論ほかの方でも結構でございます。

  2. 準特急様、
    さすがはDRFCの生き字引、ご説明に納得いたしました。しかし、言いましたように私は電車の、それも関東系の電車にはアホも同然なのです。絵で見ないと理解できません。写真を見せろ!絵で説明しろ!(①と③)。
    今日、写真展の撤去に行ったら長老様とお茶を飲む機会を得て、そのとき「あれ(76両)はブッサイクやで!見られたモンやあらへん」と罵倒されていたので「それが見たいのです」といいましたら「藤本君が見せてくれるやろ」との賜ったのでしばらく待っています。
    ②の歌は知っていましたが四番までは知りませんでした。なにせ戦後生まれのため。
    いずれにしても準特急様、ありがとうございました。ブッサイクとキクハの写真を誰か見せて下さい。

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