伊予鉄モハニ200

伊予鉄、土佐電、琴電、琴参、四国にもたくさんの私鉄があるのですね!この鉄道は松山市内で坊ちゃん列車を走らせている鉄道ですね。

伊予鉄モハニ200」への3件のフィードバック

  1. この電車、1955年に初めて見ました。日車スタイルの戦前型地方私鉄向け最高品であると今も思っています。車庫を訪ねたのは1957年で、このとき「伊藤さん」と言う同年の社員さんと検車庫の片隅で知り合いました。この方に上司を紹介してもらい、型式図一式を閲覧、筆写をさせてもらいました。このときに気付いたのがモハ100、モハニ200形の主電動機が65馬力4個で、これで中間車を入れて走っている事でした。道理で叡電並みのノロノロ運転が理解できました。そして車庫で質問した事で今一つ覚えているのは、車体端面右下に堕円形の銘板が2ケついていましたが、片方は「日本車両」、もう一方は「伊予鉄電」となっていました。常識としては」伊予電鉄」と思い質問しましたら、「この車が納車された昭和6年(1931年)は、社名が「伊予鉄道電気」と言っていたからだ、と教えられた。
    伊藤さんには京都鉄道趣味同好会に入会してもらい、しばらく交流が続いたが、老人は向日町転居に伴い冬眠生活に入り途絶えた。四国地区での仕事での担当は1969年まで続き、その間、伊予の電車は大変転した。それは、いずれ「哲男君」から語られるであろう。現在も遠州鉄道と共に中小民鉄では優等生として盛業中なのが嬉しい。

  2. 先のコメントで書き忘れた事が一つあり。1985年GW、久しぶりに道後温泉に連れ合いと一緒に行った時、古町車庫を訪問した。伊藤さんがいらっしゃるとうれしいなあとの思いであったが、非番で不在であった。鉄道線留置線の片隅に100形が1両留置されていた。案内してくれた社員さんは?周年記念で復元させ本線走行させる計画だと言っていた。その10年後の夏、今度は単独で古町車庫を訪問、動態保存予定車のその後を伺いに行った。この時も伊藤さんはお休み。10年間、手を入れなかったとみえボロボロの保存予定車が位置を変え留置されていた。その10年後、他用で忘れてしまっていた。今はどうしたのだろうか?伊藤さんも定年退職で現場とは無関係になっておられると思う。

  3. 長老様、
    四国というと長老様、お世話になります。
    でも、こんな昔に、しかも四国の松山でこれほど整った電車が揃っていたとは。自慢ではありませんが私は学生時代に四国だけは行ったことがありませんでした。なぜだろうと思いますがよくわかりません。多分大型機関車がなかったことと、九州や東北、北海道で行かなくてはならない地方が多かったからだろうと思います。
    これからもよろしくご指導下さい。

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