日本煉瓦製造の廃線巡りへ
東京に着いてから、まず秩父鉄道に向かった。三ケ尻線で貨物列車を撮るつもりで武川まで来たものの、なんとプラントの点検で貨物列車は本日まで運休、単機回送のみしか走らないとのこと。行く前から何やら悪い予感がしていたが、ピッタリ的中してしまった。即座にあきらめて、次善の策として計画していた日本煉瓦製造の廃線巡りに向かうべく、高崎線深谷へリターンした。埼玉県にも廃線跡は多いが、“煉瓦”と言う文言が以前から気になっていた廃線跡だった。電動自転車を借りて、深谷駅から続く廃線跡を利用した自転車。歩行者専用道へ入る。
▲日本煉瓦製造専用線の廃線跡で、いちばんの見所は、中間地点の福川と言う河川に架けられていた鉄橋だ。川のすぐ近くに「ブリッジパーク」として、ボックスガーダー(写真手前)と、プレートガーダー(写真向こう)が保存されている。ボックスガーダーは、洪水の際に線路の上流側に水が溜まらないように、水を下流側へ逃がす役目の避溢橋で。桁を四角に組み合わせ箱型の桁としたもの。プレートガーダーは、ポーナルの設計によるこの種の鉄橋としては最古のものと言われている。
日本煉瓦製造は、深谷出身の渋沢栄一などを発起人として明治20年に設立され、東京駅や迎賓館などの建造物に煉瓦を供給していた。平成18年に自主廃業するまで120年間会社は存続していた。当初、煉瓦の輸送は、近くの利根川の水運を利用していたが、輸送力の強化のため、明治28年、深谷~上敷免(かみしきめん)の4.4キロに専用線が開通する。企業の専用線としては、最古のものと言われている。しかし、トラック輸送に順次移り、昭和47年に専用線は休止となる(のちに廃止)。
深谷産の煉瓦を使って東京駅が造られたことの縁で、JR深谷駅は東京駅を模して煉瓦調に建てられている【写真:右上】。スタートしてすぐの唐沢川を渡る「つばき橋」は、鉄道時代のプレートガーダーを再利用している【写真:左上】。バックは高崎線の架線柱で、車内からも見ることができる。途中、中山道深谷宿の常夜灯を見ながら、国道17号を越えると、市街地をはずれ、周囲にはネギ畑が広がって来る【写真:上】。終点に近い、備前渠という水路にもプレートガーダー・橋台がそのまま使用されていた【写真:右】。
↓終点の煉瓦工場付近、煉瓦塀の中がもとの煉瓦工場で、この中に残るホフマン輪窯、旧事務所、変電所は重要文化財に指定されている。当時、工場はもっと広かったようだが、付近は再開発され、下水処理場などが建てられている。終点付近を見届けたあと、深谷の市街地へ転じ、中山道沿いに残る近代建築の探索に向かった。
日煉の話が出てきた。総本家氏の日本の土壌に踏ん張った話に期待したい。というのは大西顧問が煉瓦話に夢中になっていた頃について覚えている会員もいらっしゃるだろうと思う。老人が吉谷のおっさんの訃報を耳にした頃の事だから30年ばかり前の話であるが、顧問は煉瓦に熱を上げていた。同志社人とすればあり得る話で、まず学内の煉瓦建ての建築物に熱が入った。その延長戦で煉瓦製造所の追及となった。その頃に老人は顧問につかまった。老人はアメリカ・インタァ-バンに熱を上げていたが、いつの間にか顧問の煉瓦話に引き込まれていた。その話は煉瓦焼きの窯に及び、京都では西京極にあったと言われ、その地を訪ねたこともある。
ある日、神戸鉄道局と記された絵巻物を広げ、大阪ー京都間の建設譜を拝聴することになった。
終わるや「体調も優れないから、僕の代わりに今も残っている筈の東海道筋の煉瓦遺構を訪ねてくれないか」と言われ、自転車を駆って桂川鉄橋右岸から高槻市北端地区までうろついたことがある。先日、朝の散歩ついでに自宅から近いところを観察に行ったが、まだ残っていた。場所は「ぶんしゅう」氏自宅のほん傍である。こうした鉄道遺産は全国ここかしこに散在している。我々はそうしたものにも目を向ける必要もあると思うのである。
乙訓の老人さま
コメント、ありがとうございます。“大西顧問と煉瓦”については、私もその薀蓄の深さを見学会で聞いたことがあります。昭和50年代後半ですが、鉄道友の会で「旧京都駅の遺構を探る」というようなテーマの見学会があり、私は会員でもないのに、大西さんから誘われて、潜り込みました。京都駅の会議室で、大西さんから京都駅の歴史について聞いたあと、実地見学に行きました。
京都駅西の国鉄バス車庫の裏側で、旧線時代の擁壁跡を確認したあと、現・ハローワーク当たりにあった国鉄官舎の庭へ行くと、そこに無数の煉瓦の破片が散らばっていました。大西さんによると、明治期にこの付近にあった京都機関庫の煉瓦ではないかと言うことでした。さらに西へ行って、京都グランドホテルの北側の粟嶋堂へ行くと、煉瓦の敷石があります。よく見ると、いくつかは長方形ではなく、台形になっています。これも、機関庫のアーチ状の窓、ターンテーブルの基部など、カーブを作るところに使用された煉瓦ではないか、と言う話でした。
大西さんの口角泡を飛ばさんばかりの熱心な姿が今もよみがえります。煉瓦に魅せられた方だったんですね。