珍説飯山雪合戦騒動 上境合戦の段

 準特急さんが飯山線越後鹿渡での狂化合宿のことを「保存蒸機とその現役時代(33)」で雪合戦の写真とともに述べられておられるのを読んで、私も1971年(昭和46年)の2月20日から22日にかけて行われた狂化合宿のことを思い出しました。この時に撮影したC56は111号機でありませんでした。しかし、この時の合宿で珍事というか、とんでもないことが起こったのであります。それは上境駅周辺で撮影していたのですが、列車が来るまで時間があったので例によって雪合戦を行ったのであります。ちょうど小高くなった小さい雪山があったので、上と下に分かれて雪合戦を行ったのです。その時のことが「青信号26号」に書かれてあるので引用いたします。ただし、今となっては不適切な表現があるので一部をカットさせていただきます。

墓上雪合戦の図-1

青信号26号のカット K氏筆耕のカットにはなぜかモグラが登場する。

『・・・、しばらくすると、その小高い山の上から何やら石のようなものが出てきた、と誰かが叫んだので、みんなで見てみるとほんとうに長方形の石の頭のようなものが見えていた。「墓石じゃないか?」と初めは冗談まじりに言っていたのですが、ちょうど地元の人が(注釈カット)が僕たちを見ながら「ヤァ!あの人ら墓の上で遊んでる」(この部分カット)だとさ。それ以来、タタリがあったのか、・・・』

 これでお判りいただけだと思います。雪で覆われた墓石の上に上っていたのであります。びっくりして転がり降りたのです。とにかく雪はすべての物を覆い隠して真っ白にするので美しいのですが、気をつけないととんでもないことになります。そしてその時の鹿渡館の玄関はこんなものでした。(青信号26号のカットより)

鹿渡館-1

同志社大学鉄道同好会指定と書かれた看板がある。

  ではこの時に撮った写真を少しばかり見てください。まずは替佐駅で撮ったものを。雪がふぶいていたが、果敢にも撮影場所まで強行突破しようとしたのでありますが断念し駅周辺で撮影となったのです。

MN00701-飯山線替佐駅 8620機

飯山線といえばC56ですが、8620もご覧のようにデフなしで頑張っていました。これは客レを牽引していました。

MN00702-飯山線替佐駅 86出発前

間もなく出発です。腕木式信号機も現役で働いておりました。当時のDRFCの精鋭に見送られての出発です。

MN00703-飯山線替佐駅 86客レ出発復元

激しく雪の降る中を出発していきました。ところでこの写真を画像処理をしなかったらこんな感じです。見られたものではありません。

MN00703-飯山線替佐駅 86客レ出発オリジナル

汽車は行く行く、光の具合は悪くなる。とにかくシャッターを押したが、ねむい写真となりました。この写真は長い間お蔵入りでした。ところがこの写真は画像処理ソフトのおかげでよみがえりました。まあ、こんな調子でどうしようもない写真をよみがえらせるのも面白いものです。さて、C56の写真で気にいっているのは次のものです。

MN00715-飯山線替佐駅 雪晴れ交換

今まで吹雪いていたのがウソのようです。雪晴れとなりました。今となっては懐かしキハ58との列車交換です。つぎは問題の上境駅周辺で撮った写真です。

MN00721-飯山線上境周辺 C56貨レ

やってきたのは替佐駅で撮ったC56109です。列車のうしろに煙が見えます。どういうことなのかと思うと・・・

MN00723-飯山線上境周辺 C12のお伴

C12がお伴していたのです。このC12は再び私たちの目の前に姿を現したのです。

MN00728-飯山線上境周辺 C12の客レ

C12は3両の客車を牽引してやってきました。正面は黒と黄色のタイガース塗装になっていますので、入換機がアルバイトでもやっていたのでしょうか。ところで、この撮影場所は例の雪合戦をおこなっていたところの近くであったと思われます。「墓の上であそんだはる。(新潟の人が京ことばを???)」と言った地元の人が踏切を渡っていきましたので、たぶん線路際にあった墓だと思います。この墓は今でもあるでしょう。私はこの合宿の最終日に長野電鉄に乗りに行っています。越後鹿渡からですので木島線に乗って湯田中へ行ったことが「青信号26号」の合宿参加記に書かれてあります。

 さて、合宿も終了して解散となり、私はこの合宿の参加記を執筆したY氏とともにあるところへ大旅行を繰り広げたのです。これについて青信号では編集部注としてこのように書かれています。

『この後の彼ら2人のとった行動は不明だが、消息筋の伝えるところによると、某日某時突如飯田線に出現、ユースでヘビの干物を食ったり豊橋~辰野間の各停に通しで乗ったりの奇行をつづけたという。そして、名古屋から特急「つばめ」に乗り、デラックスな旅をするなど当会の会計たる面目を躍如とした。』

一緒に行動を共にしたY氏は当時、DRFCの会計でした。そして、名古屋から特急「つばめ」に乗ってどこへ行ったのかというと、大阪を素通りして岡山へ行ったのです。この時の特急「つばめ」は寝台電車583系の昼間運用で例の寝台部分を座席にして座席間隔の広いクロスシートでありました。当然、自由席でデラックスとはいいがたいもです。この合宿の前には近鉄内部線を訪れています。そして旅の締めくくりは下津井電鉄と井笠鉄道でした。そうです。合宿を挟んだ前後は軽便鉄道の訪問となったのです。そして、この時に訪れた井笠鉄道は最初で最後でした。43年たった今年の10月に井笠鉄道と全く知らない鞆鉄道と尾道鉄道のあった場所を訪れました。それについては近日、いや近週、近月公開?そのうち公開する予定です。何分にもつれずれなるままに書いているのでいつになるかわかりません。やっと三原港到着まで仕上がっているのですが。あれ、何で三原港?それではまた。

3 thoughts on “珍説飯山雪合戦騒動 上境合戦の段

  1. どですかでん様
    飯山線での狂化合宿懐かしく思い出しました。投稿拝見していてそんなこともあったなあと思い出していたのですが、微妙に記憶と違うところがあります。なぜかと思っていたところ昭和46年2月との記載、まだ私が大学入試にもがいていた頃で、合宿に参加するはずもありません。私が参加したのは翌年の2月18日から21日の同じ飯山線狂化合宿でした。どですかでん様の行かれた飯山線の合宿参加記は青信号26号に掲載されていて、この26号は私がDRFCに入会して初めてもらった号で、何度も読み返して、自分の行った時のことと記憶が混じってしまったようです。昭和47年の時にも雪合戦はあったようですが、二手に分かれてという本格的なものではなく、数人で雪を投げ合ったくらいだったような気がします。何か飯山線の合宿は思い出深いものでした。

  2. 後期高齢者となって2年目だが、近々に雁首並べるお友達と雪合戦をした事がある。1976(S51)年だったと思うが、旦那さま先頭に8人の中年男が急行日本海で津軽鉄道訪問で出発したのは松の内14日夜であった。秋田で1人加え総勢9人となり、ストーブ列車で暖を摂りつつ一杯やる筈が 当日はいまだに高校冬休み中で列車は運休中であった。雪はしんしんと周りの景色を消していく中で誰が言い出したのか「雪合戦しよう!」となった。芦野公園に舞台を移し、2手に分かれての大騒動となったのは言うまでもない。ふと敵味方の人数を数えて見ると8人、一人雪の中を撮影に赴いた輩が居るようだ。吹雪の中、誰が誰やら判断不能の中での行動。後で斜陽館での夕食で不埒な輩は判明したようだが、どなたか雪合戦の時の姿を映した方はいないのだろうか、昨年黄泉の国へいった天野君も一員であった。

  3. 大津の86様 乙訓の長老様
    早速のコメントありがとうございます。大津の86様は次の年に鹿渡にいかれたのですね。ところでこの時私は何をしていたのでしょうか。あまり、記憶にありません。もう一度、雪のあるときに行ってみたいと思っています。乙訓の長老様も卒業後であっても、ますます元気に雪合戦などで大騒ぎをされていたようで何よりです。しかし、1月に津軽鉄道芦野公園で雪合戦とは映画「八甲田山」ではあろまいし、大丈夫だったんですか。そういえば今日亡くなられたことが伝えられた高倉健さんはこの映画主演をされていました。まあ、激寒の北海道で写真を撮りに行く強者ぞろいのDRFCメンバーであればどうでもないことでしょう。また、お会いした時面白い話をしてください。
    ところで投稿を終わってから近くの図書館に行くと、中公新書で佐藤喜一著「鉄道の文学紀行 茂吉の夜汽車、中也の停車場」という本があって、パラパラめっくっていると替佐駅の項目がありました。この本で替佐には童謡の「故郷」や「朧月夜」「春の小川」などを作詞した高野辰之さんの生家があったことを知りました。東京から故郷替佐に帰郷するときにどのような列車で帰ったのかと推理しているところが興味深く、面白い本です。鉄道趣味がいろいろな広がりを感じさせる本です。

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