夏の思い出2017-3 「はしだてビーチ」

前掲の江若鉄道で行く湖水浴は、京都から近いものの、琵琶湖の水は、汚れ放題のうえ、ナマ温かく、砂浜も狭くて、とても快適な水泳場とは言えませんでした。やはり、海の魅力には勝てません。“水のきれいな日本海へ”の国鉄キャッチフレーズに誘われて、丹後・若狭の海へ行く客が増加していたのも、この頃で、大阪・京都からは、多数の臨時列車が運転されました。 そんな中で、昭和42年から、京都から宮津線天橋立へ向けて、寝台車を利用した冷房付きの臨時急行「はしだてビーチ」が走り始めました。本欄でも断片的には紹介しましたが、改めて「はしだてビーチ」の歴史をたどってみました。昭和42年7月21日から走り始めた「はしだてビーチ」、京都駅2番ホームから発車した。向日町からEF58に牽かれて駅東の引き上げ線で転線し、2番ホームに据え付け、福知山区のC57が連結された。

C57との連結部、当時は「2等寝台車」で、「はしだてビーチ」の琺瑯製のサボも掲出されていた。 時刻表の臨時列車ページに掲載の「はしだてビーチ」、最盛時期には京都発の臨時の普通・急行が5本運転されていた(1967年7月号)。

昭和42年7月21日から8月10日まで運転の京都~天橋立「はしだてビーチ」は、新大阪~広島の寝台列車「音戸」の“ヒルネ”の間合いを利用して、5号車~11号車のハネ7両編成の寝台をたたんで座席に転換した、冷房付きの座席指定の臨時急行だった。冷房付き客車はグリーン車、寝台車、食堂車に限られ、座席車では皆無だった時代、いちばん暑い時期に冷房付きの列車に乗って海水浴に行けるのは画期的だった。
ダイヤは、京都9時25分発、天橋立12時35分着、折り返し13時05分発、京都16時42分着で、直ちに向日町に送られて、寝台をセット、新大阪発の「音戸」として使用される昼夜兼行のフル運用だった。牽引は綾部までは福知山区のC57、西舞鶴まではC57またはD51、そして宮津線内は西舞鶴区の9600の牽引となる。“キューロク”の急行も当時でも無かったことだった。
「はしだてビーチ」は、昭和45年から大阪発播但線経由天橋立行き「はしだてビーチ2号」も運転され、京都発は「はしだてビーチ1号」となった。また客車は、昭和46年からは、万博輸送の終わった12系客車に変更されており、寝台車利用は4年間の夏だけだった。また牽引機も京都~綾部は、昭和44年からDD54に置き換えられたが、C57が代走することも多々あった。昭和43年の「はしだてビーチ」も、同じ期間、同じ編成で運転された。牽引機までも同じC57152だった。当日の編成もメモしていた。C57152+ナハネフ1221+オハネ1224+オハネ128+オハネフ1290+オハネ1233+スハネ1640+ナハネフ1222
「はしだてビーチ」は8月10日で運転を終了したが、そのあとも引き続き同じスジで、京都発天橋立行き臨時急行「丹後6号」9913レが運転されていた。寝台車ではなく、一般客車の編成で、お盆時期の帰省客用の設定のようだ(京都~丹波口)。
昭和44年7月、当会の合宿が宮津線・加悦鉄道であり、メンバーとともに舞鶴線・宮津線に遠征し「はしだてビーチ」を撮影した。写真は、西舞鶴に到着するD51944の牽く「はしだてビーチ」
西舞鶴で方向が変わりキューロクが連結され11時48分に発車、宮津線に入る
宮津線丹後神崎付近の下り「はしだてビーチ」、見るからに暑そうな雰囲気で、淡い煙しか上がっていないが、車内は涼しく快適そう。ただ写す側はホント暑かった。以前、KAWANAKAさんも記しておられるが、余りの暑さに脱落者が続出した合宿だった。
由良川の鉄橋まで行くと風が吹き抜けて、少しマシだった。天橋立に着いた「はしだてビーチ」はすぐ折り返して、下り京都行きとなる。
昭和44年からは、山陰本線京都~綾部の牽引は、名目上DD54牽引となったが、結構、C57が牽いて来た(二条)。
馬堀の築堤上でブルーの車体をギラリと輝かせて京都へ急ぐ。
京都駅2番ホームに到着した「はしだてビーチ」、右手に待機するEF58が見える。客車はすぐ向日町へ回送され、「音戸」に仕立てられる。
昭和45年になると、万博輸送で大量投入された12系客車に変更され、どこにで見られる列車になった。舞鶴・宮津線の牽引機もDE10に代わった(真倉付近)。

結局、蒸機の牽く寝台車利用の「はしだてビーチ」は昭和42~45年の夏、正味運転日が3年間で60日余りの運転だった。まだ冷房車が高嶺の花の時代、輸送が逼迫するものの、車両も不足していた時代に、苦肉の策で生まれた「はしだてビーチ」だった。ところで寝台車の間合い利用の臨時列車の例は、「はしだてビーチ」だけかと思っていたら、東北本線でも、急行「新星」の寝台編成の間合い利用した上野~黒磯に夏季のみ運転の「くろいそ」があった。

 

9 thoughts on “ 夏の思い出2017-3 「はしだてビーチ」

  1. 総本家青信号特派員様

     毎日続く暑さにうんざり、ぐったりですね。
     こういう時に「はしだてビーチ」よろしいですなぁー。蒸気が引く寝台車7両、こんなのに乗って、ビール飲んで・・・今走っていたら・・・夢物語ですね。
     丁度その頃、会社の同期生会でぎゅうぎゅう詰めの超満員のDC急行で竹野へ行ったことを思い出しました。旅情もへったくれもありませんでした。

  2. マルーンさま
    コメント、ありがとうございます。その当時、冷房車が貴重な時代ですから、冷房車に乗って海水浴へ行くなど、最高の贅沢でした。喉をカラッカラにして、冷房車のなかで、ギンギンに冷えたビールを飲む、もう最高です! 片や、冷房無し、ぎゅうぎゅう詰めのDC急行とは、天と地ほどの違いですね。
    来たる日曜日に、米手さんの入選写真を肴に、同じように冷えたビールの体験ができると聞いています。楽しみにしています。

  3. はいはい!
    せいぜい笑いものにして下さい!!
    私もこの時代にC58に牽かれたオハ61やオハ35に乗って若狭和田や若狭高浜に行きましたね。降りてからも民宿までの砂利道を昼下がりの太陽に照らされて歩いたのを思い出します。着いた民宿もクーラーなし、蚊帳と蚊取り線香、くみ取り便所と草いきれ。懐かしいねぇ~

  4. 米手様
    “酒の肴に”など、言葉足らずで失礼なことでした。“名作を肴に”と訂正いたします。ビールが進みそうで、楽しみにしています。
    当時の海水浴のの様子、聞かせてもらいました、私も、小さい頃、若狭和田の民宿へ何回か行きました。私にとっては、初めての田舎暮らしの体験でした。泳ぎ疲れて民宿の畳に寝そべっていると、開け放った窓を向こうを、“ファーン”と鳴らして小浜線のDCが通り過ぎたのを覚えています。

  5. 初めまして。はしだてビーチ号で探していて、こちらを見つけました。9600牽引の急行、まして10系寝台なので模型で再現出来たらなどと思っています。編成のメモを記されていますが、両端がナハネフ12となってますが、写真を見るとオハネフ12ではないかと思いますが如何でしょうか。音戸の5~11両目を使用とのことですが、これだと片側の端がスハネ16ですが、両端は緩急車でないのって思っています。もし分かればコメント頂けると助かります。

    • addy様
      「はしだてビーチ」の写真を見ていただき、ありがとうございます。両端の「ナハネフ12」は、存在しない形式ですね。ご指摘のように「オハネフ12」が正しい形式です。細かいところまで、チェックいただき、ありがとうございました。寝台編成をキューロクが牽くと言う、およそ常識外れの列車でした。輸送が逼迫していた、この時代ならではの列車でした。写真が模型づくりの参考になれば幸いです。

      • 総本家青信号特派員様
        早々の返信痛助かります。9600は大好きな罐です。冷房車の代用とはいえ寝台車を本線で引いていたなど、こちらを拝見するまでは想像すらできませんでした。貴重な情報ありがとうございました!

  6. 初めまして
    「はしだてビーチ号」で検索し、こちらにたどり着きました。
    私が小学生の頃、この急行に乗車しました。
    朝、京都駅から家族で乗車しました。
    座席はABCの3人席に4人座る構成でした。
    冷房が非常にきつく寒かった記憶があります。
    当時から鉄道が大好きで、殆どお目にかからない
    C57に引っ張られた時は大きな驚きでした。
    これを機会に子供ながら10系の寝台車の大ファンになりました。
    今見てもかっこいいですね。
    帰りは天橋立で落雷による信号機故障で結構、駅で待たされたのを覚えています。
    当時はカメラなど持っておりませんでしたので
    貴重な写真を拝見し、大変感激しております。
    9600の件、知りませんでした。
    時刻表も非常に参考になります。
    私は「銀河」の車両を使用していると思っていましたが
    「音戸」だったのですね。ということはC59とかC62にも
    引っ張られていた車両ということでしょうか。感慨深いです。

    • Charlieさま
      記事をご覧いただき、ありがとうございます。実際に「はしだてビーチ」に乗られたとのこと、貴重な体験ですね。冷房がガンガン効いていて、寒い程だったとは、ほかでも聞いたことがあります。冷房車などまだ貴重な時代、その寒さも良き思い出ですね。
      車両は京都~広島の「音戸」の間合い利用でした。たしかに、同じ車両を、昼は9600が牽き、夜はC59・C62が牽いていた訳ですね。改めて思うと、これも貴重な例です。乗客が増えて、車両が逼迫し、昼夜兼行で別の列車として運転した、まさに昭和ならではでした。

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