永年の謎が解けました

昭和44年に初めて片上鉄道を訪れたとき、国土地理院1/25000の地図「片上」を入手したのですが、その地図は昭和31年発行版で まだ赤穂線もなく、片上鉄道だけというものでした。よく見ると 片上駅の先の煉瓦工場から西に向かって「特殊軌道」が伸びており、伊部の煉瓦工場に向かっているのがわかります。この特殊軌道がどんなものだったのかという疑問を永年抱いていたのですが、この度ようやく謎が解けました。とは言え、軌間、車両などはまだ判っていません。この軌道は「品川白煉瓦」の専用軌道であることが判ったのです。

先月 備前焼まつりに出かけたとき、東片上の郷土資料館を訪ねて 手がかりを掴み 岡山県総合文化センターから「品川白煉瓦株式会社100年史」を取り寄せて、このトロッコ軌道のことが見えてきました。

伊部にある煉瓦工場は当時 備前陶器株式会社の工場で 明治39年には製品を片上港(浦伊部)まで運ぶために3.2Kmの手押しのトロッコが敷設されていたそうです。 備前陶器は日本窯業株式会社を経て 品川白煉瓦の岡山第一工場と名前を変えてゆきますが、昭和3年に浦伊部 すなわち片上駅の先に第二工場が建設されると、第一工場と第二工場間の専用軌道となり、昭和32年頃まで使用されたようです。従って昭和31年版の地図に載っていてもおかしくないことになります。

明治38年当時は「中村組」が請け負って人力でトロッコ輸送していたが、明治末期には馬12頭を持って 常時5~6頭でトロッコを曳かせていたらしい。大正7年頃「難波組」に引き継がれ、御者1名を乗り込ませ馬にトロッコ2台を曳かせたが、単線のため 中間地点の殿土井橋付近に上下退避線を設け、御者と馬の休憩所とした。昭和4年頃には馬15~16頭を持ち、トロッコ台数も42台と増えている。ところが昭和6年に満州事変、12年の日華事変で次々と軍馬として徴発されてしまったため その代替としてガソリン機関車を購入したとある。社史には馬の曳くトロッコやガソリン機関車の写真は見当たらず、未だ謎のままです。どなたかこのトロッコや機関車についての情報をお持ちの方は教えてください。

なお第二工場には昭和19年10月に片上鉄道の側線0.6Kmが入り、その後製品は片上鉄道で出荷できるようになり、特に後年ワム80000などのパレット対応型貨車の登場で 効率化が図れたとの記事もありました。片上駅に多くのワム80000がたむろしていたのもうなずけます。

それにしても燃料が枯渇する戦時にあって 馬からガソリン機関車に切り替えるというのも、不思議な気がします。なおこの軌道跡は県道となっており、遺構を見つけることはできませんでした。広大だった片上駅跡には かつて柵原鉱山から到着した硫化鉱を船に積み込むためのハンプのような登り勾配の線路が一部残されていました。

永年の謎が解けました」への1件のフィードバック

  1. 興味ある投稿を読ませていただきました。
    気付いたことを一つ二つ。
    白煉瓦というのは耐火煉瓦のことでしょう。
    北九州あたりでは塀の建築材に製鉄所の溶鉱炉で使用済みのものがよく用いられました。
    あと昭和19年の馬力→内燃化ですが、おそらく戦時中の増産で搬出量が増えて
    追い付かなくなり、踏み切るだけの理由、国策で優先的に燃料供給の保証があったとかが考えられます。

    入手の地図が古くて赤穂線開通以前。これは偶然の面白さで、赤穂線開通で消えた
    路線は赤穂鉄道と西大寺鉄道くらいと思っていたのですが、知られざる鉄道発見で、興味は尽きません。
    今では備前焼で有名なこの辺りの地区ですが、陶業、窯業の分野では三石の煉瓦造りも有名でした。今でも三石駅の貨物ホームの跡や付近に残る煉瓦積みの煙突群に往時を偲べます。
    片上港の駅も想像以上に広く、同和鉱業の鉱山鉄道は瀬戸内海の水運を前提に敷設されたことがよく解ります。

    戦後重化学工業でプラント重点の県となった岡山ですが、それ以前は藺草や莚などの農業加工製品や煉瓦やべんがらといった地質的な特産が代表だった頃の古い素顔を思い出し懐かしく感じました(私は何歳だ!)。

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