藤田さんからお借りした写真も残り少なくなりました。
まだまだご紹介しきれない物があるようですが、取りあえず今回で一旦終わりにいたしましょう。
藤田さんには、突然飛び込んできた男に快く作品写真をお貸し頂き、感謝に堪えません。全てを掲載できなかったことをお詫び申し上げます。また、お貸し頂ける物がありましたら、秘蔵品が発見されましたら、発表させて頂きますので引き続きお願い申し上げます。
今回は今までに発表できなかった写真をランダムに掲載いたします。
① 梅小路機関区
トンネルは下水の川で今はない。C11311
② DL化後の梅小路区
③ 京都駅に侵入する山陰線50系客車列車
④ 大山崎を行くEH109 われわれは『マンモス機関車』と呼んでいた。
⑤ 『きぼう』堂々の12連 日本に人口が増えていく、活気があふれていた頃。
⑥ サハ48←サハ49←サロハ49←クロハ49←クロ49(皇室専用車)
⑦
⑧ 宇野駅にて
⑨
⑩ 大宮陸橋下
⑪ 急行『加賀』
⑫ 『わかくさ』
⑬ 快速『近江路』アルバイト運用?
⑭ 117系の前の“新快速”
⑮ 万博の頃、井原氏の痔疾が悪化したという大阪市交60系の乗り入れ
⑯
⑰
⑱
⑲ 特に乗り心地がいいと1900生さんがいう2800第4編成
⑳
㉑ 西宮北口今津線との交差
㉒ 能勢電 鼓滝ー鶯の森
㉓
㉔
㉕
㉖
永らくありがとうございました。
会員の皆様、京都鉄道博物館へお出かけの折には、島原大門へ足を伸ばして『菱屋』さんの「うすばね」をお土産に!
関連
米手作市 様
今回も大好物の旧国が・・・。 しかも、モノクロなのに茶色一色が心にグンと響きます。
さて⑥の件で、光栄にもご指名を頂き有頂天になっております。
この車両の出自は、何を隠そう葉山御用邸が沿線に有る横須賀線用の皇族専用車で、1931年に製造されました。
その経歴はどちらかと言うと『曰く付き』で、新製時はクロ49でしたが、戦後クロハ49となって格下げ一般車化され、同時に伊東線に転じました。
その後、サロハ49への改造を経てサハ49となり、更に手の込んだ整形手術を受けてサハ48の40と41になった経緯がありますが、その間終始伊東線に居たようです。
それが、新性能車(113系)化による余剰と宇野線の増強とがマッチして転属し、岡山国電となりました。
実はこの電車は、形式が49番の時代は2か所のドアが前後非対称の変則位置にあって、使い勝手が悪かったようです。
そのためか、最終的には変則位置に有ったドアを埋めて、わざわざ車端寄りに空け直したコダワリの大手術となり、サハ48に編入されました。
以上、経緯が複雑で『うろ覚え』で書いても失礼故、手持ちの『蔵書』を総動員して『確認、確認』の解説になりました。(笑)
ご解説ありがとうございます。
言われてみれば窓配置が変わっていますね。客車なら窓を見れば種車の種類は推察できますが、電車は見分けが付きにくく苦手です。
他の車両もお判りの範囲でお教えください。
米手作市 様
ボケ老人が、『カラ―』の茶色で感激した後、意識朦朧(笑)となってしまったようです。何を勘違いしたのかレッキとした『カラ―』を『モノクロ』と思い込んだ記述となり、自分自身が驚いております。お詫びして訂正致します。
22は現在の能勢電の鼓滝-鶯の森ですね。駅間の川を渡るところだと思います。
やっぱり能勢電ですか。
阪急線には見かけない風景だと思いました。ミゼットが走る風景がいいですね。
米手作市様
①のC11ですが、C11311だろうと思います。昭和49年に私も撮っています(正確な月日は不明)。①はターンテーブルにつながる扇形線上ですが、私の写真は別の機留線上です。メインロッドは外され、ナンバープレートも剥ぎ取られてペンキ書き、戦時型角型ドームから同じ機だと思います。同機は昭和51年3月31日梅小路区で廃車となっていますが、メインロッドが外されていることから、どこか他の区で休車にでもなってなぜか梅小路に回送されてきて梅小路でご臨終になったのではと推察します。
間違いありません。311です。私も撮っています。ずっとあそこに止まっていて動いたのを見たことがないのでご推察通りかと思います。
米手作市さま
19葉目の写真なのに京阪1900ではなく、敵の阪急2800とはこれいかに。
冗談は別にして第4編成ですね。2800系唯一の空気バネ台車を履いた、2800にしてはすこぶる乗り心地の良かった編成です。空気バネ台車は何故か1900の殆どと同じ汽車会社のKS70でした。何故たった一編成それも対岸の1900と同一だったのでしょうか、謎のままです。高橋さんにお聞きしておくべきでした。
懐かしい写真ばかりですが1葉目のDF50が牽くのは準急「白兎」ですかねえ。客車からみると白兎のようでもあり、一方DF50機の塗色がDD51に合わせたオレンジになっているところから、後のローカルかもしれません(小生の知る白兎は栗色DF50の牽引でした)。
阪急に関する懐かしい写真の数々、思わず魅入りました。
万博時代、西宮北口のダイヤモンドクロス、今でも魅力的な2800系特急、よろしいですね。
解説をする力などありませんが・・・特に貨車に関しては、車掌研修の時徹夜で工事の際乗ったことがありますが・・・
日本万国博では、大阪市交堺筋線乗り入れが始まり、阪急は3300系、市交は60系が投入されました。最新鋭車両だったんですね。冷房はない時代でしたが・・・千里線に当時は準急が万博用に走りました。淡路からの停車駅は、吹田、関大前、南千里、万国博西口、北千里と一つ飛ばしの停車でした。また、神戸線、宝塚線から万博直通が乗り入れたきました。1112は宝塚線からの乗り入れと思われます。開幕当初はそれほどのお客さんはおられませんでしたが、夏休み以降は凄いことになった記憶があります。ずっと車掌でした。またお話しする機会をと思います。
今はなきダイヤモンドクロス、能勢電、1100の宝塚線の急行、1600系の北千里行き1600はP-6のモーターを積んだパワフルな電車でした。
懐かしい思い出がよみがえります。
さすがはマルーン会長様、ご高説感謝します。
15は、エキスポ準急北千里行が南千里駅に入るところですが、後続の各停がこんな近距離に続いていても良いのでしょうか?路面電車みたいです。
60系は、阪急線内を走った史上最低の電車でしたね。車内が安っぽく、60系に乗らざるを得ない時は立っていた方が尻の為にマシという腰掛でした。特に6014編成がひどかったです。
井原さま
小生も写真を見た時に一瞬近いなあと思いましたが、おそらく後続電車の所に信号機があり、赤を現示していたための停車だと思われます。ここまでは通常運転の範囲ですから問題はありません。これを越えるとちょっと問題が生じますが、一定の条件が揃えば低速で進入できないこともありません。本ケースの場合は目視できていること、前方に駅停車中の電車が居ること、等から後続の運転士にはハッキリと赤信号の理由がわかりますから、先行電車の発車後の信号現示の変化(赤→橙)を待って進行したはずです。近いように感じますが当時の編成は5両なので18m×5=90m以上の間隔(実際は余裕をもって設定します。写真では150~200m位でしょうか)があれば信号機を設置できます。因みにJRは貨物(昔は長編成の特急や急行など)が走るため、一般に私鉄にくらべると信号機間隔が長くなっています。その点からも近いように感じる面もあるかと思います。
1900生様
よくわかりました。私は阪急電車によく乗っていましたが、追い抜き以外で先行列車が見えた経験はありません。でも専門家がおっしゃることですからそう珍しくもないことですか。⑮は通過駅のあるエキスポ準急に後続の「各停」が追いついているので、万博で余程混んで乗降に時間がかかって遅延したのでしょうか。
井原さま
恐らく乗降に手間取って追いつかれた、まあそんなところでしょうね。確かにこういうシーンは朝のラッシュ以外は滅多にお目にかかることはありませんね。お近くだと朝の淡路でしょっちゅう見られるはずです。まもなく見納めになりますが。昼間時はたいがい注意現示(橙)で徐行しているうちに青現示となり進行!となることが多いようです。
余談ですが阪急の定時運転方式も要因の一つかもしれません。このあたりのことはマルーンさんに解説して頂かなければなりませんが、かつて阪急は一般他社の出発定時方式と異なり到着定時方式を採用していると聞いたことがありました。これは読んで字のごとく、出発時を定時とするか到着時をそうするかの違いです。実際にどう違うかは中々説明しずらいのですが、仮に定時運転中の場合であっても、前者の場合は出発時に時刻調整をすればよいとの意識から早め早めの運転となり、後者の場合は到着が定時であればよいため次駅までの運転に余裕が生じる、ということがいえます。
どちらがどうかは判断しにくいですが、旧国鉄が出発定時でスタートしていたため、わが国では国鉄に倣ってこれが一般化したようです。