幌延町営軌道

泰和車両製5tDLの引く混合列車(問寒別市街~宗谷)

幌延町営軌道を訪れたのは、昭和44年9月8日一度だけである。前日の夜、札幌21時発急行「利尻2号」で出発、確か何名かのDRFC会員の方と一緒であった。旭川には日付が変わらない内に到着するためか満員で立ち客も見られた。旭川で半数以上の乗客が降り、機関車がC5516と交替した。深夜の宗谷本線を走り、幌延に4時57分に到着。通過した問寒別に戻るため、5時40分発上りの一番列車(336D)に乗り、6時11分に到着した。簡易軌道のりばで時刻表を確認すると、20線発の列車が8時10分に到着することが判明し、それまでの間、構内の廃車体や、問寒別駅を発車する「59689」の引く下り貨物列車、キハ22×2の下り1番列車(335D)を撮影した。町の外れで、DL+無蓋車+有蓋車+客車を撮影後、事務所に挨拶に行き、お話を伺った後、次の目的地「歌登町営軌道」に向かうべく324Dに乗車した。

【沿 革】

前身は、問寒別駅を起点に上問寒別16線に至る13.8キロの馬力線で、昭和5年9月10日に使用開始した。昭和14年8月14日豪雨による水害のため全線で運休、翌15年には運行を休止した。同年9月終点付近で砂クロームを採取していた「日本白金クローム㈱」が路線の応急修理を行い、20線を経て採鉱現場までの間4.3キロを建設して鉱石輸送を実施した。昭和16年9月、運行組合、北海道廰、天塩鉱業㈱の3社で協議の結果、天塩鉱業㈱が全線を無償で借り受けて運行することになった。同社は日本白金クローム㈱の延長区間を買収し、路盤、線路の強化を行い、翌17年9月より蒸気機関車1両、ガソリン機関車2両を導入して動力化した。昭和20年8月、敗戦により砂クロームの採掘が中止となり、20線から先の採掘場までの線路が撤去された。昭和22年6月北方産業㈱による石炭採掘の開始に伴い、20線~炭鉱間約3キロを伸延して石炭輸送を開始。昭和27年9月1日、幌延村が天塩鉱業㈱の所有部分を買収して村営化した。この時の動力車は、ガソリン機関車で7t車1両、5t車3両、1t車1両の5両であった。翌28年には7tのディーゼル機関車を導入したが、昭和31年12月車庫火災により全動力車が罹災し、その復旧費が経営を圧迫することになった。加えて昭和33年11月10日経営不振により炭鉱が閉鎖され、閉山処理が終了した昭和35年11月28日をもって20線~炭鉱間の運行を休止した。その後は、地域住民の旅客輸送、雪印乳業問寒別工場への生乳輸送、北海道大学天塩演習林からの原木輸送等で役割を果たしていたが、昭和43年以降、並行する道路の路盤改良と冬季の除雪が開始された結果、存在意義を失ってしまい、昭和46年5月31日をもって運行を終了し、7月3日に廃線式が実施された。

【車 両】

昭和44年10月時点での在籍車両は、次の通りである。

ディーゼル機関車8両、内訳/昭和30年旭重工業製8t(昭和31年幌延炭鉱より購入)、昭和28年日立製作所製7t(昭和32年4月泰和車両にて更新修繕)、昭和29年日立製作所製7t(昭和32年4月泰和車両にて更新修繕)、昭和35年泰和車両製7t、昭和37年加藤製作所製7t、昭和38年泰和車両製7t、昭和38年泰和車両製6t(除雪装置付)昭和42年泰和車両製5t

牽引客車2両/昭和25年日本鉄道自動車製で昭和39年に車体更新し、木製車体に鋼板を張りニセスチール化した。(昭和31年11月当別線より転入)

6t鉄製有蓋貨車2両、内訳/昭和35年釧路製作所製、昭和36年泰和車両製

鉄製運材車50両

自走客車は最後まで入線しなかった。

 

昭和42年泰和車両製5tDL/廃止後、幌延町役場前の名林公園に牽引客車1両と共に保存されていたが、老朽化が激しく平成3年に惜しくも解体されてしまった。

 

牽引客車/上窓がHゴムになっており、鋼製車のように見えるが、実態は木製車体に鉄板を張っただけのニセスチール車。1両は5tDLに連結されて保存されていたが、惜しくも解体されてしまった。

 

6t鉄製有蓋貨車/昭和36年泰和車両製

 

昭和25年天塩鉱業自社工場製2軸客車の廃車体

 

ロータリー車と思われるが正体不明の廃車体

【運 行】

昭和44年10月時点での運行状況は、問寒別市街~20線間を混合列車2往復であった。別添の時刻表の通り、5月1日~10月31日と11月1日~4月30日とは運行時刻が異なっていた。問寒別市街~20線間16.3キロの所要時間が1時間というのは、あまりにも遅すぎであり、冬ダイヤでは20線の到着時刻と発車時刻が同じになっている。同じ列車が折り返すので、そのようなことはあり得ず、実際には10~15分前に到着していたものと思われる。

 

【その他】

問寒別~20線間に「宗谷」「4線」「8線」「16線」と4箇所停留所(すべて4の倍数である)が存在したが、「宗谷」=「第二問寒別」、「4線」=「中問寒第一」、「8線」=「中問寒第ニ、「16線」=「上問寒第一」、20線=「上問寒第ニ」と別の名称を持っていた。

三角表示の運賃表は括弧書きで「別名称」が書かれており、問寒別の駅名表示の次駅表示は画像のように「第二問寒別」と書かれていた。この辺りの関係は、聞きそびれてしまったが、今でも気になっている。

運賃は問寒別から「宗谷」まで20円、以下「4線」40円、「8線」50円、「16線」60円、「20線」70円であったが、11月1日~4月30日間は各区間10円割増となっていた。

【参 考】

 

幌延に到着したC5516の引く「利尻2号」

 

簡素な佇まいの問寒別駅

 

59689の引く下り貨物列車

 

59689のサイドビュー

下り335D(キハ22×2)

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