50年前の撮影地を歩く -21- 宗谷本線編

塩狩

旭川を出ると、比布、蘭留、塩狩、和寒、士別、風連と好ましい響きの駅名が続きます。そのなかで、塩狩はいちばん再訪を望んでいた駅でした。塩狩峠の頂点にある駅で、50年前は、20‰勾配に挑むC55の力闘もさることながら、駅前徒歩1分にユースホステルがあり、ここに宿泊したことが最大の思い出でした。旅館に併設された民営ユースホステルで、なんと言っても温泉を引いた浴場が、ある意味で名物でした。残念ながら、その恩恵に預かることはできませんでしたが、泊まった翌朝、食事前の散歩を兼ねて、ユースのゲタを借りて駅周辺で撮影したことが思い出されます。50年ぶりの塩狩での下車、峠の駅だけあって、深雪に覆われ、物音ひとつ聞こえない、乗降客ゼロの静かな世界が広がっていた。

塩狩で交換する、左:名寄発旭川行き332D、キハ22 右:貨物395レ DD53 1〔旭〕+D51 14〔名〕(昭和43年9月)▲▲ほぼ同一地点、下りホームから見た塩狩駅、旭川からキハ54に乗って到着した。峠だけに雪は深く、目分量で約150センチの積雪だった。

塩狩は、大正5年に塩狩信号場(所)として設置された。もともと地名も無いような人跡未踏の地、旧国名の石狩と手塩の境に当たるところから、両方の地名を採って、塩狩と名付けられた。大正13年、駅に昇格した。両方向から20‰勾配が続く、文字どおり峠の駅だった。50年前の当時、大部分はキハ22を中心とした気動車だったが、客車列車も2往復あって、旭川区のC55が牽引、貨物列車はD51だった。また貨物、旅客の大部分には、蘭留、和寒から補機が連結されており、訪問した時には、冬期には除雪車として活躍するDD53が、夏期のため補機として活躍していた。

駅舎の前には墨痕鮮やかな駅名標が掲げられていた。下りホームの駅名標は、まるで“かまくら”状態

ホームは、千鳥配置の対向式で北海道によく見られる構内配線、当時あった中線一本はその後に撤去されている。交換する325D(左)と、遠軽発札幌行き「紋別」、「紋別」のルートは、遠軽5時30分発で普通で出て、紋別で急行に変わり、名寄本線経由で宗谷本線から札幌へ向かうもの。こんなルートで急行への需要があったのも時代を感じる。▲▲同一地点は雪の壁ができていて対比は不可能、下り方のホームからの撮影となった。見える景色は違うが、雪が無くなれば、50年前と同じ光景があるはずだ。駅舎側のこちらの本線が一線スルー状になっており、上り列車は右側通行で入線して来る。

50年前の塩狩駅周辺には、前述のユースホステル以外にも、数件の民家があったと記憶しているが、そのあと周辺は過疎化が進み、ユースも平成18年に廃業、温泉も止められた。駅も昭和59年には無人化された。運転要員は配置されていたが、電子閉塞化により完全無人化となった。

この時代、『氷点』の三浦綾子が、明治期に塩狩で実際にあった長野政雄氏の殉職事故を題材に小説『塩狩峠』を執筆し、塩狩の存在が次第に知られるようになっていた。国鉄の撮影協力も得て昭和48年には映画化もされた。三浦綾子の旧宅が、三浦綾子記念館として塩狩駅前に移築、観光地として一時は脚光を浴びたものの、長くは続かず、今ではほとんど訪れる人もいないようだ。

現在、駅前にあるのは、かつてのユース付近に新築された宿泊施設、塩狩ヒュッテと三浦綾子記念館だけだ。国道40号にも近く、路線バスも通るものの、ネット資料によれば、半径500m以内に4世帯5人、さらに半径2km以内でも9世帯15人のみが住むだけで、一日平均乗客は当然0人で、JR北海道からは廃止予定駅に挙げられている。

 

例年に無く積雪量の多い宗谷本線では、DE15による除雪列車が運転されている。

宗谷本線を賑わせている最近の話題は、なんと言ってもラッセルだ。なんでも、遠方から飛行機で来て、レンタカーで雪道を疾駆して、何度も追っ掛けをする輩も多いらしい。DLがラッセルを付けて走るだけで、なぜそんな情熱を捧げるのか、全く理解できず、最初は気にも留めなかった。ただ、現地へ行ってみると、やっぱり気になる存在になってきた。たまたま一緒になった大阪から来た方にダイヤを教えてもらい、駅構内で到着を待つことになった。ほぼ時刻どおりにラッセルは到着し、交換する特急が相当に遅れているため、塩狩でたっぷり停車、じっくりとその姿を観察することができた。ナマで見るラッセルは、ウイングが白く化粧し、赤い車体も映えて、4個ライトと旋回窓は、なかなかの迫力、追っ掛けの気持ちも分からないではない。貨物390レの先頭に立つ補機のDD531〔旭〕、DD53はロータリー式除雪車として、昭和40年から3両製造された。旭川に1両、東新潟に2両が配置された。この1号機は、碓氷峠鉄道文化むらに保存されている。塩狩駅構内の395レ、DD531〔旭〕+D51 14〔名〕。時刻は朝7時42分、ユースの食事前のひととき、散歩がてらに撮影しに行ったことが今も思い出。▲▲DE15 2511の雪351レが到着した現在の同一地点、背後の山の形など変わらない。50年前に訪れた塩狩峠、なかなか開けたところが見つからない。防雪林とブッシュばかりで、思いあまって、手近にある場内信号機の梯子を上って、そこから撮影した。上:仁木発稚内行き321レ C55 50〔旭〕 左:旭川発稚内・上興部行き325D キハ22 14+キハ24+キハ22  ここまでは良かったのだが、揚々と駅へ引き上げると、駅長から叱責を受けた。なんと、その日は宗谷本線にお召し列車が運転される日だったのだ。通過まで、あと数時間、撮影した列車には、多数の監視員も同乗していたのだろう。しっかり撮影現場を目撃され、駅に連絡されたようだ。若気の至りもあるが、お召し列車前の無謀な行動を恥じたものだった。

陽が暮れてくると、急に気温が下がってきた。駅の温度計は零下8度を示している。時間つぶしと、体温保持のため、付近の探索に出かけたが、深い雪と、全く人気のない周囲にすっかり気が萎えてしまい、そそくさと駅へ戻り、待合室で一人身を縮めて、乗車する列車をひたすら待った。

 

 

 

4 thoughts on “ 50年前の撮影地を歩く -21- 宗谷本線編

  1. 総本家青信号特派員さま
    よくぞ凍死にならずによかったです。まだまだお若くて居られるのはご同慶の至りです。50年前の懐かしいシーンを有難うございます。小生にとっての塩狩の記憶はまさにご紹介のような雪の壁そのもので、有名撮影地と聞いてKAWANAKA氏・西村氏と3人でわざわざ訪れたものの、これというポイントも見つからず不満足に終わった場所でした。またユースホステルの印象も見聞録に書いたように悪い印象しか残っておりません。
    数年前に通過したした際に塩狩荘・ユースが見当たらず、その後ネットで廃業を知りましたが、ご紹介のように最近塩狩ヒュッテなる宿泊施設ができたのですね。ネットで見ると大阪から移住された若いご夫婦が始められたようですね。いつか有志による塩狩ツアーをやりたいなどと妄想が拡がります。

    • 1900生様
      いつも、ありがとうございます。改めて、青信号22・23号の「雪中北海道見聞録」を読ませてもらいました。この時も、すごい雪だったのですね。雪の壁で、駅以外の撮影は不可能だったと思います。現在、ひと駅隣の和寒の積雪量が120センチですから、峠の塩狩はそれよりもっと多いはずです。塩狩ユースの印象は、同書に「食事も設備も最低」と書かれており、私も頷けました。燃料も一時間分しかなかったとか、さぞ寒かったと思います。

  2. 総本家青信号特派員様

    塩狩、私は行ったことがありません。三浦綾子著「塩狩峠」を読んで、悲惨なシーンに愕然としたものですが、お陰様でその地の一端を知ることが出来ました。
    それにしても、極寒の地ということがひしひしと伝わってきました。
    有り難うございました。

    • マルーン様
      コメントを頂戴し、ありがとうございます。三浦綾子「塩狩峠」は私も買って読んだことがあります。いまでも本棚の片隅においてあります。主人公の長野氏を称える碑が駅近くにあるそうですが、雪に埋まってしまい、見ることができませんでした。北海道は、今日など、低気圧通過で猛吹雪が続いて、被害も多数出ています。私が行ったのは、ちょうど一週間前ですが、このような目に遭わず、多少の遅れだけで済みました。

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