◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑱

全盛時代の京都市電600形を撮る (1)

本欄で大人気の京都市電600形、以前の米手さん投稿には、コメント数が36にも達して、急遽、別のスレッドを立てるという事態となりました。その米手さんとともに、“た~ちゃん”の介護投稿の資格認定を受けた私も、多数の600形のフィルムを預かっていました。以前にも「また投稿します」と宣言しておきながら、自分の投稿で忙しく、実施できませんでした。山陰から戻り、すぐ海外事情の視察(?)に向かわれた米手さんの留守中を見計らって、ご披露することにしました。
600形大好きの“た~ちゃん”は多くの写真を収めていた。学内の写真展「同志社をめぐる市電」でも紹介した、小雪舞う烏丸今出川を行く600形は、その代表的な写真。写真の撮影時期は、昭和35年前後で、まだ改造を受けず、95両全車が揃った全盛時代。昭和40年代、多くが改造されて、原型の600形は数両しか知らない私などには、羨望の時代に映る。

戦前、京都は下鴨で生まれ育った“た~ちゃん”、いちばん身近な乗り物は、もちろん市電であり、好きになっていったのは、自然の成り行きでした。なかでも、600形は、“た~ちゃん”生誕のほぼ同じ年から製造されており、いわば600形とともに人生を歩んできたことになります。このことは、本シリーズ“電車めぐり”⑱にも、詳しく書かれています。

斬新なデザインの600形登場で、子供たちの人気者になりました。600形が来るまで、子供たちは待つほどでした。乗ったのが自慢になったのです。私もそのひとりでした。この青電スタイルがその後の京都市電型となり、長短、扉構造、色の濃淡の違いがあっても25年間も継続して造られました。
青色でもないのに「青電」と言ったのは、赤信号、青信号(緑)と言っているように子どもの感覚で名付けたのでしょう。(以上、原文抜粋)

背後の校舎群も懐かしい烏丸今出川、“た~ちゃん”は勉学の合間にもカメラを向けた。

烏丸今出川下ル、乾御門前の烏丸線6号系統の655号。

河原町今出川交差点を左に曲がって行く錦林車庫2号系統の676号。

逆に右に曲がり今出川通に入る668号、左手の富士銀行、信号指令塔も懐かしい。

「37分」が目立つ阪急電車の広告を横に見て、河原町今出川の電停に着く。まだ大宮が終点だった時代、ここから市電で行くとしても直通はなく、四条河原町から乗り換えを強いられる。大宮からは37分でも、大宮へ行くまでに37分以上掛かってしまう時代だった。

同志社生で満員の15号系統、右の和風の門や樹木は、当時は料理旅館になっていたが、公家の屋敷跡だった。料理旅館はその後廃業したが、現在でも、荒廃しているが面影が残っている。

600形は、昭和12年から、全部で95両が製造されたが、製造時期によって、大きく二つに分かれ、戦前製の601~685、戦後製の686~695に分かれる。ここで採り上げたのは、すべて戦前製の601~685の車体長10.7mのグループ。前面5度傾斜の半流線型、張り上げ屋根、ウィンドシル・ヘッダーが回り込んだ優雅な車体は、京都に相応しい車両であり、以後の各形式にも、そのスタイルが継承された点、95両という最大両数においても、京都市電の代表であることが理解できる。

 

 

 ◆ た~ちゃんの電車めぐり ⑱」への15件のフィードバック

  1. た~ちゃん様 総本家青信号特派員さま
    懐かしい写真を有難うございます。小生はスカートを切った更新後のスタイルの方が、なにか近代的に思えて好きでしたが、こうして拝見すると中々味のあるスタイルですね。しかし野武士のように見えてなりませんが。信号司令塔も懐かしいですね。時期は忘れましたが、あの中に係員が居たことをかすかに憶えています。烏丸今出川のはお役目を終えてからまだ暫くは残っていたと思います。
    河原町今出川の料亭跡ですが、その後パチンコ屋になっていませんでしたでしょうか。南東角の南側はそうだったような気がします。
    阪急の看板は初めて知りましたが、仰るようにずいぶんユニークな看板ですね。京阪間37分とは2300の特急だったのでしょうか。

  2. 1900生さま
    いつもコメントいただき、ありがとうございます。たしかに、側面のスカートを切り取ったほうが、シャープな印象で私も好きです。ただ、流線型が続々とデビューしていた昭和10年代、下回りの機器類は隠すことが、当時の鉄道事業者の美意識ではなかったかと思っています。これは流電だけでなく、C53C55の流線型にも通じることではないかと思います。
    河原町今出川の料亭跡は、最初は河原町通り全面にあったはずですが、一部がパチンコ屋になり、写真で見える門も、今ではパチンコ屋になっています。今はパチンコ屋の南側にだけボロボロになった公家屋敷由来の門が残っています。京阪間37分は、まだ2800デビューの前ですから、2300時代ですね。

  3.  貴重な写真の数々を有り難うございます。
     阪急電車の広告看板が、出町の交差点にあったんですね。京都は大宮。梅田へ37分か!当時は1300のクロスシート車なんかも走っていたんでしょうね。
     私たちが学生の頃は河原町延伸後。大阪・梅田まで39分でしたね。
     今は特急の運転時分は43分。大宮は39分30秒で通過!時代は変わる。昔の急行みたいですもんね!?

    • マルーンさま
      何を仰るうさぎさんではないですが、そんなご謙遜を。あれだけ停まって43分は立派なものですよ。河原町延伸当初は確か42分でした。その後スピードUPして39分になり驚きました。尤も路線の大半が直線ですからね。川向こうの特急は出町柳延伸もありますが今や55分ですよ。現在は両線とも自線内速達サービスを目指す方向に転換したため、スピードと車両を競ったライバル関係も遠い昔話になりました。
      そういえば小さい頃宝塚ファミリーランドへ遊びに行く時に1300と2300の特急に乗ったことがありました。1300もロングだったように思います。水無瀬~上牧辺りではまだ固まっていない線路を新幹線より先に走りましたね。

  4. 1900生様、マルーン様
    私も京都市600形はスカートを切った姿の方が好きでした。これが原型と思っていたくらいです。阪急の終点大宮時代(もともとが新京阪の京都駅)は2300も特急に使われていたと思いますが、710や1300の印象が強いですね。

    • 準特急さま
      さすがに710の特急までは記憶にないですね。尤も当時はデイ100との違いを認識できていたかどうか怪しいものですが。

  5. 1900生様
    ライバルのこともよく御存知の1900生様は能ある鷹ですね。多分、多分ですよ、阪急の大宮行き特急の頃は710型の2連、後に4連が主役であったと思います。川向うでは半鋼製吊り掛け車の1700型と全金製カルダン車の1800型の頃でしょう。710型とP6-100型とは外観上古めかしいリベットや独特の貫通幌の有無、イコライザーとウィングバネ系の防震台車の違いで鉄道好きの人にはすぐわかるのですが、一般の御乗客の皆さんは同じように見えたのではないでしょうか。共に吊り掛け音でしたからね。このあたりは両者の違いは部外者の私よりはマルーンさんから解説していただけるでしょう。

    • 準特急さま
      とんでもありません、隠すほどの爪など全く持ち合わせてはおりませんよ。ライバルを引っ掻くための爪ならわかりませんが。それはさておき、先の市電コメントでも書いたように、小学校1年の途中まで大宮五条に住んでいましたから、母の南河内柏原への帰省時には大宮から阪急で梅田に出ていました。その際に乗ったのが特急か急行か今となっては定かではなくなったものの、吊掛車で豪快に飛ばした電車だった記憶があります(一度だけ静かな電車でしたからこれが1300だった可能性はあります)。その頃ですから殆ど乗ったことのない郊外電車なので、電車なら何でも良かったのかもしれません。なにか阪急談義になってきたような・・。

  6. 河原町今出川下るの塀の奥は一体何なのか、気になっておりました。Google Mapでは「了徳寺」と表示されているようです。
    当時の阪急の屋外広告ですが、「大阪の交通の中心」などというやや大層な表現は、天満橋終点の京阪さん(出町からなら四条大宮より三条京阪が圧倒的に便利)を意識したものではないでしょうか??

    • 宇都家さま
      コメント、ありがとうございます。河原町今出川下がるのナゾの屋敷跡は、以前は「清洲旅館」という料理旅館で、近くに住んでいた私など、よくクラス会もしました。幕末の地図を見ますと、伏見宮の邸宅となっていました。今は、たしかに了徳寺になっていますが、廃屋同然の様子が、門からも伺えます。
      阪急の広告、看板の立地条件も考慮して、キャッチコピーが付けられるのでしょうね。ただ「大阪の中心」ですが、かつて四条河原町にこんな京阪さんの広告がありました。自分の鉄道の終点が、中心地になるのですね。

      • 料理旅館時代にご利用されていたとは貴重なご経験ですね。せっかくの建物が朽ちていくのは残念です。

        四条河原町の京阪さんの看板、梅田は「大阪の交通の中心」かもだが、「大阪の(ホントの)中心」は船場、島之内だぞ、という意図ではないでしょうか?

        いずれにしても、古い写真は、写っている車両はもちろんですが、写りこんでいる情景、看板の文字までも貴重であり、興味をそそられます。

        ありがとうございました。

        • 宇都家さま
          仰せの通りかつての中心は船場、島之内界隈でしたが、そこまでの意思を感じるには少し年代が古いようにも思います。
          この四条河原町北東角のビル屋上にあった看板はちょっと前に無くなりましたね。ビルの建て替えに伴うものだったと思います。廃止前は確か「淀屋橋へは京阪特急」となっていたと記憶します。この場所に建てられたのは、地下に潜って阪急を利用しようとするお客さんに「橋一つ渡って下さい」という、いわば東に京阪在りというアピールではなかったかと思います。復活しなかったのは不思議ですが、昔にくらべると随分鷹揚になったのか、はたまたダブルデッカーやプレミアムカーで自信を持ったからかもしれないと思っています。

          • 1900生さま

            コメントありがとうございます。

            そういえば、最近はターミナル外の市街地での鉄道会社の看板はあまり見かけないですね。

            屋外広告の規制強化、特に京都、も関係しているのかも知れません。祇園や産寧坂等のような街並みのところならともかく、市街地はある程度のゴタゴタ感があるほうが、賑わいがあっていいように思いますが、、、

  7. 宇都家さま
    コメント有難うございます。続編が書きこめなくなりましたので別項を起こしました。
    確かに少なくなったと感じますね。広告・宣伝媒体の多様化や、個人の行動パターンの変化(廉価に楽して移動したいetc)も影響しているのでしょう。仰るように京都は美観地区の制定もあり、屋外広告には特に厳しい都市でした。もう時効でしょうからエピソードとしてご紹介しますが、京阪は’90年に沿線の鶴見緑地で開催された「花博」に協賛するため、花博のテーマである花・水・緑をデザインした1000系・2200系・6000系各1編成を登場させました。その趣旨・目的からなるべく広範囲に運用するために、主に急行運用に充当する計画でした。この計画発表から暫くして京都市内を走行するのは好ましくないとの指摘があり、一時運用計画が宙に浮いた時期があり、対策として急行には充当せず、樟葉以南の準急等で運用する案も検討されていました。この時に京都の規制行政の一つとして聞いたのが、皆さんよくご存知のコカコーラの赤い看板でした。なんと京都では赤白が逆転した白地に赤の看板にさせられたというのです。尤も花博号の件は、元々博覧会協会からの要請を受けて計画したものだったため、協会から申し入れをしてもらって計画を進めることができたのでした。
    こういうことがあったわりには、現在もかなりけばけばしい看板が繁華街に溢れているように見受けられます。ある種の行政規制が必要なのは理解できますが、本来の趣旨を逸脱しての規制ありきでは活力を削ぐことになりかねませんからね。

    • 花博塗装車、記憶にあります そんなエピソードがあったんですね

      京大のカンバンも撤去され、ビルのテナント表示看板もダメなご時世、変にコギレイな街よりた~ちゃん様が撮影された河原町今出川の光景が大変に魅力的です

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