大阪駅前の中央郵便局跡の今昔対比に続いて、本家の大阪駅前の対比に移ります。(市電時代の写真は、特記以外、すべて昭和31年、藤原寛様撮影)▲市電が走っていた頃の大阪駅(右)は3代目で、戦前の昭和15年の3階建て建築、4、5階にホテルが計画されていたが資材難で中止、戦後もそのままの姿で武骨な姿を見せていた。東京駅は煉瓦造りの歴史的な建築、京都駅はシャープな近代建築なのに、なぜ大阪だけが古臭い姿をさらしているのかと思ったものだ。さらに市電も、京都のようなターミナル方式ではなく、通過式で、安全地帯以外の設備もなく、単なる乗降の多い電停に過ぎなかった。車両は1001形1038号、大正時代に製造の大型木造車、深い屋根、アーチ状の側面窓と、優美なスタイルだった。▲▲現在の4代目大阪駅、当初の昭和58年完成のアクティ大阪の本体建築に、のちに南面に大丸梅田店などが増床されたため、駅全体が前へ張り出している。奥は前回紹介のJPタワー。
▲昭和30年当時の大阪駅前俯瞰(「大阪市電が走った街今昔」から転載、大阪市交通局提供) 夏の朝、人で埋め尽くされた大阪駅前、市電は手前と向こうに電停が見え二重停車していたようだ。さらに奥には行き止まりの中線があり、淀屋橋方面からの折返し6系統の留置に使われていた。▲大阪駅前に続々出入りする市電、背後の阪急百貨店も、壁のように聳えている。日本最初の民間放送局の新日本放送(現・毎日放送)の看板も見える。▲ちょうど撮影年の昭和31年に、大阪市電の最後の新造車、3001形が50両一挙に製造された。市電の最高傑作とも評価された優秀車で、私も2、3回乗った記憶がある。静かで滑らかな走りは、たしかに京都市電では味わったことのない乗り心地だった。▲片や、こんな角張った市電も。阪堺電鉄の買収車の1301形1301号で、1301~1304の4両だけだった。市バスも並走する。▲時にはこんな電動貨車が通ることも。古いピクによると、電動貨車は、1形1号、11形11号、51形51、52号の計4両あったそうだ。何を積載していたのかは不明。
総本家青信号特派員様
1001形は、大型車であり多くの乗客を収容できたため、幹線である南北方向の南北線(現在の四ツ橋筋)、堺筋線、上本町線を通る第1系統、第4系統、第15系統の甲・乙の循環線で使用されました。いずれも大阪駅前を経由していたので、小学校の頃、駅前ではお椀型のベンチレータを付けたこの電車をよく見かけました。3001形の進出によりこれに置き換わる形で1001形は、同形の2601形に更新改造されました。
3001形も幹線で使用するために天王寺車庫と都島車庫に集中配置されましたが、全国の公営の軌道に投入された和製PCCカーの中でも一番の車両でなかったかと今でも思っています。
大阪市電は、1969年3月31日に全線廃止となり、3月には路面電車廃止記念事業が実施されました。その一環として3月24日に全ての保存車両を総動員した電車パレードが都島車庫-守口間で挙行されました。この中で30号は集電装置がダブルポールとなっていて自走できないため、都島車庫常備となっていた11号貨車が牽引し、この電車の最後の仕事となりました。当然のことながら守口には機回り線がないため、復路は2672が牽引し11号貨車は回送となりました。
快速つくばね様
コメント、貴重な写真もありがとうございます。3001形、和製PCCで最高峰の評価は、電車好きの当会の故・沖中忠順さんからも聞かせてもらいました。優秀がゆえの薄命だったこと、残念でなりません。保存車のパレードも拝見しました。ここでも11号貨車が走ったのですね。ちょうど「鉄道ファン」96号表紙にもパレードのカラーが載っていて、11号が、自走できない30号を牽いていました。黒とばかり思っていた塗装が、グリーンだったことも分かりました。同号には、同じくOB会メンバーだった故・吉谷和典さんの「大阪市電と私」の連載もありました。
1967年7月29日、鶴町車庫、電動貨車12号です。
1968年8月26日、阿倍野橋、3048です。
天王寺~守口間の移動は、環状線で京橋に行き、京阪に乗換えるルートが想定されますが、市電は直通していました。
1969年3月31日、最終日の都島車庫前、3014と3008です。
路線が縮小されると、保守に手間のかかる高性能車が真っ先に廃車される場合が多くみられましたが、3001形を最終日まで運転し、大阪市交通局の意地を見せてくれました。
大阪市電の全廃は、昭和44(1969)年で、東京在の高校生が記録するには、早すぎる廃止でした。しかし折角の機会なので、コレクションから幾つか選んで、参加させて頂きます。路線図の絵葉書からスタートしましょう。大阪市電気鉄道部発行のものですが、正確な時期が判りません。だいたい大正初期頃のものかと。路面電車の停留所は、名称変更や場所の移動が多い。大阪に限らず、変遷を完全に把握するのは、なかなか難しいようです。この地図にある内容も、この後ずいぶん変更があったことでしょう。
大阪市電が写った絵葉書には、二代目の大阪駅を見ることが多いです。駅を背景に大きく取り入れた図柄は、よく見られるので、少し離れた場所から駅を遠望したものを出してみましょう。この彩色絵葉書、大阪駅との位置関係からして、今の阪急デパートの前辺りかと思えるのだが、スッキリしません。何せ百年以上前の情景ですから、自信をもって『ここや!』と、いえる方はいないかもしれませんが、ここどこ番外編を宜しくお願いしたく思います。
宮崎繁幹様
わかる範囲でお答えします。
線路概図ですが、印刷部分と手書き部分があることに着目しました。どちらも大阪市電の第三期線として開通した区間ですが、印刷された部分で最も新しいのは1915年(大正4年)1月8日に全通した天神橋西筋線(北浜二丁目-天神橋筋六丁目間)のようです。手書き部分で最も古い区間は、松島安治川線(松島町一丁目-玉船橋)で1915年11月4日に全線開通しています。したがって少なくとも印刷用の原稿が作成されたのは、1915年1月~11月の間といえるのではないでしょうか。
写真の場所は、右側の商店は現在の阪急百貨店、左側のアサヒビールの看板があるところは阪神デパートで間違いないと思います。下側に伸びている線路は1919年に開通した梅田善源寺町線で、次の停留場は中崎町です。左側にカーブしている線路は1908年に開通した南北線支線で国道1号と2号の接点がある梅田新道を経由して淀屋橋に向かいます。
市電廃線時の記念乗車券です。
快速つくばね様
後出しで失礼します。大阪市電の路線図、私も「大阪市電が走った街今昔」を持ち出して、確認しました。たしかに印刷のところは第三期線で、手書きで追加したのは第四期線ですので、時代が特定できますね。この本は路線の敷設順に書いてある、ほかでは見られない編集です。著者と打ち合わせしていた時、敷設順では分かりにくいから、地域順にしてはと提案したのですが、“大阪の街の発展は敷設順に書かないと理解できない”と、著者は頑として譲られませんでした。たしかに、著者の言う通りと、今回の地図を見て、改めて思いました。
快速つくばね様には、明快な分析を頂き有難うございます。線路概図に、印刷部分と手書き部分があるのは、ひょっとすると既に印刷済みであったものに、手書き部分を加刷してアップデートしたのかもしれませんね。大阪駅遠望の絵葉書も、私の場所の推測は当たっていたようで、ほっと致しました。自動車が見られず、建物も低いので、道路はとても広く見えて、何とも現実離れした景色に見えます。折角教えて頂いたので、左側にカーブしている線路を伝い、梅田新道の方へ行ってみましょう。正面が駅の方向かなと思うが、鑑定団の皆さま如何でしょうか?
宮崎繁幹様
大阪市では江戸時代以来の狭隘かつ煩雑な市街地の区画整理・道路拡幅・鉄橋架設などが、路面電車の敷設と同時に計画的に実施されました。そのため大阪市は市営モンロー主義を掲げ、電気局時代黎明期の1903年から交通局末期の2011年までの108年間にわたって続けられました。この点が東京都を始め民営の市街鉄道を買収し公営の路面電車として発展させた都市との違いです。
さてこの「梅田新道」ですが、撮られた方向は大阪駅方向でなく南向きの淀屋橋方向を向いているようです。その理由は交差点の連絡線の軌道から判断しました。梅田新道停留場は最初に1908年(明治41年)11月1日に第二期線南北線支線の大江橋延伸時に開設され、次に第三期線の曽根崎天満橋筋線が国道1号を東向きに1911年7月21日に分岐しました。これが左に分岐している連絡線だとおもいます。その後、福島曽根崎線が1912年5月1日に右方向の国道2号上に開通しますが、道路上に信号小屋?があり、この写真では見ることができません。したがってこの写真の撮られた時期も判断できます。
大阪市では市電の延伸に伴い、区画整理を行いながら道路を拡幅し「新道(しんみち)」という地名をつけました。最終期には「九条新道」という停留場がありましたが、ここはもとの「花園橋」で1903年に日本初の公営の路面電車築港線の始発駅でした。現在は当停留場のあった場所に『大阪市電創業の地』と書かれた石碑が建っています。
写真は1966年4月24日の梅田新道交差点の南側を行く大阪駅前行の3001形です。
快速つくばね様には、いろいろと教えて頂き有難うございます。絵葉書の添え書きには、〇X方面を望むなどと丁寧なものもありますが、場所が記してあるだけで、どっちを向いているのか判らないものが多いです。これでは地理に不案内な場合、判っている様で、真に理解しているとは言えません。お蔭様にて梅田新道の絵葉書については、納得ができました。では元来た道を駅の方へ戻ってみると、あ~ら不思議、時は昭和33年11月、今浦島となって阪急デパートが建っております。そして向いには、富国生命のビルが建築中です。富国生命のビルは、更に立替えられ今でも聳えたっています。今では他にも高層ビルが林立し、阪急デパートの屋上からでも、こんな眺望は得られぬことでしょう。
宮崎繁幹様
ドローンで撮ったようなこのような画像を初めて見せていただきました。阪神百貨店(当時)が1958年(昭和33年)3月に梅田阪神ビルディング(当時)の5階から8階を増床して東側部分を完成させましたので、この屋上から撮影されたようです。撮影月は昭和33年11月ですから、151系(当時は20系)電車がビジネス特急「こだま」として東京-大阪間を運転開始した時の大阪はこんな状態だったのですね。
中央の建物に「シネラマ」の看板がありますが、当時は立体映画(今でいう3D画像)が見られるということで子供会の行事で鑑賞したことがあります。劇場前の路線上に人が立っているところが「阪急東口」です。梅田善源寺町線は最終期にはこの停留場が起点駅となり10系統はここで折り返ししていました。
上方でアンダークロスしている高架橋が国鉄大阪環状線(当時は城東線)で、この下に「中崎町」があり、鉄道模型で有名な模型屋さんがありました。さらに路線を進んで地平線上にある黒い建物が阪急天神橋駅の駅ビルで、この前に「天神橋筋六丁目」の停留場がありました。
中崎町に向かって高架橋をくぐる直前の2673阪急東口行です。阪急天神橋駅の駅ビルが近くに見えます。(1969.3.6)
写真を拝見し、架線に眼がいきました。直接吊下式ではなく、カテナリーです。また天神橋に向かう線路の架線が、複線なのはどうしてでしょう。思いがけないものを見てしまいました。
複線の架線は市電の線路上に位置しておりません。車道の上です。大阪市営トロリーバスの2号線(守口車庫前 – 森小路町一丁目 – 大阪駅前)の架線ではないでしょうか。
御教示頂き、有難うございます。複線なので私も、ひょっとしてトロリーバス?、とは思いました。投稿前に、参考書(大阪市電が走った街今昔)のトロリーバス路線図は見たのだが、大阪駅前からは太融寺・扇橋を経由し天六となっていたので、これは何だろうと、思った訳でした。先ほど改めてよく読むと、昭和40年に中崎町経由に変更されたと本文に記してありました。勉強が足りないのが、バレバレです。してみると、この区間はトロバス用に複線x2、市電用に2の合計6本も架線を張ってあったのですね。東京にも、玉電とトロリーバスが併走する渋谷の道玄坂上から、大橋まで6本の架線が張ってあり、今まで日本ではここだけ、と思っていたが、大阪にもあったとは知らず、私にとっての新発見でした。また、トロバスの架線が、カテナリーと云うのは、ここだけかもしれません。もっとも私が言うのですから、要検証ですが・・・。
宮崎繁幹様
京都市と名古屋市は戦前からトロリーバス(無軌条電車)の運行をしていましたが、大阪市では戦後のガソリン不足と建設コストの安さから大阪市電がカバーしていない地域を中心に1953年からトロリーバスの運行を始めました。1962年まで建設を推進し、最終的には路線数6・総延長38.3km・車輌総数134輌の全国一の規模にまで成長しました。
乙訓の老人の甥様が投稿された2号線も、大阪駅前-守口を建設する時に既に同区間の市電の10系統が運行されていたため、極力市電と同じ経路をとらないように建設され、
守口車庫前=太子橋=今市町-森小路町九丁目-森小路町一丁目-関目町 -野江町-都島本通九丁目-都島本通三丁目=都島本通一丁目=都島橋=天神橋筋六丁目-天神橋筋五丁目-扇橋-太融寺-阪急阪神前-大阪駅前
という経路をとりました。(=は市電と並走区間)
大阪万博を控えて市営地下鉄の建設工事が進捗し、堺筋線建設のため1967年4月1日に大阪駅前-天神橋筋六丁目間が扇橋経由から中崎町経由に変更され市電と並走することになりました。
長くなりましたが、コメントの最上段にある2階建電車が写っている停留場が「今市町」で、ここにもトロリーバスの架線が写っていますが、ここで市電と合流して守口(守口車庫前)が終点になります。大阪市のトロリーバスも市電から遅れること1年3カ月の1970年6月15日に全廃されました。
カテナリーの件ですが、各線の写真を確認しましたが全てではなかったですが、3001形が走行するような幹線はカテナリーになっていました。
写真は面白いもので、ファインダーで見た範囲は、全て記録されます。しかし、撮影者は別に全てを記録する意識はなく、対象は電車や、駅舎なのです。でも後年、その写真を見た人は、別のものに関心を持つかもしれず、これが面白いところです。撮影記録も普通には、あまり意識されないように思います。それは、撮った本人は知っているので、書き残しておく必要を認めないからなのでしょう。前置きが長すぎですね。この写真、数日前にお目に掛けた、阪急デパートと遠景を高所から撮った写真と同じ日に写されたようだが、撮影地は梅田としか、書いてありません。大阪市電は、東海道線の北側には走っていないので、南側を撮っていると思いますが、どこら辺りなのでしょう? 東京人には、どこまでが梅田なのか、よく理解できないのです。
宮崎繁幹様
前回と同じく阪神百貨店の屋上から撮られていますが、方向は東南東を向いています。下の南北線支線をボンネットの市営バスに1601形が並走しています。遠くに見える山並みが生駒山地で大阪市の真東にあり、大阪はこの山で方角が分かります。地平線の右手に見えるのが大阪城で下に見える町が大阪の歌によく出てくる曽根崎新地です。
コメントの最上段の路面電車廃止記念事業の一環とした電車パレードですが、この時大阪市交通局軽音楽部が演奏し、大阪市交通局合唱部が合唱した「大阪市街電車唱歌」を拡声器で流しながら走行していました。
ある時、東京でその話を披露したところ東京にもそのような歌があるよと紹介されました。いずれも市街電車創成期の状況をよく伝えていますので、歌詞の出ているYouTubeを案内いたします。
「大阪市街電車唱歌」
https://www.youtube.com/watch?v=h3J2-8FI7bI
「東京地理教育電車唱歌」
https://www.youtube.com/watch?v=SflL0kzBVVA
快速つくばね様には、教えて頂くばかりで恐縮です。またも謎解きをして頂き、「大阪市街電車唱歌」もご案内下さり、有難うございました。大阪へは偶に行きますが、市内の移動は地下鉄、当然外の景色は見えず、降車してもビル街で見通しが効かねば、方向感なく、ナビに頼らざるを得ない情けなさ。自分の眼で景色を見て判断できた昔は・・・となりますね。ところで、初めに投稿した、大阪市電路線図の絵葉書、これは良い機会と思い整理したところ、他にも数枚ありましたので、ご紹介しましょう。これも大阪市電気鉄道部発行のものです。前のものより古く、第三期線の建設途中で、既開業線と予定線の両方が載っています。凡例に、「四十五年八月迄開業予定線」とあるので、凡その発行時期が判ります。ご存知のように、この年は明治最後の年で、7月20日からは、大正時代となりました。
宮崎繁幹様
明治末期の路線図ですね。この中で太平洋戦争を越せずに戦争中に廃線となった路線が二つあります。ひとつは谷町線の谷町六丁目-天満橋間でその後並行する上本町筋の路線が開業したこともあり、1944年6月1日に鉄材供出を目的に『不要不急の路線』として全線廃線となりました。もう一つは南北線支線の大江橋-渡辺橋間ですが、1945年3月14日の大阪大空襲による壊滅的な被害を受けて休止路線となり、戦後も復活されることがなく1960年に正式に廃線となりました。
今回は、路線図に乗っている他社線に注目しました。1914年(大正3年)に開業した近鉄(以下、すべて現在の会社名の略称)を除き、開業順に南海、阪神、阪急、京阪が記載されています。右下の南海鉄道電車線(現:阪堺電気軌道上町線)が天王寺西門前まで入っていますが、この頃は大阪市電と直通運転をしていました。大阪市電の路線網の拡大により1921年2月21日に天王寺西門-天王寺駅前間を大阪市へ移管することになり、大阪市電の天王寺阿倍野線と改称されましたが、1968年12月18日に廃線となりました。
1907年10月1日の国有化により関西鉄道も官設鉄道になりましたが、湊町停車場前から出ている路線名が「城東線」となっているのは「関西本線」の間違いです。
1968年12月天王寺西門前
小さな地図にも、よく見れば色々なことが、記されていることが判りました。市電の他社線乗入れは、東京では城東電軌がしていたが、大阪にもあったとは、知りませんでした。「大阪市電が走った街 今昔」には、ちゃんと書いてありましたが、地理不案内だと、記憶に残り難いものですね。地図を片手に読まねばと、思った次第です。添付の路線図は、一番最初に御紹介したものの、元版です。先に投稿したものは、新規開業路線を印刷済の在庫品に加刷したものではないかと推測したが、やはりその可能性が高いようです。他の都市でも、路線図を絵葉書に仕立てたものはありますが、民間企業の広宣活動の一環で、出されたものが多い。大阪では当事者も、発行していた訳です。当初より市営で営業すると云う意気込みなので、路線図の作成・配布も自身で行なったと云うことでしょうか。明治末年の路線図で、誤って城東線と記されていた、湊町からの路線名は、関西線に直されています。百年以上も経って、快速つくばね様に発見されてしまうとは、誤記とは怖いものですね!
天王寺西門までの上町線の黒線、同じところに突っ込みながら、投稿いただいた貴重な路線図を見ておりました。上町線の東天下茶屋停留所には「馬車鉄道跡」の碑があり、その横には説明看板も設置されています。
国鉄線を跨ぐ阿倍野橋上は遠い昔の市電移管時に廃止されていたはずですが、昭和30年代くらいまで軌道の敷石が残っていて、その写真をどこかで見た記憶があります。
宇都家さまには、「馬車鉄道跡」の碑のことを教えて頂き、有難う存じました。次に大阪を訪ねたときには、見学に行きたいと思います。ところで大阪市電の路線図はがきは、民間企業発行もあります。これは、大阪商船会社発行。第四期線の建設が進んでいる時代で、かなりの部分が既に開通しています。大正10年頃でしょうか。しかし話題になった天王寺西門~阿部野橋は、この時点では市電に買収済の筈ですが、赤線にはなっていません。百年前の誤記を私も発見かな! 商船会社が何故に市電の路線図を?、と思ったが築港桟橋には、「大阪商船のりば」があります。行き先は、別府、鹿児島、沖縄に加え、支那、朝鮮まである。この頃は、海外に行くにも、先ずは市電に乗ったのですね。
宮崎繁幹様
天保山桟橋が建設されたことにより、築港線の終点の大阪港から天保山桟橋を経由して、築港線の三条通四丁目に戻るまでの「築港北海岸通線」が単線ループ線で建設されました。天保山桟橋は、1965年7月1日に弁天埠頭に移転するまで関西汽船別府航路を利用する新婚客や九州への修学旅行客で賑わいました。
1965年12月26日には「都島車庫前-港車庫前間」の23号系統が大阪市電唯一のワンマンカーによる営業運転を開始しましたが、市電の廃線が先行したためワンマン路線はそれ以上に拡大しませんでした。ワンマンカー用の車両は港車庫に配属された2201形11両と2601形14両が担当し、ビューゲルをZパンタに換装するなどのワンマンカー仕様に改造され、外見からも識別できるようにエメラルドグリーンの帯を巻きました。しかしながら1968年5月に23系統も廃止になり、わずか2年3カ月の運用で終了しました。1967年10月13日の本田町一丁目のワンマンカー2210です。
大阪市電には比較的遅くまで、内航海運との船車連絡的な役割があった訳ですね。いま日本で路面電車から船に乗り継ぐ場所と云ったら、広島の宇品くらいでしょうか。10年くらい前に行ったときは、韓国便もあって国際ターミナルと称していましたが。大阪で路面電車と言えるのは、阪堺だけになりましたが、外がよく見える電車は、良いものです。