地上の京阪の駅(三条~七条)

「羽村さんが遺したアルバム」を拝見していて、羽村さんを思い出していました。
多分、私が羽村さんを知る最後の世代だと思います。
羽村さんは物静かでわりとシャイな感じの方でしたが、かなりシニカルな方で毒舌家でもありました。若くしてお亡くなりになりましたが、幼少時に患われた結核が原因でした。彼は終生独身でしたが、ご両親と同居されてた京大横の吉田山の麓の閑静なお住まいにも何度か訪れたこともありましたし、葬儀にも参列した記憶があります。

そんな彼の京阪の写真を拝見していて、京阪の古い駅を思い出していました。
1967年(昭和42年)夏に撮ったものですが、当時はまだ高価だったフイルムを使ってなぜこんなものを撮ったんだか・・・!?




4番線(一番鴨川方)から見た3番線(急行用)と2番線(特急用)。
1番線はここから見えず、疎水の上に架かっていて、以前は京津線につながっていた。(かっての京阪・京津直通の60型「びわこ」号はこの線を通っていた)
この4番線はラッシュ時は宇治行などの各停にも使われていたが、昼間時は近鉄からの乗入れ車専用であった。

縄手通に面して「南口」と、かなり大きなバスターミナルがあった。
(なぜか京津の線路がバスターミナルの中まで伸びていた)

次は四条


下り(淀屋橋行)ホーム

上り(三条行)ホーム。鴨川の上に張りだしていた。

五条駅

五条駅(三条方から)

七条駅(下りホーム)

七条駅(上りホーム)

以上オソマツ、今回はここまで。

 

 

地上の京阪の駅(三条~七条)」への8件のフィードバック

  1. 中学生の頃、大和田へ行くために三条京阪の出札口で「やまとだまで1枚」と言って笑われた屈辱の黒歴史を思い出しました。

  2.  ホンマに懐かしい画像です。
     受験浪人だった57年前のちょうど今頃、鉄道ピクトリアルに京阪特集が同志社大学鉄道同好会により掲載されました。これは入らなあかんと同志社大学の傾向と対策を熟読し、1962年度生として無事に角帽を戴冠することができました。京阪はまだ大阪側は天満橋が終点だったので、国鉄か阪急で通学していました。1963年春に京阪電車の淀屋橋乗り入れが始まり二回生から三年間1900型のお世話になりました。三条駅の改札口を出て、御所を遥拝する高山彦九郎像の前を低頭して鉄道同好会へ向かう毎日でした。
     戦時中は京阪宇治駅が見えるところに疎開していたうえ、五条に親戚があり京阪は幼馴染の鉄道でした。三条駅にもよく行くことがあり、乗り降りするときホームと車両の隙間の下に勢いよく流れる疎水の水面が間近に見え、いつも怖い思いをしていました。
     数々の画像には、EXPO70の広告、昔の人の服装、五条駅前を走る特異な柔らかい乗り心地だったスバルのセダンとバンが揃っている場面など懐かしいものです。年寄りには昔の写真を見せると認知力が活性するらしいですが、十分に活性されました。高価だったフィルムもチャンと役立っていますよ。

  3. 特に「三条京阪」で親しまれた三条駅、懐かしいですね。
    学生時代、大阪の親戚へ行くときによく利用させて頂きました。「あぁ、こんなんやったなぁー」今は地下ですもんね。
    コロナも時代を感じさせますね。
    四条や七条も思い出が蘇ってきました。スバルと共に!?
    オソマツなんてとんでもないことです。有り難うございました。

  4. 米手さん、大阪通信員さん、マルーンさん

    コメント、ありがとうございました。
    何の意味もなかったショーもない写真も半世紀を経ると、当時を知ってる方にはそれなりの意味を持ってくるものなんですね。

    1966年(昭和41年)に入社して約1カ月の研修後、最初に配属されたのが四条駅の改札係でした。
    夜遅く最終電車間際の頃になると、ギオンのクラブから帰りのオネーサン方から(多分お客からもらったであろう)ケーキや寿司などを「よかったら食べといて!」とよくいただきました。
    また、終電後は当直していた助役や改札係など数人で朝まで営業している木屋町の飲み屋へ繰り出し、始発近くになると「オイ、新兵! 先に帰ってシャッターを開けてこい!」と、帰らされるのが常でした。
    (今では絶対に考えられないことですが、もう十分に時効なのでご容赦を)

    また、(当然ですがまだ自動改札機ではない)四条駅の上り(三条行き)専任の定年間際だった改札係の先輩、不正乗車客を捕まえる名人でした。(当時は摘発すると1件100円の報奨金が給料に加算されていましたが、彼は常に毎月数千円もらっていました。私の初任給が24,500円だった頃のハナシ)
    朝のラッシュ時などは改札係の立つ両側の通路を開けて押し寄せてくる大勢のお客さんを通すのですが、彼にそのコツを聞いたところ「定期券や切符は見ていないし、到底見られない。遠くから歩いてくるお客の顔だけを見ている。不正乗車をしようとするお客はどうしても挙動に出て、どの改札係がヌケていそうかとキョロキョロしてる。そのお客を見つけて呼び止めればまず間違いない。区間外使用をしようとするお客は記載してある区間のところを手で隠すし、他人使用しようとするお客は名前や年齢や男女別の箇所を隠す」とのことでした。
    「挙動が大事」という彼から教わったこの教訓は今も役に立っています。

  5. 無印不良品さま
    なんでこんなもんとはとんでもない、皆さま言われる通り今となっては貴重な写真です。小生を含め電車の写真を撮る人は多いですが、こういうありふれた風景を撮られる方はそう多くはないと思います。ただ惜しむらくは4番線から撮られた写真で、電柱で急行630型の顔が隠れてしまっていることです。何か相当急いでおられたか事情があったと理解しておきます。
    もうこの頃から大阪万博のPRが始まっていたのですね。小生は卒業~就職の間に1回だけ行きましたが、オープン直後とあってパビリオンは長蛇の列で、入場どころではなかったことを憶えています。車掌乗務の際には今のインバウンドほどではありませんでしたが、特急には明らかに万博見学と思われる乗客もあり、車内巡回時によく「特急券を下さい」と呼び止められたものです。また余り知られていないようですが、万博周辺の駐車場が満杯になった場合に淀競馬場の駐車場に止めてもらい、特急を淀駅に臨時停車させて輸送することが計画されていましたね。幸か不幸か実施されたことはありませんでしたが。
    貴重な写真のおかげで半世紀余り前の懐かしい出来事を蘇らせて頂き有難うございました。

  6. 1900生さん
    特急券ください。淀駅に特急臨時停車計画があった。
    京阪特急の思い出裏話、楽しいですね。もっと聞かせてください。
    3000系にもプレミアムカー改造があるとのことですが、編成の車体色も赤い特急色にしてもらいたもんです。赤い電車が来たら特急やと誰にでも分かるのが便利やと思いますが。車体塗色が紺色になった訳や陰気な車内の雰囲気などの裏話はありませんか。

  7. 大阪通信員さま
    他愛のない話にお悦び頂けて恐縮です。話題はまだまだあるのですが、ある種企業秘密的な部分や守秘義務との関係もあり、本掲示板などでオープンに出来るのはそろそろ時効を迎えるようなものか、個人の感想に限られてしまいます。また機会をみてお話ししたいと思います。
    3000系の経緯については退職後の計画であり、ぷるぷるさんと「旧3000系を改番してまで何故3000番台なんだろう?」と訝ったことはありましたが、同氏もご存知なかったようでした。ブルーの塗色は「中の島特急用として水に因んだ色であることと、識別目的」とされています。世上プレミアムカー(P.C.)連結の話もありますが、小生はいささか懐疑的にみています。それより8000系がデビュー以来もう30年になりますから、3000系へのP.C.連結の話題と合わせ、次期特急車が計画されてもおかしくないと思っているからです。とはいえブルーの編成に赤いP.C.が1両挟まるのはなんとなく模型的で、想像するだけで楽しくなってきませんか。どいう展開を辿るのか興味は尽きません。
    ところで無印不良品さまが「京阪のP.C.が成功すれば、JRが新快速にグリーン車連結をきっと考える」と予言されていましたが、まさにその通りになってきました。先見の明に脱帽です。

  8. 懐かしいです。
    2、3ヶ月ごとに深草と伏見稲荷の間に在る親戚を訪ねてた、昭和40年前後の頃、時々深草、伏見稲荷から、始発駅の三条まで経由し憧れのテレビカーで淀屋橋まで帰りました。
    疏水の速さ、その深い緑の色が小学生には結構怖かったです。
    切符は許して下さい、、、深草か伏見稲荷から淀屋橋間でした~。
    後、市電と京阪の交差点(立派なダイヤモンドクロス)の音が思い出されます。

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