京阪大津線の歴史を調べて(三井寺、坂本假停留場)

坂本仮停留場
反対側の終着駅坂本停留場も延伸開通の当初は仮の停留場が作られた。計画されていた最初の停留場(資料5)は3面のホームがあり、一番長いホームは約100mもあり、短いホームでも約40m、琵琶湖鉄道汽船100型は15m級であったので将来の2両連結運転も考慮されたと思われる立派なものであった。↑ 資料5:当初計画坂本停留場,長いプラットホームに加え、待合室等にもスペースが取られていた。(県政史料歴史史料昭と5より作図)
ところがこちらも三井寺と同様、停留場用地の一部買収ができず、昭和2年7月21日付「假停留場設置御届」により、昭和2年12月20日を期限とする仮停留場(資料6)を設置することとなった。この仮停留場は当初のものより大幅に縮小され、2線で単行を前提としたものであった。↑ 資料6:坂本延伸開通時の坂本仮停留場、駅設備を予定していた用地の買収ができていなかったため、大幅に縮小して作られたが、新型電車に合わせてホームは高床式のものであった。(県政史料歴史史料昭と5より作図)
その後、昭和3年3月27日に用地買収が完了しないという理由で、一回目の「假停留場設置期間延期御願」が出され、更に、昭和3年6月18日、昭和3年12月18日に同じ理由で「假停留場設置期間延期御願」が出された。三回目の延長期限がくる少し前の昭和4年6月13日に今度は合併した京阪電鉄の名で「假停留場設置期間延期御願」が出された。この時の理由は今までと同じ用地買収の遅れだったが、次の昭和5年1月7日に出された「假停留場設置期間延期御願」は用地買収の遅れに加えて以下のように理由が付け加えられていた。
「(前略)昨年四月弊社ニ併合セシヨリ種々調査ノ結果運輸交通ノ利便ヲ計ル爲、昨年十月廿六日付ヲ以テ京津線トノ連絡並ニ石山線、三井寺線、坂本線トノ直通運轉ヲ出願致候ニ付テハ既認可ノ坂本終點停留場ノ本設計ニモ多少ノ変更ヲ来タスコト、相成目下調査中ニ有之候ニ付尚六ヶ月間の延期届ヲ提出セシモノニ御座候」
続いて昭和5年6月12日に「假停留場設置期間延期御願」が出され、次の昭和5年12月18日の「假停留場設置期間延期御願」では既認可の設計変更の出願準備中ということでようやくこの時期になって方向付けが決まり、昭和6年7月2日に出された「軌道工事方法変更願」によって仮停留場を本停留場に変える運びとなった。但し本停留場は当初設計されたものではなく、仮停留場を一部改造しただけで基本は仮停留場をそのまま転用したものであった。変更に至った理由は次のように書かれている。「弊社軌道大津線阪本(文書には坂本ではなく阪の字が使われている)停留場設置ニ付テハ建設當時琵琶湖鐡道汽船株式會社ニ於テ昭和二年三月十九日附監第一一六三號ヲ以テ御認可相蒙候處用地買収未済ノタメ御認可ノ工事方法ニ依リ工事ヲ實施致難キ事情有ノ爾来假停留場ニ依リ乗客ノ取扱ヲナシ居候處昭和四年三月弊社合併後ニ於クル運輸ノ實情ニ徴スレバ該停留場トシテハ既御認可ニ依ル設備ノ必要ヲ感ゼズ現在設備ヲ以テ充分ナルモノト思惟セラレ候ニ付頭書ノ通リ現状ノ儘本停留場ニ變更致度次第ニ有之候」つまり新型車を入れ集客を図ったが、思うように客足が伸びず、当初の計画では過剰設備となってしまった。せっかくの新型車も昭和6年には京阪本線に転属し、昭和6年10月5日から開始した石山坂本直通運転は路面型の旧型車両で行われることとなった。両端の三井寺、坂本停留場には高床、低床の2種類のホームが作られたが、中間駅は高床式電車に合わせて立派なホームが作られていた。路面型の電車が走り出した時にホームはどうなったのだろうか、県政史料室の歴史史料にはこのあたりの経過をあらわすものは見つからなかった。↑ 資料7:螢谷からの直通運転が開始した昭和6年10月本停留場になった時の坂本停留場、路面タイプの電車の為に高床式ホームの先端部が低床式に改造された。(県政史料歴史史料昭と5より作図)

京阪大津線の歴史を調べて(三井寺、坂本假停留場)」への3件のフィードバック

  1. 86さま
    膨大な史料の解読・解説お疲れ様です。とくに旧文の読み下しや転写には、苦労が伴ったことと思います。今回の坂本ですが。当初はもっと広い用地確保を目論んでいたこと初めて知りました。いまグーグルの航空写真を見ますと、駅の西隣に市の駐輪場があるようですが、このエリアがそのまま、図にある当初の駅の予定地だったようです。
    これからも浜大津駅のことや複線化の過程を調査されるとのこと、期待しています。

    • 総本家青信号特派員様
      コメントいただきありがとうございました。
      坂本駅は現在の状態と詳しく比較していませんが、ご指摘の駐輪場、改札口出て日吉大社への参道までの広場などが当初計画の範囲だったのかもしれません。これに対して三井寺駅は、前項でも書きましたように、開業当時の駅の範囲がよくわかり、また浜大津行ホーム裏側の空き地、低床ホーム跡などが残っていて興味深いものがありました。
      県政史料室の史料は確かに旧字体の文章で少々とっつきにくいものの、そんなに長文ではなく、興味のある内容なので何とか読むことができます。今は項目ごとに資料を探して発表していますが、一段落したら、全体をまとめて整理したいと思っています。

      • もう一度、図を見ますと、いまの坂本駅の駅前広場の幅を、そのまま、日吉大社寄りに広げたような感じになっていますから、いまの駐輪場の位置より、さらに大きな駅用地を目論んでいたのですね。創設期の鉄道では、参詣輸送が大きなウエイトを占めていました。現在でも、著名な社寺の近くの駅は、駅舎や用地に、ほかとは違いを感じるところが多く、坂本も、これを意識したのでしょうか。

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