京阪大津線の歴史を調べて(大津電車軌道の未成線その1)

大津電車軌道は明治39年に由利公正らが発起人となって石山-坂本間の特許出願を行い、翌明治40年9月21日に特許がおりました。その後建設に着手し、大正2年3月1日大津(現在のびわ湖浜大津)-膳所(現在の膳所本町)間を皮切りに路線を伸ばしていきました。
更に開通と同じ時期に堅田、南郷への延伸を図り、大正11年には三井寺と東海道新線にできた大津駅を結ぶ路線を計画しましたが、急な拡大と、不況の影響もあっていずれも建設着手に至らず、運行までこぎつけたのは当初路線の石山寺-坂本間のみとなりました。
1. 堅田延伸
明治40年9月に特許が降りた石山-坂本間の路線は現在のものとは全く違い、浜大津より東は浜通りを通り、石場から旧東海道に沿って石山寺に向かうもので、一方浜大津より西側は西近江路、現在の県道大津高島線(旧国道161号線)を下阪本まで行き、西に転じて坂本に至るものであった。堅田への延伸路線は下阪本から分岐して雄琴を通り、堅田町本堅田までの5哩で、大正2年8月27日付滋賀県知事あてに特許申請が出された。

↑ 図1.石山寺―坂本間の当初計画線と堅田延長線

このころは、最初に申請された坂本―石山間が部分開業したばかりで、早くも延長線が計画されていたことになる。全線単線で、使用する車両は開業した石山線(正式な名称ではないが三井寺以東を石山線、以北を坂本線と呼んでいた。)で使われた大津1型(のちの京阪旧80型)と同じ42人乗りのものを予定していた。運行回数は96回、6時から24時の16時間運行とすると20分間隔でなかなかの高頻度であった。
ところがこの申請が出されたわずか1週間後の9月2日に県から様子見るべしとの回答があり、その後堅田延伸に関する文書は県政史料室の歴史史料には見当たらなかった。明治末期から大正時代にかけて琵琶湖西岸には鉄道敷設の計画があり、それとの関連もあって簡単には特許が認められなかったと思われる。また、坂本線はルートを湖岸寄りの西近江路から現在の山側の県道沿いに変更して下阪本を経由しないようになり、大正8年に江若鉄道が敷設免許を取得したことによって、大津電車軌道の堅田延伸は実現しなかった。

↑ 図2:坂本線との分岐点
現在の県道大津高島線(旧国道161号線)は湖岸寄りを通っているが、旧西近江路を通る併用軌道で計画されていた。(堅田線起点と記載されている下阪本南河原1075番地は、現在の下阪本1丁目23-13付近)

↑ 写真1:分岐となる四ツ谷交差点
右が現在の県道大津高島線(旧国道161号線)、左が西近江路でここを路面電車が走る予定だった。

↑ 図3:堅田延長線の終点付近(西近江路からのルートは推定)
現在の堅田駅とは1㎞あまり離れているこのあたりは当時の堅田の中心部に近かった。(終点と記載されている本堅田字川原畑1542番地は現在の本堅田3丁目4-6付近)尚、廃止された江若鉄道堅田駅も、JR堅田駅とは離れた当時の堅田の町の中心近くであった。

↑ 写真2:堅田終点付近の現在
右手の花市商店向かい側にある行き止まりの道を入ったあたりが該当の場所

↑ 写真3:西近江路から入った道筋の商店歴史を感じさせる建物がいくつか残っている

↑ 写真4:西近江路への道には市役所の支所、商店街のアーチがありにぎやかだったことが伺える。

京阪大津線の歴史を調べて(大津電車軌道の未成線その1)」への5件のフィードバック

  1. 大津電車軌道の堅田延伸構想、興味深く拝見しました。とくに終点の本堅田三丁目付近は、以前、江若交通のボンネットバスが堅田町内循環系統で運転されており、よく写しに行ったところで、懐かしい思いで写真も見ていました。たしかに、この付近が堅田の中心で、終点としては相応しい場所だったことが伺えます。写真の「花市」商店の少し湖岸寄りが、江若バスの「堅田本町」の停留場で、そこを走るボンネットバスを貼っておきます。「町内循環」の札を付けています。グーグルで見ると、右手の旧家はそのままでした。

    • 総本家青信号特派員様
      コメントありがとうございます。堅田の町は今回久しぶりに歩きました。以前は商店街もあったのですが、商業地はすっかりJR駅前と旧161号線沿いに変わってしまいました。
      江若交通の堅田町内循環線はまだ現存していて、調べたところ20分に1本の運行で、まだ需要があるようです。

  2. 大津の86さま
    よくお調べになっていて頭の下がる想いです。旧江若堅田駅の跡には江若交通系のスポーツ施設であるコジャックが在るのは知っていましたが、石坂線の堅田延長計画は初めて知りました。実はその後にも雄琴辺りへの延長プランもあったように思います。(大津市の構想プランで、京津線上栄町~JR大津駅~島の関間の地下新線プランと同時だったかと)堅田は当時から比較的大きな街だったため、湖西線ではちょっと離れたところに駅ができましたが、実は湖西線は余り旧江若鉄道の用地を利用していないのです。むかし耳に挟んだところでは、用地買収費と考える江若側と、営業補償費と考える鉄道公団側とのすり合わせに難航したということでした。

    • 1900生様
      コメントありがとうございました。江若の廃線跡は何度か歩きましたが、おっしゃるように江若のルートと異なるところもたくさんありますね。10月に大津歴博で開催される江若鉄道ミニ企画展では当会OB、Nさんが中心になってまとめられた「廃止後50年写真と地図で辿る江若鉄道の今昔」が展示されます。よくまとめられていて新旧の対比がよくわかりますのでぜひご覧ください。
      雄琴への延長、京津線の地下新線プランは知りませんでした。これとは別に八瀬から大原、途中、堅田への計画もありましたね。いずれにしても以前湖西の住人が京都に行くのには江若か石坂線で浜大津乗換、京津線ルートが多かったと思いますが、湖西線ができて大津は素通りとなりました。大津線沿線には名所旧跡が多いのですが、微妙に駅から離れていて、観光客は増えているのに利用客の増加につながらないようです。

  3. 大津電車の堅田延伸申請初めて目にしました。
    大変興味深いです。

    一つ大津以西の江若鉄道と大津電車の形成プロセスを研究した論文があります。
    小川功「近江商人系金融機関の地元還元投融資 : 藤井善助による琵琶湖鉄道汽船の統合と解体」
    http://hdl.handle.net/10441/8318

    この中では浜大津以西の工事申請時ですら会社の資金調達が上手くいかない様子を見せていたようです。その中での延伸申請であったため、県から待ったがかけられたという状況となります。特許申請の際、地方長官は申請者の信用・資産状況を調査するとなっておりましたのでそういった観点からも上申することが難しいと判断したということでしょう。
    また、知事が池松→森に代わってから県としては江若鉄道を前面に押し出し、大津電車の大津ー坂本間の放棄まで言い出すほどでした。
    長文失礼しました。

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