京阪大津線の歴史を調べて(1-3紺屋関駅)

紺屋関駅の歴史は古い。明治22年東海道線が全通し、馬場-大津間の旅客営業は廃止されたが、明治31年に旅客扱いが復活、その後紺屋関には湖南汽船の大津港があり、乗り換えの便から大津電車軌道発足前の明治35年1月1日、鉄道院大津支線の駅として設置された。大正2年3月1日の大津電車軌道開通と同時に、院線の駅であった紺屋関駅は大津電車軌道の駅となって開業した。当初の院線は単線であり、順次待避線と複線化が進んだ。この過程も県政史料室の歴史史料に残されているが、まだ詳しく読み解けておらず、後日別途発表したい。

資料6:紺屋関駅付近図 浜大津貨物駅に分かれる狭軌の線路の分岐も書かれており、この位置は1969年の江若鉄道廃止当時と変わっていない。(滋賀県政史料室歴史史料昭と6より作図)


院線時代と紺屋関駅の位置は変わっていないようで、先の大橋堀駅と同じ資料に紺屋関駅付近の平面図が出ている。この図面の昭和9年当時はすでに複線化されており、踏切をはさんで千鳥型のホームが作られていた。場所は現在の大津駅から琵琶湖に伸びる中央大通りと石坂線が交差する紺屋関踏切となる。また、この史料には旧町名が書かれており、南保町と白玉町の境が書かれていることからも場所が確定できる。
戦時中各駅の休止、廃止が行われたなか、昭和18年11月10日京津線、長等公園下、石坂線大橋堀と共に廃止されたが、紺屋関駅と大橋堀駅の間は302m、島ノ関駅との間はわずか204mで歩いても3,4分程度、戦後長等公園下駅は復活したものの紺屋関駅と大橋堀駅は復活することがなかった。写真4:現在の紺屋関踏切、JR大津駅につながる中央大通りで幅の広い踏切だが、拡幅される前から踏切はあった。電車の停まっているところが隣の島ノ関駅。

写真5:紺屋関駅付近の石積み。このあたりは線路のすぐ横が湖岸で石場駅付近までこの石積みが見られる。

3 thoughts on “京阪大津線の歴史を調べて(1-3紺屋関駅)

  1. 大津の86様
    古い鉄道の話は好きですので興味深く拝見しております。
    川口駅については、
    ①大正十一年六月訂補『列車時刻表』鐵道省運輸局p.33
    ②大正十一年十月訂補『列車時刻表』鐵道省運輸局p.33(どちらも復刻版)
    に大津電車軌道線があり、
    ①は、「大正十一年三月十五日改正」で三井寺、川口の記載無し。
    ②は、「大正十一年三月十五日改正」で三井寺、川口の記載有り。
    となっています。貴稿では「浜大津-三井寺間が開通したのは大正11年5月15日」とありますが不思議な具合になっています。何が正しいのでしょうか?当時の地元の新聞を調査されましたか。

    また、貴稿の本筋から脱線した話で恐縮ですが、(1-1)では「川口停留所」、(1-2)附近平面図では「大橋堀停留場」、(1-3)付近図では「紺屋関停留場」とありますが、この「所」と「場」の使い分けの違いは何でしょうか?原典にそう書いてあっただけですか?

    • 井原様
      ご教授ありがとうございます。停留場と停留所について、原本の資料はいずれも停留場となっていて、停留所は変換の際の間違いでした。失礼しました。
      浜大津ー三井寺間が延伸されたのは調べた中では大正11年5月7日と5月15日の2つの説がありました。5月7日説は京阪社史、「関西の鉄道」京阪電車特集などですが、大津歴史博物館の「大津の鉄道百科展」図録は5月15日説をとっており、当初の開通予定は5月7日であったところ、不具合があって5月15日に延期されたらしく、5月16日付朝日新聞?に開通の記事が掲載されていますのでこちらが正しいのではと思います。

      • やはり停留場でしたか。
        「軌道」の場合、「停留場」が正式な用語であると乙訓の長老から教わった記憶があります。

        5月16日付の朝日新聞?の開通記事に「浜大津-三井寺間の途中に川口停留場がある」とでも記述がなければ川口の営業開始は開通と同時ではないかもしれませんね。

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