東京で特急・都電を撮る ー真夏の思い出①ー
暑い毎日が続いています。若い頃は、この暑さにも臆することなく、旅に出掛けたものでした。学生時代は、長期の夏休みがあるため、涼しくなった8月下旬からの長期旅行が多かったものの、社会人になると、盆休みや2、3日の夏季休暇が、貴重な旅行チャンスとなりました。冷房もほとんどない時代、いちばん暑くて混み合う時期に、猛然と出掛けた行動力、情熱を感じずにはいられません。夏の熱気を感じると思い出す、1970年代の撮影行きを偲んでみました。
▲この旅行は、OBとなったばかりの頃、今も親交が続くクローバー会の皆さんと連れだって行った時のこと、いちばんの目的は、小海線のC56牽引「八ヶ岳高原号」だが、関西組はまず上京して、周辺で一日撮ることになった。当時の大垣夜行のグリーン車に乗り、東京に着いたあと、東北本線の川口へ。まだ東北・上越新幹線は影も形もなく、お盆の休暇が終わる頃は、上り列車が続々と通過して行く。EF58+EF57の重連急行、161・181系特急、EF56荷物、EF13貨物と、関西では見られない電機、電車に目を奪われた。写真は上り「とき1号」(以下、1972年8月)。
▲東京駅7番ホームに到着した157系の上り「あまぎ1号」、157系は、東海道新幹線開業で特急「ひびき」から撤退し、伊豆方面に向かう新設の急行「伊豆」に使われていた。同時期、「あまぎ」は、東京~伊豆方面の座席指定「準急」として走っていたが、昭和41年に100キロ以上走る準急は、急行に格上げされた結果、東京~伊豆方面には、153系、157系両方の座席指定急行が走ることになり、車内設備での不公平が生じていた。
そこで、昭和44年4月から、157系の急行は、特急「あまぎ」に格上げされた。157系「あまぎ」は、183系化される昭和51年3月まで続く。撮影した東京駅7番ホームは、山手線・京浜東北線の5・6番ホームから見ると、一段高いところにあって、撮影に適していた。現在も同じ位置に7番ホームはあって、上野東京ラインが使用している。中央に見える白い標柱は、「0キロポスト」、東海道線では上り方に当たるため、これは東北本線の始発としての0キロポストだろう。
▲都電は、毎年のように廃止が続いていて、すでに山の手にはなく、江東区など墨東地区も、まもなく廃止されることになっていた。錦糸町駅前の陸橋からは、発着する都電がうまく収められた。右手のロッテ会館ができたばかり、総武本線には、キハ30+キユニの郵便・荷物列車が通過している。▲錦糸町駅前は、南北に電停があったものの、ガード下ではつながっておらず、それぞれが別々に折返し運転していた。28系統は、門前仲町、日本橋を経由し、東京駅の前を通って、都庁前まで行っていたが、この年の11月に廃止された。▲江東ゼロメートル地帯でも撮っていた。過度な地下水汲み上げによって、低地の地盤沈下が社会問題化していた。竪川電停付近はその典型で、地盤は海面以下で、いちばん高いところが竪川を渡る都電専用橋の上で、電車は弓なりになって渡って行く。この38系統もこの年の11月に廃止され、6次に渡る都電廃止計画は完了、残ったのは現在でも走る荒川線だけとなった。▲中央線の急行に乗るまでの僅かな時間を利用して、鶴見線にも立ち寄った。私一人では、ここまでの行動力はなく、都電、旧国の好きなF本さんに連れてきてもらったのだった。ここでもクハ16+クモハ11の17m級の国電が、20m車に置き換えられようとしていた。
総本家青信号特派員様
新潟特急「とき」は161系でスタートしましたが私はあまり撮っておらずその後181系ですか、あるいは183系ですかその時の写真はそこそこあります。157系は「ひびき」時代に東京→名古屋間で乗車しましたが、日光準急時代のオレンジっぽい塗装から「こだま」形と同じ塗装になり冷房装置も付けられてそれほど落ちる様な感じはしませんでした。それにしても上京して157系のその後の変遷もよく記録されていますね。都電も東テシ(弁天橋電車区)の16m車もついでにとっておられますが、そのついでが後々無理して行っておいてよかったということはよくありますね。ところで次に出てくる小海線は小淵沢の大カーブで罵声が飛び交ったあの日ではありませんか。
準特急さま
157系は「ひびき」時代から撮っていますが、満足なものはなく、「あまぎ」に転身後も何度か撮りに行きました。大きすぎるヘッドマークが気になりますが、控えめで品のある顔立ちが好きです。「無理して行って良かった」は、後々になって経験します。この時もFさんに“無理やり”連れて来られたようなものですが、そのお蔭で、真夏の都電や鶴見線を記録することができました。はい、つぎは小淵沢ですが、どんなバトルがあったのでしょうか。
総本家青信号特派員さま
真夏の撮影旅行、よくぞ行ったなあとの感慨は全く同感です。小生の場合、取れる休暇の制限もありましたが、追いかけていた国鉄型原色車がそれぞれ末期にはそれこそお盆期間をはじめ、繁忙期にしか走らないという状況でしたから、否応なく暑かったり混雑する時期に「無理して」出かけざるを得ませんでした。20系客車の臨時急行、58系DCの海水浴臨等、165系電車の長編成臨時等々です。映像からは分かりませんが、大きな木の下の日陰に陣取って、安直な撮影をすることも多かったですね。特に情けなかったのは紀勢西線等の砂浜からの撮影でした。気持ちよく海水浴を楽しんでいる人たちを横目に、焼け付くような砂浜を歩き回るのはもう「行」以外のなにものでもないと感じたものです。時には今でいう熱中症からか気分が悪くなったり、ポイントへの往復で大汗をかいて上着のシャツを着替えながらの難行苦行をしていました。今思うと「若かった」からとしか言いようがないですね。
ところで小淵沢ですが、バトルはともかく、C56八ヶ岳号の写真を是非拝見したいものです。その頃入社2年目の小生は身動きがとれず、諦めてしまっていましたので。
1900生さま
そうですね、真夏の撮影ほど辛い撮影はありません。しかも、出来上がった写真は、光線がトップライトで、コントラストが強く、ツブレ、飛びの写真ばかりでした。なかでも海水浴の臨時列車を写しに行くときは、楽しそうな海水浴客を尻目に、ひとり寂しく海水浴場とは違う方角にトボトボ歩いて行くのは、人から見れば“変なオッサン”以外の何物でもなかったと想います。小浜線、宮津線、紀勢線で、そんな思い出があります。