天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【15】

宮原線を行く

前述の熊本訪問のホントの目的は、近くの宮原線の乗車と、後述するバスの撮影でした。宮原線は、久大線恵良から分岐して肥後小国へ至る26.6kmのローカル線でしたが、国鉄の第一次地方交通線に指定されて、昭和59年に廃止されます。全列車が車両基地のある豊後森を始発としますが、全区間を走る列車は、朝夕の一日3往復のみ、豊後森へのアプローチもあって、乗車の難度が高い線区でした。ただ、土曜日だけ通学生の便を考慮して、午後に一往復が設定され、なぜか夏休みでも運転されており、土曜日に合わせて、やっと宮原線の乗車を果たすことができました(以下、昭和51年8月)。
肥後小国に到着したキハ20の単行、乗降客もあり、駅員もいて、手小荷物も扱っていたことが分かる。土曜日の午後だけ見られる、ささやかな賑わいだった。

宮原線のことを初めて知ったのも「青信号」だった。大学に入りDRFCに入会直後に、前年発行の青信号19号を読むと、九州で行なわれた、狂化合宿の記事が一年上のTさんによって書かれていた。そのなかに、宮原線の麻生釣でのキャンプの様子が記述されていて、鉄道好きのみんなでキャンプすることの楽しさを味わった的な内容で、むさぼり読んだことを覚えている。

肥後小国から乗った土曜日だけ走る6228Dは、途中の麻生釣で5分停車する。と言っても棒線駅で交換もできない無人駅で、運転調整の停車だった。付近は、起伏のある高原が広がり、大畑、竜ヶ森の雰囲気で、たしかにキャンプの適地だと分かる。ここがサミットで、あとは緩やかに下った行く。現状をネットで検索すると、この付近は自然回帰が進んでいて、走っていた頃の痕跡はいっさい無いそうだ。

初めて宮原線の列車を豊後森で写したのは、昭和42年で、この時は、まだキハ07だったが、その後、両運のキハ20、40になった。昭和46年まで貨物が運転されておりC11が牽いていたが、貨物は見ずじまいだった。廃線跡は、途中のアーチ橋がよく残っていて、肥後小国から先の未成線もよく残っていると言う。

当時の宮原線時刻表、終点の肥後小国までは、一日3往復だが、土曜日だけあと一往復が走る。

 天然色写真で語り継ぐ あの日あの時 【15】」への2件のフィードバック

  1. 宮原線肥後小国駅となると、なぜか火野正平さんのこころ旅でとうちゃこを思い出しました。番組を見ていると、今は道の駅小国になっていてポイントと少しばかりレール、そして駅名標が残っていました。そして、お手紙の宮原線肥後小国駅での思い出話が印象に残っていました。

  2. 私は肥後小国へ行くのに、豊肥線の阿蘇駅からバスに乗り、外輪山を越えて、小国の街に入りました。そこからの眺めが素晴らしくて、今でも印象に残っています。火野正平が走ると、絵になることが分かります。宮原線は、コンクリート製のアーチが今でもたくさん残っていたり、肥後小国の駅構内もきれいに保存されていると聞いています。

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