ツツジから新緑へ 蹴上を行く
先日の本欄で蹴上のツツジを載せましたが、“これだけ!”と思っていたら、別のところからまた出てきました。今回はポジで、前回はネガ、当時はカラーのネガ・ポジの両刀づかいだったことを、初めて認識しました。いずれもスキャンしてデータ化する過程は同じですが、結果は少し違います。ネガからは軟調に仕上るため、なめらかな階調があり、フィルムの劣化さえなければレタッチに手間は掛かりませんが、ポジからのスキャンは、コントラストが強くて白トビ、黒ツブレがあり、濃淡の調整に手間を要します。今回は、そんな違いも感じながら、5月のツツジ、そして6月の新緑へ移っていく蹴上付近の情景です(以下1997年5・6月撮影)。
▲紅白の幔幕が張られた蹴上浄水場の横を行く、京津線の80形、蹴上には仁王門通に陸橋があって、ここから、京津線がうまく収まった。
▲前回と同じ浄水場から俯瞰した風景だが、ほぼ北の方向を向いている。ここからだと、黒谷から吉田山へ続く丘陵が見え、京都は、高低差の上に広がった街であることが分かる。▲緑も次第に濃さを増すなかに、緑の濃淡の準急が過ぎて行く。右手、南禅寺に通じる、インクライン下の“ねじりまんぽ”が見える。
▲人出の多い時の蹴上は、たちまち狭い電停に乗客があふれる。▲やっと電車が到着すると、下車客もあって、なかなか乗降が捗らず、たちまち遅れが発生する。職員も臨時に出て、切符・料金の収受を行なう。▲上下ですれ違う準急、600形と700形。大津線には当時、260形などの旧型車は残っていたが、京津線には入線はなく、準急は両形式で占められていた。▲蹴上から九条山方面に歩を進めると、最大66‰勾配が介在する山岳区間に入る。短区間ではあるものの、碓氷峠に次ぐ、我が国二番目の最急勾配で、昭和初期に京津線に初めて回生ブレーキ車両を誕生させた。
▲40.7‰の勾配標を見ながら、九条山から山科方面の下り勾配に掛かる。
▲梅雨時ともなれば、アジサイの花も見られた。横を走る三条通のクルマの喧噪さえなければ、一幅の絵だった。▲勾配区間のサミット地点に九条山駅があった。人家は少なく、乗降は極端に少なかった。付近には、旧の東海道が走り、その関連の旧跡や石碑、また東海道に敷かれた“車石”に関する記念碑も残る。
タイミング遅れですみません。懐かしい京津線とツツジの写真を拝見して思わずペンをいやマウスを握りました。蹴上は朝夕の通学生で狭い停留所は一杯でした。今思うとよく転落事故などが起こらなかったものと思います。一連の写真を見ていてハタと想い出したことがあります。2・6葉目の蹴上交差点の写真に関してです。山科・大津方面行の電車の場合、通過する準急の場合は早目に交通信号を赤にする必要がありますが、いっぽう各停の場合は乗降終了を見計らって赤にすればよく、つまり交通信号の赤色現示のタイミングが異なっていました。さてここで問題です。いつもは米手さまから答えやコメントを催促されますので、一度は質問をしてみたいとかねがね思っておりましたから、この件では質問側に回らせて頂きたいと思ってお尋ねします。よろしくお願いします。
暑さのせいか、肝心の質問が抜けました。お尋ねしたいのは「異なるタイミングをどうやって制御していたのでしょうか」という点です。
私も1997年頃、東山五条や蹴上付近で何度か撮りました。地下化後はほとんど乗らなくなってしまいました。1983年頃の写真を張っておきます。三条出たところの陸橋から撮ったと思います。